第36話 『死』が迫る

 今どこの階にいるのか、果たして目の前の女は麗華なのか、この黒煙の中では不確かだった。しかしなぜか不思議なことに麗華の姿を見失うことはなかった。なぜかその女と鈴鹿の距離は一定のままつかず離れずを保っている。まるであえて鈴鹿に追われてやっているという気概がその女には感じられた。

「麗華!」

 鈴鹿の声は届いているのだろうがその女は何の反応もない。たまにこちらを振り向き、ついてきてるかの確認はあるが、それは反応とはいいがたい。そしてまたその振り向いた顔を見てみるとやはりそれは麗華のそれだった。それ以外にあそこまで聡明で上品な顔は鈴鹿には見覚えがなかった。

 しかしわざわざ煙に飛び込み友達をも巻き込むというこの状況は理知的な麗華の行動とはとても思えなかった。煙には毒性があり無臭の一酸化炭素には特に気を付けなさい、と言ったのは麗華本人だったからだ。

 黒煙の中に入っておよそ一分が経つ。たとえブレザーの袖口で口と鼻を覆っているからといってマスクほどの遮断力があるわけじゃない。だのになぜか燃焼時に発生するあの煙臭さはあまり感じられない。いや確かにここまでの煙をダイレクトに吸ったことはない鈴鹿には煙臭さが何かと問われても答えあぐねるかもしれないが、これは不完全燃焼時に発生する本物の煙には思えなかった。

 もしかしたら偽物の煙、煙幕という奴かもしれないと鈴鹿は思っていた。

 やっと一階にたどり着いた。

 鈴鹿は暗黒の世界から脱出し、落ち着くこともなく引き続き追跡を開始する。制服にはクリーニング屋でも渋るだろう煙幕の黒い染料がところどころに付着していた。

 十メートルほど前を行く麗華と思しきその女は部室棟の裏手へと走っていく。

 そのとき少しのざわめき声が聞こえた。そちらに目をやると東校舎から降りてくる三年生の列が遠くに見えた。この時期だと自由登校という奴だろう、人口密度はそこまで高くはなかった。その避難軍はこちらには気づかずに南西グラウンドへと歩を進める。

 今すぐにあの列に加わりたかったが親友を残して自分だけ避難するなど、主君の暗殺を計画する奸臣ほどに薄情というもので鈴鹿が自分の身の安全よりも親友の行く末を気にするのは必然の帰結であった。

 昼休みには多くの生徒でごった返すピロティホールを抜けて、鈴鹿は角を曲がった。

 そこは幅十メートル、奥行き三十メートルほどの空間だった。

 人っ子一人おらず、風が吹く音だけが鼓膜を刺激した。

 辺りを見回す。あるのはゴミ箱やどこの部活の物かもわからない小道具の山だけ。

ここは一つ角を曲がるだけで一気に人通りがなくなる場所。文化祭時期には意中の人に告白をするメッカの候補としてあげられるだろう閑散さである。

「麗華!」

 人影が皆無なのだから反応など望めないだろうとは思っていた。

 しかし意外にも反応はあり、後ろから「鈴鹿!」という声が返ってきた。

(後ろから?)

 何で後ろから。

鈴鹿はこの角を曲がった麗華を確実に見ていた。しかし返事が返ってきたのは後ろから。

さっき曲がったのを見たのは気のせいだったのか、と鈴鹿は思った。

 鈴鹿はそちらを振り向く。

 肩で息をしながら駆け足で向かってきていたのは紛うことなき麗華だった。ついさっきまではまるでスタート五キロ地点でのプロランナーのように軽快なステップだったはずなのにいまはハアハアと肩で息をしている。

 それに伴いパーマがかった髪が揺れる。

 よくみると麗華の制服は鈴鹿と違い煙の黒すすが付いてはおらず綺麗なものだった。

「麗華、何で?」

「何ではこっちのセリフだよ。何でこんなとこ来たの?」

「来たの? ってどういうこと? 私は麗華を追いかけてきて……」

「え、何言ってんの? 私は鈴鹿がここに入るのを見たから追って来て……」

(どういうこと?)

