第5話
蒼人は帰りのバスの中で小さくため息を吐いた。
お昼休みにのり巻を美味いと言ったとき、唯華は嬉しそうに笑った。
心が貫かれた。心臓がびっくりするくらいドキドキして、顔が熱くなって、唯華のことが好きだと思った。
唯華が好きだ。
恋だとはっきり自覚した。
そのため、唯華と話している最中、自分でも不自然だと思うくらいにテンションを上げてにうざいと思われたのではないだろうか。
でも自分をどう思っているか予想のつかない相手に自分の気持ちが流出することは避けたくて、いろいろ考えて言葉を選んで馬鹿みたいに「明るく」を心がけたら、うざい感じになった。
しかも好きな女の子に「友達になりましょう」なんて間抜けもいいところだ。
だけどその後、からかったら可愛い反応が見られたのでまぁいいか。
「なにがまあいいか、だよ。蒼人、俺の話聞いてなかっただろ!」
前の席から後ろを振り返って喋っていた親友の桑名聡一郎が口を尖らせた。バスの中には他に乗客がいなかったので声のボリュームに遠慮がない。
蒼人も負けじと口を尖らせてみた。
「だってさぁ、ノロケ話なんて聞かされても面白くもなんともないし。それなら自分の悩み事で悩んでた方が時間を有効に使えてると思わない?」
最近、昼飯が一人ぼっちだったのは、実は聡一郎に恋人ができて、二人の世界に蒼人が入っていけないためだった。聡一郎が今日は珍しく一緒に帰ろうと言い出したのは、恋人である彼女が授業を早退して二人で帰れなかったためらしい。
蒼人としては、一番信頼している親友を取られたような気分である。決して彼女へのヤキモチというわけではない。
「ノロケなんかじゃ」
「彼女と放課後デートしたってことを微に入り細に入り俺に話しちゃうののどこがノロケじゃないって?」
「聞いてるじゃん!」
「当たり前だろ。聡一郎の話なら、どんなに下らないことでもちゃんと聞くよ」
デートの内容は聞き飛ばしたが、話の内容はちゃんと理解している。聡一郎が会話の相手でなかったら、そもそもノロケ話なんかにつきあわない。一対一で話をすることすらほとんどないのだ。
大勢の中の一人でいたい。しかしこの容姿ではそうもいかない。だから蒼人はみんなに平等に、軽く浅く、面白可笑しい奴だと思われるように演じている。
「下らないって…お前っていい奴なんだかむごい奴なんだかわかんないよな」
「基本的にいい奴でしょ。踏み込んだこととか聞かないし」
「そのせいで二年以上付き合いのある奴でも住んでる所すら知らないってことあるんだろ」
「困ったことないし。俺、聡一郎としか遊ばない」
興味がない奴にはとことん興味がない。でも、当り障りないように。それが蒼人だ。
聡一郎は苦笑いした。
「いっつも同じ野郎とばっかりつるむってのもなぁ」
「俺の病気を理解してくれてる人じゃないと、俺の親友にはなれないの。俺が急にぶっ倒れても対処できないだろ」
「まあ、そうなんだけど」
「俺は俺のこと理解できない人と関わり合いになるのが恐くて恐くてしょうがないの」
「そうなんだろうけど」
病気のことを盾にされると聡一郎は何も言えなくなるということを、蒼人はよく知っている。
なにも言えなくなった聡一郎は蒼人にも聞き取りづらい声でなにかをぶつぶつ呟いている。
「聡一郎には感謝してるよ。苦労かけるねぇ」
「まったくだ」
「ありがとな」
聡一郎は呆れたように息を吐いてちょっとだけ笑った。
「そういう素直なとこ、結構ずるい」
素直に認めるべきを認めて、感謝や謝罪ができること。それは小さい頃に母によくしつけられたことだ。
その素直さのせいで相手がとまどったり苛立ったり、呆れたりするということを蒼人はよく知っている。
一番の被害者が聡一郎だということも、よく知っている。
郊外にある、一つの街のような巨大なマンションが蒼人と蒼人の兄夫婦が暮らす家である。
バス停で聡一郎と別れ、マンションに入った。聡一郎はあと二つ先のバス停で降りることになっている。
蒼人はエレベーターに乗り、十五階で降りる。
家のドアまで歩いて行き、取っ手を回したがドアは開かなかった。鍵を鞄から取り出す。チェーンは掛かっていないので、ドアはすんなり開いた。
「ただいま~」
スニーカーを脱ぎながらリビングにいるであろう兄に聞こえるように言ったが、兄から「おかえり」の返事はない。鍵も掛かっていたことだし、出かけたのだろうかと考えながらリビングに入ると、兄の滝人がソファから起き上がってあくびをしていた。どうやら今まで眠っていて蒼人の声で目が覚めたようだ。
「あぁ、おかえり蒼人」
「…ただいま」
蒼人と滝人はよく似ていた。顔も体つきもほとんど同じと言ってもいい。後姿では義姉もちょっとだけ迷うという。二人とも父親似なのだ。声も似ていて、蒼人が少し高いくらいだった。
ただ、目が違った。滝人は切れ長の涼しげな黒の瞳。蒼人は猫のようにつり上がった青と茶色に彩られた瞳。父によると、どちらも目だけは母親似らしい。滝人の母は父の前妻で、交通事故で亡くなっている。その後に父は蒼人の母に出会った。
自分とよく似た兄を見ていると、まるで自分を見ているようだ。
なんだか落ち着かない。
