第4話
「唯華ぁー!」
「わぁっ!」
科学実験室に入ると人が横から飛び出してきて、唯華は驚いて悲鳴を上げつつ、思わずそいつの鳩尾めがけて拳を突き出した。
「ぐふっ!」
奇声を上げて大げさに崩れ落ちたのは蒼人だった。
「ク…クラスメイト同士のちょっとしたスキンシップなのに…」
顔を上げた蒼人の目には涙が浮かんでいる。大げさではなく、唯華の拳はいいところに入ったようだ。
「いきなりで、つい拳が」
「俺、モヤシっ子なんだから簡単に死んじゃうかもしれないよ?」
のろのろと蒼人が立ち上がった。
謝ろうかと口を開いたが、自分のほうには非はないと気づいてごめんなさいとは言わずにおいた。
「人間、きっとそんなにヤワじゃない」
「まあ、これくらいでは死ねないけどさぁ」
「神田君がいきなり飛び出してきたからびっくりしたの」
「ごめんね」
意外なほど素直に謝られて、気持ちが落ち着かなくなる。
「殴った私も悪いから…ごめんなさい」
うっかり謝ると、蒼人は安心したように笑った。その顔のまま唯華の持っていた紙袋を指先でつついてくる。
「一件落着ということで、お昼にしませんか?」
「あ、そうだったね」
二人で昨日と同じ席に座ったが、梅雨前の安定しない気候のおかげで少し肌寒かった。窓の外はどんよりと曇っていて、今にも雨が降りだしそうだ。
持ってきた紙袋の中から弁当を二つ取り出して、大きいほうを蒼人に渡す。兄が高校生のときに使っていた弁当箱だ。
蒼人は嬉々として包みをほどき、弁当の蓋を開けて中身を確認すると、勢いよく唯華の方に顔を向けた。
「唐揚げは? 今日はそれだけを楽しみに学校に来たのに!」
「なにしに学校に来てるの?」
弁当の中身はのり巻だ。成長期の男子にも十分なくらいにみっちり詰めてやったので、のり巻の具材が見えない。
「嫌なら食べなくてもいいよ」
「いえっ! いただきますっ」
蒼人は弁当を守るように唯華から遠ざけた。箸を無視して急いでのり巻を指でつまみあげた。そんなに焦らなくても誰も取り返したりしない。
「うわっ、具が唐揚げ!」
蒼人の表情がぱあっとほころんだ。こんなふうに驚かせてみたくてのり巻に工夫してみたのだが、どうやら成功のようだ。彼はのり巻を口に放り込み、よく味わって飲み込んだ。
「しっとり系の唐揚げかぁ。すっごく美味しい」
言いつつ、蒼人はわざとらしくウインクを決めた。なかなか様になっている。彼のウインクはあからさまで、喜んでくれていることが分かり易すぎだった。
「神田君はファンサが上手なんだね。美味しいなら、よかったけど、ファンサはファンの子にしてあげてね」
言うと、蒼人はウインクして微笑んだまま顔の筋肉をこわばらせて固まった。
うわぁ、変な顔。
蒼人はいきなり弁当に目を戻し、一心不乱にのり巻を口に詰め込みはじめた。一体どうしたのだろう、彼の頬が赤くなっている。
唯華がのり巻を半分食べ終えたところで、蒼人は長く息を吐いて「ごちそうさま」と言った。唯華の方を向いてもう一度ごちそうさまと言う。頬はもう赤くない。
「おいしかった」
「よかった」
蒼人は自分の指についたご飯粒を食べているところだった。
彼のそういう仕草はなんだかとっても…。
「神田君て、いやらしいね」
「は? なに急に!」
彼は目をむいて反論してきた。
「いやらしいって、こんな純粋な男の子ほかにいませんけど!」
「ちょっと間違えた。いやらしいじゃなくて色っぽいって言いたかった」
「それって、褒め言葉なの?」
「たぶん」
蒼人は複雑な表情で弁当箱を包み直した。今日はやけにころころ変わる表情がよく見える。今さらだが彼の髪が少し短くなっていることに気がついた。
「今さらだけど、髪の毛切ったんだね」
「ん、うん、いい加減邪魔だったし」
前髪を上げなければ顔が見えないということはなかったが、蒼人の髪はやや長めに整えられている。見た目だけは十分な好青年だ。髪型をちょっと変えただけで好青年になれるとは、美形はお得なのだ。