 鈴鹿の頭の中にいくつものクエスチョンマークが形成されていく。

 鈴鹿はなぜ麗華が後ろから来たのかも、麗華の『鈴鹿を追って来た』という発言も得心がいかなかった。

 矛盾している。

 どこかのクイズ本に書いてあった『この会話の中で一人の嘘つきを見つけてください』という問題を鈴鹿は思い出す。それは嘘つき以外の者が本当のことを言っているからまかり通る問題であり、この場合は鈴鹿が真実を言っていると言っていい。自分の言っていることの真贋が分からなくなるほどに鈴鹿は馬鹿ではない。とすれば矛盾を吐く麗華は嘘を言っているということになる。しかし――

鈴鹿は麗華の目を真摯に見つめる。

大きく漆黒な双眸は人の心を吸い込むブラックホールであり、鈴鹿の心も例外ではなくその重力に逆らえない。そんな目を持っている麗華が嘘をつくなどその辺の空き地でタキオン粒子とヒッグス粒子を同時に見つけるほどにありえないことである。

 嘘はついていない。そう考えて問題はないようだった。だとしたら第三者なる誰かがいたということになる。

 はて、この学校にあそこまで麗華に似ている生徒がいただろうかと鈴鹿は自分の頭の中の保存ファイルを漁っていたが、それは麗華の、

「とりあえず、グラウンド行こ」

 の声で中断される。

 麗華は鈴鹿の腕を取り、南西グラウンドへと歩を進める。

「ちょっと待ってよ麗華、もう少し考えさせ――」

 カランカラン――。

 金属と金属が触れ合う独特な音が耳に届く。

 鈴鹿と麗華が今から通るはずだった動線を見てみるとそこにはどこの場面で使えばいいのかわからない金属の棒が転がっていた。先ほどまでピラミッド状に積まれていた棒の一部が崩れ落ちたのだろう。

 しかし驚くべきはそんなことではない。まるで二人の行く手を阻むかのような人影がそこにあった。

「すずか……?」

 そう言ったのは麗華でもなく鈴鹿でもなかった。

 初めて聞く声、男の声域をギリギリ出ないようなそんな甲高い声。

 ギョッという効果音が聞こえそうなほどに二人は肩をすくませる。

 恐怖とは寒さでありそれは悪寒である。無意識に心臓を守るように自分の体を抱きたくなった。寒さからではない、恐怖がそうさせた。

「だいもん……すずか……」

 男は確認するようにその名前を反芻する。

 だが声を発しているというのにその男の口は動かない。だが、動かないのも無理はない、その男は憎悪にまみれ怒りそのものを体現させたような恐ろしい顔、ハンニャの面を付けていた。

『ハンニャ出没!』今朝見た記事を麗華は思い出していた。

 ヤバい。そんな女子高生の口癖のような言葉では表現しきれない絶望。

 いや、本当の絶望は『絶望』という言葉でもまだ足りない。

 目の前にいる存在はハンニャではない、死神だ。『生を与えられている私たち』に『死』という蒙を啓かせるあの死神だ。

 逃げろ、逃げろ、逃げろ。

 麗華は呆気にとられ、わずかに退くことしかできない。それは運動神経というものを介しのではなく、生物の本能がそうさせた。

 それだけに目の前にいるソレを認めたくなかった。今ある状況を頭で理解することを拒みたくなるほどに、麗華は冷静ではなかった。

 なにこれ、違うよね、誰かの悪ふざけとかそんなんでしょ。殺人犯? はは、そんなわけないもん。だってそんなの新聞とかニュースだけの出来事で、日常にそんなの起こる確率なんてすごくすごい確率で、だからちょっと他人事みたいに思ってて、『物騒だなー』とかそんな風に思ってて。全然気にもかけてなくて。嘘だよね。こんなことあるわけないもんね。しかも鈴鹿と一緒の時に? それも今日、今この場で? いやいやいやいや嫌嫌嫌。嘘だよ嘘。嘘なんでしょ。ねえ、ねえ!――――

 ハンニャはゆっくりと歩く。しっかりと踏みしめる。確実な歩みを見せる。

 『死』が迫ってくる。

 そして――

「殺す」

 その言葉が『死』という夢想を現実にさせた。

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