第48話 危機は去った
二千人もの人間が首をすくめるという画はギネス記録に申請すれば即座に認定されそうな珍しい事象だった。
その原因となったハンニャの声自体はそこまで大きなものではなかった。おそらく発生源が遠かったのだろうと徹は当たりを付けた。
しかし聞こえた声が声だ。あそこまで悲痛に苛まれた人間の断末魔というものを映画の中でしか聞いたことがなかった若人たちに不安や恐怖を植え付けるにそれは十分なものだった。
人いきれな列の中には、何人かのグループを作ってうずくまる女子や、耳を抑えて目を閉じて情報を遮断する男子の姿が見受けられた。
そしてそれらを取り囲む日本警察の何人かもいくつかのグループを作って何やら話し合っていた。前述の女子のようにみんなでいれば怖くない、と言った考えから集合したわけじゃないことを徹は分かっていた。
本来なら校舎の崩れる音や人間の叫び声が聞こえた時点で突入を試みるのが妥当だろうが、未だ警察は行動を起こせずにいた。
だが徹には予想できた。
それはおそらく約十分前、南校舎裏から何かが崩れた音がした後に校舎内に入っていった人が関係しているのだろう。
徹は徹自身、人を見る目が長けているとは思ったことがない。だがその人物が部下に指示を出したり無線で連絡をしているところからこの部隊を統率する長のようなものだとは分かっていた。
そしていま周りでいくつかに蝟集している警察はその人物の指示を仰いでいる。だが指示が飛んでこない。と、いったところかと徹は読んだ。
警察たちはディスカッション、生徒たちは恐懼する。およそ五分、そんな膠着状態が続いた。
爾来、無線に連絡が入り、何人かの機動隊が校舎に突入した。いやにゆっくりとしていて、そこまでの緊張感を持っていないように感じられた。
恐懼し飽きていた生徒たちもその動向を見守る。
その一人であった徹もそちらに意識を傾けていたのだが、横合いから掛けられた声でその意識を無理やりに引き戻された。
「徹」
「わっ! なんだよ」
「何よ、名前読んだだけじゃない」
突然の呼びかけに振り向くとそこには見慣れた鈴鹿の顔があり、その隣には麗華もいた。
「てか、お前今までどこに」
「え、あ、えーっと、あれだよ、トイレ。女の子にそんなこと訊くなよー」
「女の子にしては随分と長いトイレだったな」
徹は嫌味たらしく言った。
「何よ、普通は女の子の方がトイレ長いじゃん」
「あー、それもそうだな。化粧直しとかあるみたいだしな。……で、ほんとは?」
徹はアリバイもなく物的証拠も揃っているのになおも容疑を否認する被疑者に問いかける敏腕刑事のように訊く。
「……あー、ほんとはねー」
鈴鹿もトイレなどというベタな理由では言い逃れできないと思ったのか、別の案を模索する。そして天啓。
「あれだよあれ。爆発した理科室が一体どういう芸術的な壊れ方をしたのか見たい衝動に駆られてね、それで理性を保つことも忘れた私は一目散に現場に直行してしまったというわけさ。まあ子供心を玄関に置き忘れて登校してくるような徹にはわからない理屈だろうけどさ」
「……ああ、わからんよお前の考えてる事なんか相対性理論よりも理解できねぇよ。ただその理由がお前らしいものだってのは分かるよ。誰かさんのお墨付きでな」
「誰かさん?」
鈴鹿は疑問を持つが、徹はそれが初香だということはあえて言うことじゃないと思い、興味の矛先を麗華の方に向ける。
「で、麗華はどうなんだよ」
「え?」
気を抜いていたのか少し驚いた表情をする。
「鈴鹿が言ってることの真偽はどうでもいいが、麗華はどこ行ってたんだよ」
「あー、私はそんな直情的な鈴鹿を止めようとしてついて行ったはいいけど追いつけなくて最終的にお互いがお互いを探すっていう形になっちゃったからこんなに時間食っちゃたんだよ、ほんとだよ」
