第8話

 口に指を突っ込んでも、吐いた物の中に唯華の血が含まれているかはわからない。

 どうしよう。

 いろんなことが頭の中をぐるぐる廻り、蒼人は混乱していた。

 血液強奪。

蒼人が唯華の血を吸った行為の名前だ。それはとても重い罪だ。ヴァンピールに関する法律の中で、ヴァンピールは感染者ではない者に感染させる危険性のある行為をしてはならないと定められている。

 赤血球捕食細菌は感染力が弱い細菌で、傷口を舐めたくらいでは感染することはあまりないが、ないわけではない。赤血球捕食細菌は粘膜感染と血液感染が主だ。そのためヴァンピールは献血や安易な性交渉までも罪とされる場合がある。献血も性交渉ももともと悪いことではないが、感染を広める危険のある行為とみなされれば罪となるのだ。そのうえ一般人からの血液強奪も、罪だ。

 後天性赤血球欠乏性貧血は、赤血球の欠乏により激しい吸血衝動を起こし、やがて自我を失い、他の人間を襲って血を啜ることもありうる危険で特殊な病気だ。しかも、血管に直接細菌が入り込んだとなれば最悪だ。血管内で細菌が増殖し、すぐに全身に回ってしまう。

蒼人が唯華の血を飲んだことが協会の知るところとなれば、きっと罪とみなされる。

 でもそんなことよりも蒼人の頭は唯華のことでいっぱいだった。

 自分のせいで唯華が死んでしまったら。

 トイレの中でうずくまり、蒼人は終業時間までぴくりとも動かなかった。

 



「唯華ちゃん」

 放課後、聡一郎は帰り支度をしている唯華に声をかけた。

 唯華がつっと顔を上げた。聡一郎は憂いを帯びた彼女を、綺麗だ、と初めて思った。蒼人が夢中になるのもわかるくらいの。

「蒼人のこと知らない? どこ行ったかわからないんだ」

 最近二人が一緒に昼食を食べていることは、蒼人に聞いて知っている。今日は昼休みが終わっても蒼人は教室に戻っておらず、まだ行方不明だ。

「…わからない」

 怒ったような顔で唯華は首を振った。

「昼休みの終わりごろに、急に走ってどこかに行っちゃったんだ。私もどこに行ったんだろうって思っていたんだけど」

 怒っているのではなくて、唯華は蒼人を心配しているようだった。なんて難しい人だ。

唯華は真面目な優等生なので蒼人を探すために授業をサボることができなかったのだろう。

「なにか、桑名君は知ってるの?」

 知ってることには知っている。しかし、聡一郎からそれを教えるわけにはいかない。

 聡一郎が、蒼人が後天性赤血球欠乏性貧血という病気だと教えられたのは、中学生になった春、蒼人の口から直接聞いた。

 自分が危険な感染症だと説明するのは、とても勇気のいることだっただろう。その時、蒼人は固く拳を握っていて、聡一郎の目を見なかった。

 僕を信頼して病気だって教えてくれたなら、僕はその秘密を守るし、ずっと蒼人の力になるよ。

 言うと、蒼人は泣きそうな顔で笑ったのだ。

 その顔を見て、心から蒼人の手助けをしたいと思った。蒼人は聡一郎の従兄弟で、大切な親友だ。恋人と蒼人どっちを取るといわれたら、選ぶことなんてできないくらいには大切だ。

 唯華の心配そうな顔を見ると申し訳なく思うが、しかし彼女にヴァンピールのことを教えてはいけないという決まりがあるし、蒼人は聡一郎の口から唯華に病気のことを知らされたくはないだろう。

「どうした、かなぁ。貧血にでもなったかな」

 心配させないように冗談っぽく言ってみたが、唯華は愛想笑いもしなかった。

 唯華は口を引き結んで手元に目を落とした。彼女の細い指のうち、左手の人差し指に絆創膏が貼ってある。

「怪我?」

「うん、ちょっと…」

 唯華は小さく呟いた。その絆創膏をもう一方の手で撫でる。聡一郎の方は見てくれない。

 その様子に、これ以上は話せないと感じる。間が持たない。

「ごめんね、引き止めちゃって。蒼人のことはあんまり気にしないで、具合が悪いんなら自分で保健室に行くと思うし」

 かすかに唯華が頷く。

 聡一郎が教室を出て校舎をくまなく見回ったが、教室に戻ってきた時に蒼人の机に引っ掛けてあった鞄はすっかり消えていたのだった。




 誰とも目を合わさないようにして学校を出て、家に帰った。

 兄に小野寺唯華というクラスメイトの血を飲んでしまった、ということを包み隠さず話した。無意識だったとつけ足したが、滝人は恐ろしい顔のまま表情を変えない。話の途中からだんだん恐い顔になって、ついに蒼人が直視できないほどになった。特に目が恐い。

