第37話 救世主
「殺す」
その言葉が『死』という夢想を現実にさせた。
死神はほぼノーモーションでスタートダッシュを切り、懐から刃物を出した。それを肉食動物の牙にたとえたなら麗華はそれにおびえる草食動物だった。
彼女は何もすることができない。立ち向かうことも、動物のように逃げることもままならない。
また自身の防衛本能に頼り、後ろに後ずさるしかできない。
麗華は腰を抜かし倒れそうになった。
それをとなりにいた鈴鹿が腕を取って支えた。
「鈴鹿……」
鈴鹿はまっすぐに男を見据えていた。その視線には確かに敵意のような攻撃的な色もあったが怯えや恐怖の色も混濁していた。
今立たされている状況は二人とも同じだ。だが麗華は鈴鹿のように精悍に見せかけることすらもできない。そんな自分が情けないとさえ思った。
『死』はどんどんと近づいてくる。
逃げられるだけの力がない、助けを求める声も出せない。
自分はただの一人の女子高生だ。『崎本家のご令嬢』『天才ピアニスト』『文武両道、才色兼備、眉目秀麗、天才少女』そんな荘厳な肩書きで呼ばれたからといって何なのだ。
守れない。たった一人の親友を守ることすらできない。
守られている。完全な足手まとい、鈴鹿だけでも逃げられるはずなのに、私がいるからだ。私がいるせいで鈴鹿も一緒に。いやだ、だめだよそんなの――
刃物がきらりと光る。その切っ先は麗華にではなく、鈴鹿に向けられていた。
それを見た鈴鹿は麗華を後ろに突き飛ばす。
「え……」
腰を抜かし、力を失っていた麗華は何の抵抗もなく後ろへと下げられる。
それは鈴鹿の咄嗟の判断だった。
先ほどこの男は自分の名前を呼んで、いま刃物の切っ先は自分に向いている。これだけの事象が揃えばこの男の目当ての人物が大門鈴鹿であることはどんなバカなへっぽこ探偵でも容易に推理できる。それを鈴鹿はこの状況下でやってのけた。
そして鈴鹿は危害が及ばないようにするため、自分の近くにいる麗華を突き飛ばした。
それがいま鈴鹿にできる最高善の選択であり、自分の身を二の次に考えた結果であった。
「鈴鹿!」
その声は届いていただろう。だが彼女が振り向くことはない。
振り向いたところでかける言葉を、掉尾を飾る言葉を鈴鹿は持ち合わせていなかったのだから。
男は刃物を一瞬で順手に持ち替え、走るスピードをも利用して一発で心臓を抉り取る体制に入る。
鈴鹿とその男には距離という距離はもうない。
麗華は目を覆いたくなったが、その必要もなく視界がぼやけだした。涙腺が緩み、涙があふれ出した。
今まで見てきた世界すべてがうねりを見せる。無形な情景に変貌し、明確なものは何もなく、今まで培ってきた概念、経験による常識、正しき世界の在り方、それらすべて、考えうる何もかもが変わった。
この瞬間に――。
ガツン! ドンガシャン!
すべてを打ち崩さんばかりに大きな衝撃が空気の震えとなって耳に届いた。
ろっ骨を貫き、心臓に刃物を突き立てたにしてはやけにでかい音だった。
麗華の手に滴がたれる。血だ、と思い一瞬悲鳴をあげそうになったがそれが自分の涙だと理解し何とか声を押し殺す。
世界は未だに霞んだままで、そのままであってほしいと願ってしまう。目の前にある情景をはっきりと受容したくない。もし見てしまえば私は今までの私でいられるだろうか。麗華はそんなことを考える。
涙は現実を見えなくさせてくれる。だから悲しいときにはそれにすがってしまう。しかしそれでは前に進めない。
今ある世界をはっきり見据えろ。
麗華は涙をぬぐう。
目の前にどんなに無常で無情な世界が広がっていようが認めなければ前へ進めない。
だからこそ麗華は立ち上がり、前を見据えた。
しかしそこに広がっていた世界は常識というものが介在しないひどく面妖な世界だった。いや、そんな世界の始まりだった。
(?)