「どうせなら、コンタクトもやめたらいいのに」
蒼人の瞳は今日もきれいな青空色だった。瞳の青空色と髪の黒、肌の白は蒼人の美貌をより際立たせている。
「コンタクトって…?」
呟いて、蒼人は不思議そうに首を傾げた。
「…ああ、唯華は知らないのか。俺ってミックスってやつなの」
「でもミックスの人じゃ目の色は黒とか茶色…じゃないの?」
「そうなの?」
「生物の授業で習ったでしょ。顕性の法則って。柳井先生の雑談だったけど」
蒼人はちょっと顔をしかめて顎を掻いた。
「んーとね、正確に言うと、父さんと母さんもミックスなんだよ。父方のおじいちゃんがフランス人で、母方のおじいちゃんがイタリア人。どっちも青い目」
「なるほど」
「おじいちゃんたちの目はきれいだよ。俺のは外側が茶色がかってて、あんまりきれいじゃないよね」
あんまりきれいじゃないよね、と蒼人が言うので、唯華はつい、その青空色の瞳を見つめた。彼も見つめられることに気づいたのか見つめ返してくる。
きれいな瞳だと思った。
よく澄んだ青空みたいな青。
瞳の輪郭は茶色がかっているが、複雑な色合いがとても綺麗だ。
「生まれつきっていうのにはびっくりしたけど…すごくきれいだと思うよ、神田君の目。コンタクトなんて言って、ごめんなさい」
蒼人はびっくりしたように、わざとらしく目を見開いた。
「それ、俺を口説いてるようにしか聞こえないんだけど」
「違うっ!」
自分でもびっくりするくらいの大きな声が出た。
「そんなに強く否定しなくても…」
とたんに蒼人はしょぼんと沈む。おどけたり本気で落ち込んだり、まったく忙しいやつだ。
「あ、そうだ。唯華に渡す物があるんだった」
「なに?」
何事かを思い出した顔の蒼人は自分の鞄を探って小さな包みを取り出した。空色のリボンがかけられた白い小箱は見覚えがある。
「冬明堂のクッキーだ」
「そうだよ。昨日も今日もお弁当くれたから、そのお礼」
ずい、と差し出された小箱。地元で愛される喫茶店『冬明堂』の箱菓子はけっこう良いお値段がすることを唯華は知っていた。
「でも、これ、いいの? 冬明堂のクッキーってすごく美味しいけどすごく高いよね」
「うん、いいの。親にもらったお小遣いで買ったやつだから遠慮しないで」
言いながら、蒼人は顎のあたりを弄った。彼の少し恥ずかしそうな表情を見たら、なぜだか唯華も早くクッキーを受け取ってしまいたいような気持ちになってしまう。唯華は躊躇しながらも受け取った。すると今度は彼が嬉しそうに笑うものだから、つられて口がふにゃりと歪んでしまったことを自覚する。唯華は唇に力をこめる。
しばらく他愛もないことを話し込み、もうすぐ昼休みが終わるというとき、蒼人が真剣な顔で唯華の方を向いた。
「ねぇ、あのさ、俺と唯華はもう友達ということでいい?」
「え?」
友達という言葉に、本気で聞き返してしまった。
「だから、友達。もしくはそれ以上のなにか?」
「どうか友達で…」
友達。
神田君が私の友達。
そう思うと、急に顔が熱くなった。突然友達ができて、嬉しいのか恥ずかしいのか、それとも照れているのか自分でも判断がつかない。
「じゃあ、友達からってことで」
「別に、なんだって構わないけど」
口から出たのは、そんなひねくれた返事。本当はこんなふうに言いたくはないのに。どうして素直に「神田君と友達になれてとっても嬉しいです」と言えないのだろう。
自分で自分にがっかりする。
蒼人は、気分を悪くしたのではないだろうか。
「なんだって構わない? じゃあ唯華は俺の彼女ってことで!」
「なっ…」
蒼人は焦る唯華の様子を見てか、くすくす笑っていた。
「冗談だよ」
ひねくれた言葉には、おどけた言葉を。そんなふうに、唯華の言葉に不快を示す素振りも見せずに。
蒼人は唯華を、他人を簡単に傷つけるような人ではないのだろう。蒼人のそういうところは、とても好きだと思った。
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