 蒼人はフローリングに正座したまま、顔を上げることができなかった。

 何分過ぎただろう。

 滝人が長く息を吐き、ようやく口を開いた。

「…どうする、蒼人」

 顔を上げて滝人を見ると、滝人は怒っているというよりも、ものすごく困っているようだった。

「俺には経験がない。対処できないよ」

 その言葉に驚いた。自分が驚いたことにも驚いた。蒼人にとってそれはとても意外なことだったのだ。

 滝人は大人で、格好よくて、頼りがいもあって、蒼人が困っていたり悩んでいたりするときは必ず助けてくれる。そんな存在だった。

 兄でも、どう対処すればいいのかわからない。罪を犯すというのはそういうことなのか。

 重い沈黙が流れる。

 沈黙を破ったのは、義姉の明るい声だった。

「ただいまぁ」

 ドアが開き、廊下をパタパタと歩いてくる音がする。義姉は今日、早晩だったので夕方に帰ってくることができたのだ。

 リビングに入ってくると、薫はソファに座る滝人の膝に飛び乗って、愛しい夫に抱きついた。

「滝人君、会いたかったよ~」

 そして熱烈なキスの嵐。

 こんな状況でもやっぱり二人のラブラブにはげんなりだ。義姉は蒼人がそうなるのをわかってやっているので性質が悪い。ラブラブの波はなんとか耐えて乗り切った。

 熱烈なキスを受けて、滝人は軽く息を切らせている。

「…薫さん、キスはすごーく嬉しいんだけど、空気読んで」

「えー?」

 振り返った薫と目が合った。今日も美人だ。流行の服や髪型がよく似合う。

「あら、蒼人君いたの」

 こんなでかい男子高校生、見逃さないでしょ普通!

 いつもならそんなふうにツッコんでいるところだが、さすがに気持ちに余裕がないので頭も回らず「うん」と頷くことしかできなかった。

「あら? やけに素直」

 薫は少々つまらなそうに言う。

「蒼人君をからかって遊ぶのが私の趣味なのに」

「…そんな趣味は俺に迷惑です」

 やはりいつも通りに歯切れよく言えない。薫はようやく蒼人の様子がおかしいことに気づいたのか、怪訝な顔で見つめてくる。

 薫の華やかな美貌で、それとはまったく違う唯華の静かな顔を思い出した。

 一番考えたくないことを、思い出した。

 目が熱い。鼻の奥がツンと痛む。

 弾かれたように立ち上がって、自分の部屋に引っ込んだ。閉めたドアにもたれて座り込んでしまう。膝に顔を埋めてじっとしていると、頭の中は唯華のことでいっぱいになった。

 唯華。

 蒼人が初めて好きになった女の子。

 仏頂面で冷たくて、でも本当は笑った顔がとても可愛い。冷たいというのは少し不器用というだけで、誰よりも優しい、すてきな人だ。

 優しく笑いかけてくれた二年前のあの日から、蒼人はずっと唯華に恋をしていた。

 二度目の笑顔で、やっと自分の気持ちの名前を知ったのに。

 唯華が、近い将来死ぬかもしれない。

 蒼人のせいで。

 その思いが心を深くえぐる。胸が苦しくて、痛んで、瞼に熱い涙がにじんだ。子供みたいな嗚咽が口から漏れたが、気にする余裕などなかった。

 蒼人は、母を思い出さずにはいられなかった。


 母の名前は神田葵という。蒼人が十歳のときに亡くなった。

 母はヴァンピールだったが、それが原因で亡くなったのではなく、蒼人が生まれたときに病気にかかってそれがもとで亡くなったそうだ。

 父は母の死についてなにも話してくれなかった。どうして母が死んでしまったのか、聞いてみてもなにも言わず、優しく頭を撫でてくれた。蒼人が母の死因について知っているのは、母方の祖母がそう言って泣いているのを聞いてしまったためだ。

 否定をしてほしかっただけだった。

 自分が生まれなければお母さんは死ななかったと思わずにはいられなかったから。

 なにも言わずとも、父も本当はそう思っているのだろう。蒼人が葵の死の原因だと。だから母が亡くなった後から父とはどうにもギクシャクして、父は蒼人を避けるようになったのだ。

