第29話 見つかった……

『この箱の中に入っている鉄球の体積を求めよ』という問いに対して一様に思うのは『なぜそんなことをしなければいけないのか』という疑問だろう。わざわざその鉄球の体積を求めたところで一体何が分かるというのだろうか。それがもしお隣さんからもらった重箱の中のおはぎならそのおはぎの体積で送り主の敬意のレベルが分かるというものだが、鉄球の体積を求めようとしても数学というものがどれだけ果てしなく理解しがたい学問かということしか分からないため、鈴鹿はいつも通りペンを回しながらクラスメイトのうなじを眺めるしかない。

一人だけ座高が高いというのは達観のしがいがあり、目の前の三上初香のポニーテールにより露見されたうなじは壮観なものだった。

しかしそんな鉄球問題ごときで音をあげていては天国でアルキメデス辺りが涙してるだろうし、ピタゴラスなど目を三角にして怒鳴り散らしているかもしれない。

なぜならその問いは『数十人もの人間が収容されているこの教室の中からハエほどの黒い点の体積を求めよ』という問いよりは明らかに簡単なのだから。

ブ~ン。

ハエ特有の小さな羽音を出しながら教室を徘徊していたブブにはいくらかの疲れの色が見えた。

(やはりこの姿では無駄に力を浪費する)

 そう思いながらもブブはすでに五つの教室を調べ上げ、そこに大門鈴鹿がいないことは確認済みだった。

 太陽は高度を上げ、もうすぐ南中になろうとしている今はもう四時間目であり、それはすなわちこの授業が終われば昼休みに突入することを意味する。ブブ自身もここを調べ上げればその辺りで昼休憩にしけこもうとしていたがここで大門鈴鹿を見つけられたのは僥倖だった。

 気取られないようにブブは鈴鹿の机の角に止まり、その顔をハエ特有の複眼でためつすがめつ見る。

 一応机の上のテストの名前の記入欄のところも見てみる。そこには綺麗と形容するには少しばかりアグレッシブな『大門鈴鹿』という文字が記入されていた。

間違いない、この女だ。

 ブブは昨日のことをついさっきのことのように思い出す。

 絶え間なく降り続ける雨の中で小賢しい笑みを浮かべるあの女の顔を。

 表情筋の使い方こそ違えどやはりその顔はこの目の前にいる女の顔をしていた。そしてそれは同時にこの女がオリジナルで不純物ゼロ%の大門鈴鹿ということを示している。

 昨日の佐藤優子を見ているからか、この鈴鹿の顔がいくらか柔和に見えるとブブは感じた。やはり神と人間では表情筋からして違うのだなとブブは改めて神への畏怖の念を強めた。

(それにこんなに大きな双眸なら美人と形容してもいいかもしれん)

 と思いながらブブは鈴鹿を見ていた。

 そして鈴鹿は大きなその目を小さなハエに向けていた。

 人とハエは目が合っていた。

 片や机に止まったハエを見るような目で、一方は表情も読み取れない真っ赤な複眼を携えて。

(ハエだ)

 鈴鹿にはそれ以外の感想がなかった。ただハエが止まっていただけであり、今日びハエごときで騒ぎ立てるほどの虫嫌いなぶりっ子女子高生を演じていなかったから。

(見られた)

 ブブにはそれ以外の感想がなかった。たとえいきなり張り手をかまされたとしてもこの複眼をもってすれば横綱顔負けの張り手もあくびが出るほどの速度に見えるから。

 時間にして二、三秒ほど目が合っていたが、やはり鈴鹿には黒い羽虫をまじまじと観察するほどの少年めいた好奇心を持ち合わせてはおらず、無難に手で払うだけに収まり、ブブもそれに応えてどこかへ飛んでいく。

 鈴鹿は引き続きクラスメイトのうなじの観察に入ろうかと考えたが、それでは芸がないと思い簡単な計算問題だけでも解くことにして、座高を低くした。

 手で払われたブブは不可抗力として麗華の方へと飛んでいく。その時にふと違和感を覚えた。

 ブブは咄嗟に麗華の顔を見る。髪型こそストレートではないにしろその容姿にはどこかの華麗なるご令嬢の雰囲気が漂っていた。どこにでもいない普通でない女子高生がそこにいた。しかしやはり麗華は絶対的に人間のレベルを逸脱しているわけでもなく、興味があるのは雌魔界バエだけのブブは出口の方へとゆっくり飛んでいく。

 このままつつがなくビルデのもとに帰り大門鈴鹿の所在を報告するだけだとブブは思っていた。

しかし鈴鹿の列の一番後ろの席に座していた男が問題だった。

 明らかに目が合った。しかし先ほどの鈴鹿のようなハエを見る目ではなく、なぜかその目には敵に塩を送ったかのような優越感が付帯しているように感じた。したり顔やどや顔と表現しても差し支えない顔だった。

 この男を生で見るのは初めてだったがビンの中からその顔を昨日見たことがあったブブはすぐに名前を思い出すことができた。

 忘れもしない我が主人の頭に不意打ちながらも一発喰らわした無礼者、天谷神二の名を。

 この顔から察するにあの時ビルデの懐にブブが仕込まれていることは分かっていたらしい。いやそれ以前に悪魔の力や神の力はおよそ人間とは全く異質なものであり、やはりそれを持った者同士テレパシーのように感じてしまう。それは今回も例外ではなかった。

 神二はそのハエに見えるように何かをテスト用紙に書き始めた。

『お前、ビルデの仲間だな』と。

 明らかにばれている。さすが神の力を分け与えられたものだ、とブブは思った。

 しかしその問いに返答する手段がないブブはわれ関せずといった具合で教室をバツが悪そうに出ていった。

 神二も元から返答など期待していなかったのかそれをまるで古巣から飛び立つひな鳥を見守る親鳥のような目で見送った。

 天谷神二、ただのバカではなさそうだ。とブブは心のブラックリストにその名を刻んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る