第34話 闇に飛び込む少女
そしてまた一人、先ほどの放送に疑問を持つ女がいた。
(一回だけだったな……)
麗華よりも後ろの位置で避難員になっていた鈴鹿だった。
鈴鹿は先ほどの放送を思い出す。文言は長かったので断片的にしか思い出せなかったが、不審者が理科室を爆破させたから西階段から南西グラウンドへと避難しろということだけは分かった。
そしてそれ以上の放送はなかった。
確かに今の状況と、今から生徒がするべき行動を伝えればそれで十分な避難指示になるかもしれない。だが緊急連絡の際には必ずと言っていいほどついてくる常套句がある。
それは『繰り返す』という言葉だった。
こういった大事な用件を放送で伝える時には文の最後に『繰り返す』と付け加えて、先ほど言った言葉を忠実に繰り返すのは当然。
それは鈴鹿が小学校時代、他校の男子とけんかをした次の日に生活指導の先生に放送で呼び出された時に得た経験則だった。その時は鈴鹿がなかなか職員室に足を運ばなかったので生活指導の先生は何度も放送を繰り返していた。クラスメイトからの煽りもあり、いやいやながら鈴鹿が放送室と併用していたその職員室に行くと先生が声を枯らしていたことは今でも笑い話である。
しかしその時は生活指導をするために一生徒を呼び出した放送に過ぎない。今回は状況が状況だ。繰り返すというルールを忘れたのも頷ける。洒洒落落とした放送に聞こえたがやはり放送当事者は普段落ち着きのない岡崎だ。内心焦りと不安が渦を巻きそれどころではなかったのだろう。
(ま、どっちみちそこまで考えることじゃないか)
鈴鹿は自ら生んだ疑問をわざわざ答えが出るまで追求するほどに粘着質な性格ではなかったので、麗華同様にそう結論付けた。
列が進まず、業を煮やしたのか四階の避難軍がざわつき始めた。めいめいに不毛な会話をしたり、ここから北校舎は見えるかどうかと窓から体を乗り出したりする者もいる。
鈴鹿も何のけなしに北校舎の方に目をやるが、あいにくここからは無駄にでかい部室棟や中庭の自然遺産並みにでかい木々に阻まれてそれを視界にとらえることができない。
そして北校舎同様鈴鹿の視界にとらえられない者がある。それは先ほどまで五メートルほど前で避難員の一人と化していた崎本麗華だった。
さっきまで何かを考えるように顎に指を当てていた聡明な麗華の影がどこにもない。
周りを見渡してもいないということはもっと前の方に行ったのだろうか。と鈴鹿は思った。
この無駄な待機時間を麗華とともに享受したいと考えていた鈴鹿は少し落胆の色を見せる。さっきの授業みたくクラスメイトの後頭部を見る作業にも飽きがきていたからだ。
仕方なく鈴鹿は自然あふれる情景が広がる窓の方に目をやる。広大な中庭はこの高校にどれだけの予算があるかを如実に表していた。
そして鈴鹿がそこにどっしりと構えている大木の葉の数を暇つぶしに数えようとしていた時、後ろの方から、
「きゃっ!」
という女の声がした。
なんだ、冬眠中に寝ぼけ眼で出てきたゴキブリでも見たのかと思い、鈴鹿はそちらの方を見る。しかしそこにあったのは地を這う小さな黒い塊ではなく、天井を埋め尽くしながら這い寄ってくる真っ黒な無形の物体だった。
「煙だ!」
誰かがそう叫んだと同時に十四組もとい鈴鹿よりも後ろにいた十三組の面々はスタートダッシュを切ったマラソンランナーのように前方へと大挙した。
「きゃぁぁぁ!」
「煙だ、どけ!」
さっきまで身にもならない会話をして、不審者の侵入すらもまるで他人事のように感じていた呑気な高校生はそこにはいなかった。
先ほどの放送によると火災が発生したのは北校舎で南校舎であるここに煙が来るなどありえないことだ。施工主に直接クレームを入れて慰謝料をふんだくったとしてもまだ堪忍袋のキャパシティに余裕はできないだろう。
そのとき――甲高い『パンッ』という音が立て続けに鳴り響いた。
「爆発だ、爆発!」
「早く行ってよ、ちょっと!」
各々の欲望を言葉にアウトプットする生徒たちはますます前方へと押し寄せて人口密度を高くする。
混乱、無秩序、錯綜、カオス、混迷。そんな言葉を使ってもまだ足りないそんな状況だった。
しかしその中でも鈴鹿は周りに流されることはなかった。
周りを見てみると少数ながらも鈴鹿と同じく冷静に立居ふるまっているものもいる。
その中には「落ち着け、落ち着け」や「大丈夫だから騒ぐな」と言ってパニックに陥った者を諭している奴もいた。
しかし鈴鹿が立ち止まっているのは何も賢しく頭の回転が速いからでも、さっきの音が爆発などではなく子供のころによく遊んでいた爆竹の音だったからでもない。
「麗華!」
鈴鹿の視線の先には麗華が立っていた。しかしそこは人口密度が高く人が密集している西階段側ではなく、煙が充満し暗黒の世界を形成している東階段側だった。
麗華がいつの間に鈴鹿の横を通り抜け東側に移動したのか、なぜ一人だけそちら側で立ち止まっているのかを疑問に思うほどに鈴鹿は冷静ではなかった。
黒煙の中でも麗華の流麗なストレート黒髪ははっきりと確認でき、上品に整った顔立ちは鈴鹿をまっすぐに見据える。
見間違うはずがない。あれは長年共に連れ添ってきた麗華の顔。しかしあの安心と信頼に満ちた麗華には思えなかった。でなければそんな煤にまみれた空間にいるはずがない。
麗華と思しきその女は冷淡な視線を鈴鹿に向ける。言外に挑発や誘惑にも似たものが付随されていた。
「なにやってんの。そっち危ないよ、こっちきな!」
鈴鹿の忠告も、まるで国民のシュプレヒコールに対する政治家のように聞こえぬふりを決め込む。
「麗華、聞こえてんでしょ」
鈴鹿のその声は生徒の喧騒によってかき消される。
一体どうしたのか。むかし避難訓練の時にハンカチを忘れた鈴鹿に対して煙の怖さを入念にレクチャーしてくれた麗華とは思えない。
そうこうしている間にも黒煙はちゃくちゃくとした歩みを見せ確実に北校舎の四階部分を埋め尽くそうとしている。
麗華の姿も文字通りの翳りを見せてきた。
そしてかろうじて表情が分かるくらいのスモークの中で麗華の様なその女は、
「鈴……」ニヤリと笑い、聞こえるか聞こえないかのようなボリュームで、「ごめんね……」
と言った。
次の瞬間、その女は鈴鹿に背を向け東階段の方へと走りだした。闇の中に姿をくらます。
「麗華!」
叫んでいた。
ハンカチを持ち合わせていない鈴鹿は咄嗟に自分の袖口を伸ばしてマスク代わりにして麗華の後を必死に追った。
東階段を降り、暗闇の中をずぶずぶと。
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