第7話

 次の日、弁当のおかずはハンバーグだった。蒼人のリクエストだ。昨日は唯華の方から「明日はなんのおかずがいいの」と聞いてしまった。蒼人と友達だと認め合った後だ。

 今朝もはりきって弁当を作ってきた。調理中、またしてもうきうきしている自分に気づいて、何をそんなにはりきって、とツッコんでみたがその理由はわかっている。

 友達ができて嬉しくて、だからその友達にもできる限りの事をして喜んで欲しかったからだ。蒼人の喜ぶ顔を想像して、一人でニヤついていた。

 化学実験室に蒼人はまだ来ていなかった。教室を出てくるときに蒼人は友達と話をしているようだったので、先に来た。

 唯華はいつもと同じ席に座って蒼人を待った。

 数分すぎて不安になってきた頃に、やっと蒼人が顔を出した。

「ごめん、遅くなった!」

 蒼人が唯華の隣の席の椅子を引きながら言った。

「そんなに待ってないよ」

 本当のことを言ったのに、蒼人は残念そうな顔で椅子に座った。

「私も今来たところよっていうベタな答えを期待したんだけどなぁ」

「事実だからね」

「もうちょっとノリよくいこうよ」

「神田君のノリがよすぎるんだよ。ちょっと馴れ馴れしい」

 蒼人がむっと顔をしかめた。

「俺のどこが馴れ馴れしいって?」

「ただのクラスメイトなのに下の名前呼び捨て、とか…」

 恐ろしいほどの美形なだけに、蒼人の怒った顔は本気で恐い。思わず言葉が尻すぼみになってしまった。

 顔をしかめたまま蒼人が言う。

「唯華の場合、唯華が名前で呼んでいいって言ったんだよ」

 まったく覚えがない。

「いつ?」

「一緒の週番の時だよ。教室に二人でいて、唯華が日誌書いてて、俺がそれ見てて、『これから一緒に週番やるんだから、打ち解けるためにもここはひとつ名前で呼んでもいいかな』って聞いたら唯華は『うん』って言ったよね」

「…そんなこと、言われたっけ?」

「覚えてないの?」

 蒼人はとてもショックを受けたようだ。唯華は蒼人が話した状況を頭の中で再現してみる。

「日誌書いてたから、神田君の話はあんまり聞いてなかったんだと思う。それで最後の『いいかな?』だけ聞こえて、つい『うん』って言っちゃったのかな」

「ひどい! じゃあ何、俺は今まで唯華に勝手に名前を呼び捨てにするような馴れ馴れしくて軽い奴って思われてたの?」

「…ごめん」

 その謝罪は蒼人の言葉を肯定していた。事実なんだから仕方がない。

「こんなにひどい唯華には罰則だな」

「罰則?」

 聞き返すと蒼人は、よく聞きなさい、というふうに顔の横で人差し指を立てた。

「唯華も俺のこと名前で呼ぶこと」

 罰則の内容を聞いて呆れた。

「神田君、恐い顔してるけど実はたいして怒ってないでしょ」

「神田君じゃなくて、蒼人でしょ」

「別に呼び方なんて」

「蒼人でしょう」

 青空色の目がマジだ。

「…蒼人、君」

 ためしに呼んでみたが、蒼人は納得しない。

「あーおーとー」

「…蒼人…君」

「あ!お!と!」

 なんというキツい罰則だろうか。クラスの女の子の下の名前ですらちゃん付けするのも精一杯の勇気を振り絞らなければならないのに、男子を名前で呼べるわけがない。

「…蒼人…」

 懸命に君付けをこらえていると、顔が熱くなるのがわかった。

「大きな声でもう一度」

「うざいっ!」

 うざいにもう勘弁してくださいという意味を込めて。

 しばらく睨み合っていたが、突然蒼人がプッと吹きだした。唯華もつられてしまう。

 すごく下らなかった。蒼人はそれが下らないと分かっていて、怒ったふりをしていたのだろう。唯華はそれにノッてしまったのだ。

 なんてバカバカしい。それが理由もなく面白くて、唯華は声を上げて笑ってしまう。蒼人も同じように笑い声を上げ、それがおさまると目元を拭った。笑いすぎて涙が出てきたようだ。