何がどうとか、誰がどうとか、主語と述語を明確にして文章を作成できるほどに麗華の頭は回っておらず、淡泊なクエスチョンマークを脳内に刻み込むことしかできなかった。
しかしそんな脳細胞の怠慢に影響されることなく麗華の視細胞はいつも通りの仕事をこなし目の前にある世界を明瞭にさせる。
三人の人影が見えた。
一人はうれしいことに鈴鹿であり、先ほどと同様に背中を向けて立っていた。麗華は飛びつきたい衝動に駆られるが、今がそんな場合ではないことはほか二人の影が語っていた。
麗華から見て鈴鹿よりも奥側、鈴鹿からは前方五メートルほどの両サイドにその人影があった。二人の人影はともに空中にいた。そして視界の端にはハンニャが突っ込んだことにより崩れ落ちた鉄の棒の残骸がある。
麗華は鈴鹿に歩み寄り、肩を並べ、その光景をかぶりつきで見守る。
彼女はやっと状況が理解でき始めてきた。おそらくはこの両脇の二人がハンニャに攻撃して、鈴鹿を守ったのだ。そしておそらくハンニャはあの鉄の山の中へと突っ込んだのだろう。二人の攻撃が顔面になのか胴体に入ったのかは検死官を志していない麗華が考えることではない。
だとしたらこの二人には感謝しなくてはいけなくて、早く顔を拝ませてくれと心弾ませるのは当然のことであったが、左サイドの男はすでに顔見知りであったことには驚愕の二文字を献上するほかない。
紺のブレザーに黒のスラックス、一年間を共通の室内で過ごし、ともに勉学に励み、今日の朝も挨拶がてらの世間話に花を咲かせた級友、天谷神二は地面に降り立ちこちらに顔を向けた。
「大丈夫か?」
紳士が淑女に声を掛けるようなトーンだった。
「あ、うん。大丈夫」
麗華の隣で地蔵になっていた鈴鹿が答える。
それに得心がいったのか神二は二人から視線を外す。
移動した視線の先にはもう一人の男が立っていた。
黒を基調にした衣服を身にまとい、身長や体格はほぼ神二と何の遜色もなく、ただ違うことといえば視線だけで人を射ぬくことが出来そうな鋭い目と、頭についている異様な角と、大きく発達した犬歯ぐらいのものだろう。
それらの特色はその存在がどれだけ人から外れたものなのかを如実に表すファクターとなっていた。
(顔は知らない。ハーフかな。ていうかなんだろうあの角と歯、アクセサリーにしてはクオリティが高いし……)
麗華は一時の安心感からかそんな呑気なことを考えていたが、それとは裏腹に神二はその男に鋭敏な視線を向け、ずかずかという効果音が付きそうな歩みを見せ、
「なんでお前がここにいるんだ。ビルデ!」
と、怒気も含んだ調子で訊いた。
「そのセリフはそのままお前に返すぜ。なんでお前がここにいるんだ。天谷神二」
ビルデは顔をゆがませながら質問というボールをそのままバットで打ち返す。
「この格好を見ての通り俺はここの生徒なんだよ」神二はボタンが留められていないブレザーを広げる。「それよりもお前がいる方がおかしいんだよ。まさかお前がこの騒ぎを引き起こして――」
「はあ? それはこっちのセリフだろうが」ビルデは容疑者にされてはかなわんと思い、弁明する。「いま俺らがこんな騒ぎを起こしていったい何になる。それについさっき俺が蹴り上げた男は明らかに大門鈴鹿を殺そうとしていた。どう考えてもお前らの差し金だ。そう考える方が自然だろう!」
「ちょっと待て。この際あの男が何なのかはどうでもいい。それよりもなんだ、今お前は自分が蹴ったとか言ったな。どう考えても俺があいつのみぞおちに一発入れる方が早かっただろうが!」
神二はどっちが先にゴールテープを切ったかと言い合いをする運動会の子供のようにいちゃもんをつける。
「ああん?」いちいち気にすることではないと自覚しているがビルデは神二だからなのか、「それは聞き捨てならんな。明らかに位置エネルギーと力学的エネルギーから算出された俺の蹴りがあいつの顔面をとらえる方が早かったに決まってんだろ」
と、わざわざその挑発に乗ってやり、人外なる二人は低俗な言い合いを続ける。
麗華は鈴鹿の腕にまとわりつきそのやり取りをしばらく見ていた。
そしてその間鈴鹿は隣にある部室棟の屋上を見ながら自身の疑問点を明らかにする作業に入る。
(今、あの二人、上から来た……よね……)
鈴鹿は自身の回顧録をひも解いてみた。
先ほど、恐怖に苛まれ、自分に向かってくる殺人鬼に何も対応することができなかった、麗華を突き飛ばすことしかできなかったあの時を。
あと一歩踏み込まれていたらナイフが突きつけられる距離だった。しかし鈴鹿の両サイドの斜め上から降ってきた黒い影がハンニャをけり上げ鉄パイプの山に突っ込ませた。
もし走って駆け付けてハンニャに跳び蹴りを見舞ってくれたのなら鈴鹿は素直に紫綬褒章をこの二人に授与してやるが、やはり降ってきたというところが問題だ。周りは校舎の壁に囲まれていて、真上を見れば矩形に切り取られた空が見えるだけである。窓が開いている場所はない。故に飛び降りれる場所は屋上だけと限定されるが、こんな高さから飛び降りて生きていられるのはどういう理屈だ。
それに二人に蹴られたハンニャの飛ばされた距離も目測十メートルは超えている。いくら二人分の蹴りをくらったとはいえサッカー漫画ではないので威力が二乗なんかになるわけもなく、それはこの二人が人間以外の何かであることを鈴鹿に想像させるには十分だった。
(なんなの……こいつら……)
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