第9話

「唯華ちゃん、なんか元気ないね」

 佳奈子がもぐもぐと口を動かしながら、覗き込んできた。ショートカットがさらりと流れる。可愛らしい容貌の中で、細い眉が少し中央に寄っていた。

「…そうみえる?」

「うん、とっても」

 心配そうな佳奈子の様子に、誤解させてはまずいと考える。なにしろ久しぶりに一緒にお昼を食べるのだ。佳奈子の気分を悪くさせたくはなかった。

「佳奈子とご飯食べるのが嫌なんじゃないよ。久しぶりのことで、嬉しいし…」

「じゃあ私とは別に、なにか違うことが引っかかってるんだ」

「…うん」

 蒼人のことを言おうか言うまいか、しばらく迷って結局話すことにした。

最近蒼人と一緒にお昼を食べていること、昨日の昼休みのことを順を追って説明した。

「なんなんだろうね」

 佳奈子は顔をしかめたが、すぐににたぁ~っと笑った。

「昨日のことは置いといてさぁ、どうして蒼人君とご飯食べるようになったの?」

「…なにか誤解があるといけないから言っておくけど、蒼人とは友達だからね、友達」

「えー、名前呼び捨てにしちゃってぇ?」

「こ、これは蒼人が名前で呼んでくれって言うから! 佳奈子のことも呼び捨てでしょ。それに昨日のことを置いとかないでよ」

「う~ん、急に逃げ出したのどう思う? って聞かれてもなぁ。唯華ちゃん、なにか変なこと言ったわけじゃないんでしょ。いきなり逃げるなんて、どう考えても蒼人君の方が不審だよ」

 唯華は蒼人に失礼なことや傷つけるようなことをした覚えはなかった。怪我を蒼人に吸われたという変わったできごとはあったが、それだって彼が逃げ出すことには繋がらない。

「ああっ!」

 佳奈子がいきなり大きな声を出すものだから、驚いてお茶にむせた。

「まさか、蒼人君てば…」

「なに?」

「唯華ちゃんの可愛さに、胸がドキュンしちゃったのかも!」

「それは、ないと思うよ」

「可能性としてはありでしょう」

「いや…昨日蒼人から電話があったけど、そんな感じではなかったよ」

「どんな感じ?」

「元気、なかったかな…」

 昨夜、自宅の電話に蒼人から電話がかかってきた。唯華の携帯電話の番号を知っている友達は佳奈子しかおらず、電話番号を手に入れる前に学校を出てしまった蒼人は調べるすべがなかったのだろう。佳奈子も連絡先を簡単に他人に教える方ではないために唯華までたどり着かなかった。仕方なく連絡網で家の電話番号を調べたそうだ。

 誰に聞いても分からないから、スマホ持ってないのかと思っちゃった。

 おどける蒼人の言葉にはいつもの元気がなかった。

「なんて言ってたの」

「明後日、つまり明日だけど、話したいことがあるって」

「へぇ~」

 佳奈子の顔がまたチェシャ猫になったが、蒼人の話したいことというのは多分佳奈子の期待するようなものではないだろう。

 電話での彼の声は落ち着いているというよりは、落ち込んでいるようだった。いちいち声を出すのも躊躇して、唯華が促してやらないと先を話せないほどだったのだ。上ずっているとか、焦っている様子はなかった。

 なんか暗いね。どうしたの?

 大丈夫。唯華は俺のことなんて心配しなくていいんだよ。大丈夫だから。

 そんなことを言われたら、心配するに決まっている。大丈夫の連発は、大丈夫じゃない人がするものだ。きっとそれは、大丈夫じゃないことを悟られまいとして。

 相変わらず佳奈子はニタニタ笑っている。

 誤解は解けそうにないので、唯華は佳奈子をそのまま放っておくことにした。


 ☆


 ぼく、ずっとお兄ちゃんがほしかったの。だから、お兄ちゃんができて、とってもとってもうれしいの。

 その言葉を聞いた瞬間から、滝人にとって蒼人は可愛くて、なにより大切な弟になった。

 滝人が蒼人に初めて会ったのは、いよいよ高校受験という年の五月のことだった。蒼人はまだ幼稚園に入園したばかりだった。

 兄弟が離れて暮らしていたのには、少し複雑な事情がある。

 蒼人の母葵と父碧人が結婚したとき、父の母親、つまり滝人の祖母白妙に子供を作ることは禁止されていた。滝人がいるのだから子供は十分だろうということだった。

 しかし、数年の後に葵に子供ができてしまう。葵は碧人に子供ができたことも告げずに、離婚届を置いて出て行った。なぜ出て行ってしまったのか、その理由は滝人には未だにわからない。祖母だってきちんと説明さえすれば理解しただろうに。父だって、きっと守ってあげたはずだ。

 碧人は五年もかけて妻を探し出し、その時に自分の二人目の子供の存在を知って大喜びしたそうだ。

 滝人が蒼人と一緒に暮らし始めたころ、蒼人は滝人を避けまくっていた。話の途中で逃げられ、常にそっぽを向かれ、無視され、睨まれ、滝人が逆ギレしかかっていたときにあの言葉だ。

 心を金の弓矢で貫かれたかと思った。当時「推し」とか「尊い」とかいう言葉を知っていたら、間違いなく「俺の弟しか勝たん!」などと叫んでいたことだろう。

 蒼人によく話を聞いてみると、いきなり現れた兄がかっこよくて優しくて、話しかけられると「とっても恥ずかしかったの」ということだそうだ。

 それからというもの、滝人は蒼人が可愛くて可愛くて仕方がなくなった。

 なにもできない小さな弟。

 大切な弟。

 だから、俺が守ってやらなくちゃ。

 という思いで、滝人は高校の校門前、車の中で張り込みをしていた。

 自他ともに認める完全無欠のブラコン、ここにあり。

「あ、滝人さん、あの子じゃないですか?」

 後部座席から運転席に身体を乗り出してきたのは、大竹という男だ。滝人が店長を務め、父がオーナー兼経営を務める店のアルバイト店員だ。勤務態度が真面目でできる奴なので、何度も正社員にならないかと誘っているのだが、夢があるからと言って毎回断られている。滝人とさほど変わらない年齢だが、小柄で童顔のために二十代前後くらいにしか見えない。

「ほら、あれ、あの子ですよ」

 大竹が指さす先の女子生徒と手にしていた写真の女の子を見比べる。この写真は蒼人が三年生になって撮影したクラスの集合写真だ。桜の下で、クラスのみんなが笑っている。中でも美貌の蒼人はよく目立つ。今朝、蒼人に小野寺唯華とはどんな奴かと問い詰めたところ、クラス写真を渡されたのでひったくってきたのだ。

 写真のすみっこでにこりともしない女の子と、校門から友達と一緒に出てきた女子生徒はどうやら同一人物であるらしい。

 ちくしょう、薫さんほどではないけど綺麗な子だな。

 すでに蒼人には彼女が好きな女の子だと吐かせているので、どこに向かっているのかわからないヤキモチを焼く滝人だった。

 彼女がなにも知らないまま蒼人が犯罪者になるなんて、滝人には耐えられないことだった。

 君がなにも知らないで、大切な弟が犯罪者になるなんて、そんなおかしな話はないよね。

 滝人は車の中に連れ込まれた唯華に向かってそう言った。

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