「唯華ってそんなふうに笑うんだね」

 顔が緩んでいることに気づかされて、唯華はすぐに口を引き結んだ。

「もー、そんな顔しないの」

 蒼人の両手に頬を挟まれた。

 男の人の手だ。手のひらは広く、長い指は硬くてごつごつしていて、冷たかった。

 なんだか強制的に蒼人が男の子なんだと意識させられた。今までだってちゃんとわかっていたのに、自分と同じところと違うところを見つけて実感した。

「うりゃ」

 蒼人は親指で唯華の口角を押し上げてきた。

「あ、かわいい」

「どこがっ!」

 絶対に滑稽な顔になっていることが予想される。蒼人の手を振り払おうともがいたが、力でかなうはずがない。もがくほど蒼人は口角を押し上げてくるので、ついに話せなくなる。

「んむーっ」

「あははは、かわいい~。やっぱり笑ってた方が…いてっ!」

 友達とはいえ、蒼人は男の子だ。女の子とのスキンシップとは何かが違う。また顔が熱くなってきた。それを悟られたくなくて、早く放して欲しいために唯華は蒼人の二の腕を袖の上から思い切りつねった。

「いっ、いたっ! 痛いって唯華! そこ人体で一番弱いところだから! わかった放すから! ほら放した!」

 蒼人が放してくれると同時につねるのをやめてやった。まだ顔が熱いので蒼人に見られないように顔を背けながら、唯華は紙袋から弁当を取り出して蒼人の前に叩きつける。ほんの十分程度のやり取りでなんだかとても疲れた。

「いってー…」

 蒼人は袖をめくってつねられた場所がどうなっているか確認していた。そっと横目で見てみると、爪が食い込んだ痕がくっきりと赤くなって残っていた。モヤシっ子で肌が白いだけによけい目立つ。蒼人は涙目になっていて、とっさにつねってしまったことが申し訳なくなってきた。

「痛かった?」

「まだじんじんする」

「ごめん」

「まぁ、俺も悪かったし。三対七くらいで」

 蒼人が弁当の包みを解き始める。

「私が三?」

「俺が三! 唯華は手ぇ出したんだから七!」

 いくら恥ずかしかったとはいえ、先に手を出した方が悪い。

「ごめん」

「そんなに謝んなくてもいいよ。でもまだ痛いから、優しくさすってくれるととっても嬉しいな」

「は?」

「いや、なんでもないです」

 いったんは顔を背けた蒼人だが、数秒後には覗き込むようにして唯華を見つめてくる。

「今度はなに?」

「また笑わなくなっちゃった」

 つまらなそうに言った。

「私がいつ笑うかなんて、私の勝手でしょ」

「まあね」

 息を抜くように蒼人が笑う。ころころと自然に表情を変えることができる蒼人が少し羨ましい。でも蒼人のように表情がくるくる変わる自分というのもなんだか恐い。

「あんまり笑わないの、唯華のいいとこかも」

「え?」

「唯華がたまに笑うの見ると、すごく得した気分になるんだよね。少し食べただけで幸せになれるチョコレートみたいな感じ。たくさん食べると口がおかしくなっちゃうから、ちょっと食べるのがいいんだよね」

「…なに、それ」

 ついツンとした言い方になってしまう。

「んもー、唯華ってチョコはチョコでもビターだよなあ。でも甘すぎなくてたくさん食べられるから、俺はビターの方が好きだけどね」

 首を傾げて冗談を言うように蒼人は笑った。

 自分の笑った顔が見る人をお得な気分にさせる。そんな効能があるとは知らなかった。

 自分の嫌なところならば山ほど見つかる。でも友達のいいところをなんでもないようにさらっと教えてくれる蒼人のそういうところは、とても好きだと思った。


 弁当を食べ終わると、蒼人はトリュフチョコをくれた。最初の日はマーブルチョコ、次の日はチョコチップクッキーだった。

「さっきも言ってたけど、チョコレート好きなの? …蒼人って」

 名前で呼んでみると、蒼人がぱっと笑った。名前で呼んでもらうことが好きなのだそうだ。

「うん、大好き。チョコは身体にいいんだよ」

「ポリフェノールとか?」

 チョコレートに含まれている身体にいい成分といえばそれしか知らない。

「それもあるけど、正解は鉄分。女の子はいっぱい摂取しなきゃ」

「どうして?」

 女の子と鉄分がどこで繋がっているのかがよくわからない。

「どうしてって、女の人は月経による出血で一日に0.四から一ミリグラムの鉄の喪失があるから」

 淡々と蒼人が言う。月経という男性が口にしづらいワードもなんのそのだ。

「だから赤血球のヘモグロビン値が低下して、貧血になりやすいんだよ。男より気をつけなくちゃね」

 ちょっと引いてしまうくらい真剣に蒼人が見つめてくる。

「わかったけど、月経とかって…」

「なんで? 男にとっても大切なことだと思うよ。どういうことなのかちゃんと知ってるわけ?」

「ちゃんとと言うと?」

「月経とは、一定の周期をもって反復する子宮内膜からの出血。初潮は思春期で、閉経は更年期。月経血の全体量は平均五〇から六〇グラム。子宮内膜はホルモンの支配を受け、増殖期、分泌期、月経期を繰り返す。子宮内膜の変化は受精卵が着床しない限り繰り返される。ちなみに排卵は性周期の十四日頃に起こる成熟した卵胞から卵子が輩出される現象を指しますってこと」