滝人が下着一枚でソファに座っているからだ。でもまずはそこにはツッコまない。
「義姉さんは?」
「仕事に行った。今日は遅番なんだって」
義姉の神田薫は市内の大学付属病院に勤める看護師だ。勤務時間は一定ではない。
「今日はちょっと寒かったね」
「そうだなぁ、もうすぐ梅雨だし。梅雨って、じめじめして嫌になるよ」
「寒いのに、何故パンツ一丁?」
「ん?」
「パンツ一丁の兄ちゃんに迎えられても、嬉しくないんだけど」
滝人は拗ねたような顔をした。
「俺だってもう結婚して二年経つし、子ども欲しい。なあ、蒼人は甥っ子と姪っ子どっちがいいの?」
「え? う~ん、姪っ子かな。親戚に女の子少ないし…って今はそんなことどうでもいいから早く服着ろよバカ兄!」
「おお、ノリツッコミ」
滝人は楽しそうに笑って床に脱ぎ散らかした服を身に付け始めた。
実を言うと、蒼人は初め兄夫婦と暮らすのが嫌だった。二人に迷惑だからとは思っていない。二人は蒼人をとても可愛がってくれて、滝人にいたっては完璧なブラコンで迷惑だと思っていないことは態度で分かる。
何故嫌だったかというと、兄と義姉があまりにも愛し合っていて、結婚生活も二年目に突入したというのに今でも新婚気分で、蒼人はその度を越した甘すぎる雰囲気にげんなりするのである。
二人のことは嫌いじゃない。でもおはようのチューとかは俺の見ていないとこでやってくれ、というのが正直なところだ。
「まったく昼間っから」
何をしていたかはもう分かっているので、蒼人は常識的に呟いてみる。服を着終えた兄がちょっと口を尖らせた。
「可愛い弟に気を遣ってるんだろ~」
「じゃあ俺が帰ってくるまでに服着るとこまで終わらせといてくれます? 俺、そのソファに座るの、なんか躊躇しますよ?」
「薫さんがおやつにプリン作ってくれたのあるけど食べる?」
「それは食べたい!」
マイペースを装って滝人が話の流れを無理やり変えたので、素直に乗っておくことにした。滝人と薫は夫婦だ。どんな性生活を送ろうが弟に口出しされる筋合いはない。
それにあまり言うと機嫌の悪くなった滝人に義姉のプリンを取り上げられる危険性もある。義姉は料理は下手だが、お菓子を作るのは何故か上手だ。プリンもかなりおいしい。
滝人がプリンを持ってきてくれたので、蒼人はガラステーブルを挟んでソファの向かい側の床に座った。滝人は蒼人にプリンとスプーンを渡してからソファに座る。
蒼人はネクタイを外し、開襟シャツの第一ボタンを開けて楽になってからプリンを食べ始める。冷たいプリンは甘くて美味しかった。
滝人がプリンを食べながら言った。
「蒼人、今日はずいぶん真面目な格好で学校に行ったんだな。ついに顔を隠すのは諦めたか。その美貌でモテモテになろうって魂胆かな?」
「だらしない格好してると性格もだらしなく思われるって言われたんだよ」
そう言われたのは昨日唯華に弁当をねだった後だ。
真面目そうな格好をしている人は真面目に見えるし、だらしない格好をしている人はだらしなく見える。そして私はだらしないひとは嫌い。
そんな話をしたのだ。言われてその日に髪を切りに行ってしまった。制服だってきちんとした。唯華に好かれたいという下心ありすぎだと恥ずかしくなる。だけど唯華にはその下心にちょっとくらい気づいて欲しい。自分がだらしない人は嫌いと言った次の日に男子が真面目風に整えてきたその意味をもうちょっと考えてくれないだろうか。
「あ~、好きな女の子に言われたんだろ」
顔を上げると滝人がニヤニヤ笑っていた。そんなふうに笑うとまるで狐だ。
「俺が薫さんと初めてキスしたのが十八歳だもんな、蒼人だって好きな女の子の一人や二人いてもおかしくないよなぁ」
「一人です!」
「あ、いるんだ」
「はうっ…」
見事に誘導に引っかかった。家族だからって油断ならない男だ。兄は気を張らずに話せる人なのだが、たまにこういうことをしてくる。無性に悔しい。
「で、どんな女の子?」
蒼人はプリンに集中するふりをしてみたが、しつこく聞かれていいかげんうざくなって「可愛い人!」と言ってしまう。
「具体的に」
吐けよ。
滝人の笑顔がそう言っている。兄の笑顔にはたまにものすごく迫力があるから恐い。でも怒った顔は綺麗なだけにもっと恐いのだ。それはあまり見たくない。
ここは兄が満足するように正直に言っておくのが賢い選択だった。
「可愛くて綺麗な人。人づき合い苦手で不器用だけれど、すごく優しくていい子だよ、うん…」
「そうか」
兄の表情が優しくなった。蒼人は金縛りから開放された気分になる。
しばらく沈黙があって、今度兄は真剣な顔で言う。
「振られるならいい。けど、途中で諦めるなよ。頑張れ」
「う、うん」
その言葉は真剣すぎて、蒼人はつい目を反らしてしまった。
からかったり弟を罠にはめてみたり、恐くなったり優しくなったり、真剣になったり。兄のこういうところが少しだけ苦手だ。
義姉に言わせればそんなところも「兄弟でそっくり」らしいが、自分は兄ほどではないと思っている。
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