 母方の祖父母にも、きっと嫌われている。

 母の葬儀中、蒼人は母方の祖父母の家に預けられていたことがある。葬儀で慌ただしい家の中にずっといるよりは、同じ年の遊び相手がいるところにいた方がいいだろうという兄の判断だった。落ち込んだ父を支えるのに、まだ学生だった兄も大変だったのだ。父方の祖父母も客の対応に追われていた。蒼人にかまっている余裕はなかった。

 その夜、聡一郎に誘われて、蒼人は夜更かししてゲームをしていた。聡一郎も幼いながらに親友を慰めようと頑張ってくれたのだ。

 夜遅くに祖父母か帰ってきたのがわかった。玄関先で祖母がなにか叫んでいた。

部屋のドアを少し開けただけで、それはよく聞こえてきた。

「どうして、葵はあんな子供を作ったの。あんな化け物、いっそ皆殺しにしてしまえばいいんだわ。葵は殺されたも同然よ」

 そう言って、祖母は泣き崩れたようだった。

 ドアを閉めて、蒼人も泣いた。その時にはもう自分の病気のことを理解していたから、余計に傷ついたのだ。

 母が死んだ原因は自分にあると幼い蒼人は強く思い、今でもそれは変わっていなかった。

 みんなに嫌われても仕方がない。だって僕はお母さんを殺したんだから。

 本当は自分に自信なんてないのだ。みんなに嫌われることがとても恐くて、だからこそ自信に満ち溢れる自分を演じてしまう。そうすればみんな蒼人を好いてくれる。いま蒼人を嫌っている人も、いずれは好きになってくれるかもしれない。

 でも、お母さんは?

 最後に笑って、蒼人を愛していると言ってくれた母は、本当に愛していてくれたのだろうか。心の中で蒼人を罵っていたのではないだろうか。

 唯華もそんなふうに蒼人を嫌うのだ。唯華は優しい人だから、露骨に蒼人を嫌う素振りなんて見せないだろう。きっと「感染したのは蒼人の病気のせいであって蒼人のせいじゃない」なんて言うのだ。

 唯華はそういう人だ。少しでも一緒にいればすぐにわかる。

 表面は優しく接されて、心の中で嫌われる。

 いっそ全てをかけて嫌ってくれた方がましだ。そうは思うものの、唯華に嫌われるのはやはり辛い。

 涙はなかなか止まらなかった。


「話は聞いたよ」

 ふっと背中が涼しくなった。振り返ると、薫がドアの取っ手に手をかけたまま立っていた。もう片方の手には絞ったタオルを持っていて、渡してくれた。

 とりあえずちゃんと座ってと薫に手を取られ、引きずられるようにしてベッドまで歩かされて、座らせられた。

「少しは落ち着いたの?」

 確かに、泣いたら少しだけ落ち着いた気がする。蒼人はタオルを顔に押しつけた。泣いた後の火照った顔に、冷たいタオルは心地よかった。

 隣に薫が座った。

「で、どうするつもり?」

 薫は少し恐い顔で見つめてくる。

 泣きながらいろいろ考えて、蒼人はすでに決心していた。

「俺が、話さなきゃ」

「うん?」

「俺がなにをしたのか話して、ちゃんと謝らなきゃ。俺がしたことなんだから、嫌われたって、殴られたっていいんだ。唯華にはちゃんと説明しないと」

「その唯華ちゃんっていう子は感染してないかもよ」

「感染してるかしてないかは関係ないんだ。結果がどうであれ、俺がしたことはやってはいけないことだから。それに唯華には検査を受けてもらわなくちゃいけないでしょ。そうしないと感染してないってこともわからないんだから」

「自分で責任取るってことね」

 頷くと、薫はほっとしたように微笑んだ。

「ああ、よかった。蒼人君にまで『捕まったらどうしよう』なんて泣きつかれたら怒っちゃうところだったわ。まったく滝人君ときたら…」

「兄ちゃん?」

「そうよー、相手の女の子なんてまったく眼中になし。大事なのは蒼人の方だーって。君たちって本当にブラコンよねぇ」

 そう言って薫に怒られている滝人の姿が目に浮かぶようだ。

「ま、いきなり血を目の前にして、飛びついた蒼人君の気持ちもわからなくはないわよ。ヴァンピールにとって他人の血液は麻薬みたいなものだし。じゃあ、今から支部に行って申請書を取ってくるわ。あ、私は蒼人君の事情を知らないことにしていていいわね」

「うん、ありがと義姉さん」

「やることやったんだから、結果に責任持ちなさいよ」

 からかいの口調で薫が言った。

「わかってる」

 真面目に返すと、薫はつまらなそうに口を尖らせる。

「子供できちゃったみたいに言わないで、くらい言ってよ。まだまだねぇ」

 余裕を取り戻すにはまだまだだった。

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