「…すごいね」

 そんなふうに簡単に言ってもらえると理解も早い。

「すごいねって、女の子が女の子のこと知らなきゃダメでしょ!」

「なんで怒るの!」

「まったく、日本の性教育はなってないよね。二年の時の授業なんかさ、こういう女の人の身体の仕組みはさらーっと流して避妊の方法ばっかりやたら詳しくやるんだもん。避妊すれば高校生でもエッチしていいんですかーって話ですよ! 高校生の小遣いでできる避妊なんて一〇〇パーセント安全じゃないんだから!」

「熱いな」

「すべての子供は望まれて生まれてくるべきなんだから。唯華はそう思わない?」  

「思う。だからとりあえず落ち着け」

 蒼人は口を噤んで顎を掻いた。

「ちょっと熱くなりました」

 反省したのか、ぺこりと頭を下げられた。

「いや、そういうことで熱くなれるのはいいことだと思うよ。それにしても、さっきの長台詞には驚いたよ」

「暗記は得意なんだよ。将来は俳優になりたいんだ」

「なれそう」

「俺の記憶力と美貌があれば簡単さ。あとは演技力だけだ」

蒼人がわざとらしくウインクをする。その様子を見ていて、彼がそういうふうに振舞っているのだとわかった。だって彼は将来いるであろう自分のパートナーや子どものことまで考えられる人で、ただの馬鹿であるはずがなかった。話していると彼の考え方は何についても理路整然としている。

「蒼人って、頭いいね」

「えー、勉強とかできないよ」

「勉強ができるとかできないとかじゃない。私、どうしても蒼人が馬鹿っぽく振舞っているようにしか見えないんだ」

 蒼人は急に自分の悪事が言い当てられたときの子供のように、落ち着きなく視線をさまよわせた。戸惑っているのか、ややどもりながら口を開いた。

「な…ど、どうしてそう思うの」

「わざとらしいことが多すぎるの。『わざと』はやろうとしなきゃできないことだよ」

「それは気づかなかったな。ばれちゃったか」

 心の底から嬉しいというように蒼人は笑った。

「ありがとう」

 思わず目を逸らした。ときめいてしまうくらいの綺麗な笑顔だった。

 蒼人は友達。蒼人は友達。自分にそう言い聞かせる。

「なんで、お礼なんて…」

「フリだろって言ってくれたの、唯華が初めてだよ」

 変わった。

 彼の雰囲気が変わった。

 でもなにが変わったのだろう。

 なんだか落ち着かない。

 時計を見ると、もうすぐ昼休みが終わり、そろそろ予鈴が鳴る時間だ。

「私、教室に戻るよ」

 紙袋に空の弁当を入れて、席を立とうとする。

「あ、明日のお弁当はなにがいいの?」

 唯華は中途半端に立ち上がったところで蒼人を振り返った。だが、なぜか目を見ることができない。

 落ち着きなく机の縁を指でなぞっていると、指に鋭い痛みを感じた。

「いたっ!」

「どうしたの?」

「指、切った」

 机の縁がささくれていて、それで切ってしまったのだ。左手の人差し指に傷ができていて、小さな傷だったが出血はなかなか止まらない。

 とっさに傷を舐めようとして持ち上げたその手は、蒼人の手に捕まった。

 蒼人は唯華の手を引き寄せて、流れた血を舐めた。それから傷をくわえられる。傷に押しつけられた舌先が動くたびに傷は熱く痛んだ。

 手を引っ込めようとしたが、蒼人の手が強く手首を締め上げてきて、放してはくれなかった。出血が止まってくると、傷をきつく吸われる。

 予鈴が鳴った。

 蒼人はその音で我に返ったのか、顔を上げ、やっと手を放してくれた。

「蒼人?」

 彼の顔は真っ青だった。ゆっくりと自分の唇に触れる。

「俺、まさか」

 言うや、蒼人は手で口を押さえ、のけぞるようにして立ち上がる。そのままの勢いで回れ右をし、椅子を蹴倒して化学実験室から駆け出して行った。

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