麗華は取り繕うように嘘を並べた。それは鈴鹿の性格や麗華の人格を考慮した精巧な嘘だった。
徹はラピスラズリのような麗華の瞳を見つめる。彼女は無理やりにでも目をそらさないよう努めた。そらした時点で嘘だということがばれてしまうと思ったから。
「んー」徹は数秒見つめ、「ま、麗華が言うんだったらほんとなのかな」
と追及することをやめた。
「なんで麗華の言うことは信じるのよ」
「オオカミ少年とピュアお嬢様の言うことなら迷わず後者を選ぶのは当たり前だ。早く自分の位置に戻れ」
そう言うと徹はハエを追っ払うかのようなジェスチャーを見せる。
不服な顔を浮かべながら鈴鹿は貞一に戻り、麗華もそれにならう。
つっけんどんに対応した徹だったが内心は喜んでいた。
今にも列から飛び出して探しに行こうと思っていた目当ての人物が見つかったのだから当然だ。
しかし徹は自分という人間がどういう人間かをわきまえている。あまり感情を表だって出さずに、心底嬉しいときでも小さなガッツポーズだけで抑えることを信条としている変人だ。鈴鹿や麗華と同じこの高校に受かった時も、人混みの中で『やったー』と叫ぶことなく、自宅に帰るまでその感情を押さえつけていたことはあえて特筆することではない。
そしてそれはマイナスな感情にも置換できる。嫌いな奴ができたとしても、目に見えるほどにその感情を出すでもなく、陰口で相手の悪いところを言うこともない。そんなことをしてしまえば不毛な諍いが起こってしまうということを考えれるほどに徹は分別ができる人間だ。
無駄な感情の発露は誰かの感情を逆なでする。ならばその感情を抑制すれば何も争いは生まず平和な日常が歩めるのではないかというのが十七年間培ってきた徹の頭で考える持論であった。
しかしその性格が災いして未だに鈴鹿に思いを伝えられていないのは徹自身気づいていなかったし、気づこうともしていなかった。もう少し積極的に自分という存在を表現することができればこの恋にも何か進展が望めたんじゃないか、というのは麗華の談だった。
そんな風に徹が自分の回顧録をひも解いていると、後ろから神二が飛び出してきて人の合間を縫い、一番前の自分の立ち位置へと駆けていった。
(そういやあいつもいなかったんだよな。あいつはなんでなんだ? まさか鈴鹿同様に爆破した理科室でも見に行ってたのか。あの男ならあり得るな)
徹は神二の日々の言動を思い返してみる。そこから神二という人間は自由志向が強く、自分がやりたいことは全力でやり、やりたくないことはやりたくないとはっきり告げる、良く言えば意志が強く、悪く言えば適応力がない男。
しかし徹もそこまで神二のことを知っているわけではない。ただ同じクラスメイトで、会えば挨拶を交わす程度。一週間前、街中で見かけた時も気を遣うことなく話しかけることはできたがものの二分ほど世間話を交わしただけで沈黙に耐えきれなくなった徹がしびれを切らして『じゃあな』と言った以来、挨拶以外で話した記憶はない。だのに二人は下の名前で呼び合う仲だ。というのも神二が名字で呼ばれるのを嫌って、また陣貝という名字が言いにくいという神二の自分勝手な理由だけだったのだが、それは仮の友情の証左には十分なことだろう。
だからこの時の神二への興味もそこまでの時間を費やすことなく霧散した。
朝礼台では教頭がマイクで何やら言っていた。それはグラウンドにいる二千人の生徒を安堵させた。
危機は去ったらしい。
三十分足らずの非日常は去りゆき、いつもの日常が返ってきた。
徹はそっと胸をなでおろした。
そして鈴鹿も麗華も同様に胸をなでおろしたがこの二人にとってはやはりそれは一時の安寧でしかなかった。
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