第20話 魔王と優子のプレイボール

 その情景は巨大な隕石が地球に落ち、世界に大洪水を及ぼし恐竜を絶滅させたあの時代を彷彿とさせたが、佐藤優子はその時代を知らないため『堤防がなければ住宅地に大洪水を及ぼしていたな』とそれくらいのことしか思っていなかった。その川はサタンという隕石を落下させ、川底を露見させている。

 サタンの後頭部への蹴り一発。不意ではあるが我ながら紫綬褒章を送ってやりたいものだった。

優子は上空に発生させた白いクレストの上に乗るでもなく、下につかまり高みからその惨事を見下ろしていた。

 さて私の一撃を喰らったサタンの亡骸でも見取ってやるかと優子は川底に視線を移した。しかしそこには自然そのままのごつごつした岩場だけがあるだけでサタンの姿はなかった。

(いない、まさか避けられた? いや、だとしたら川底がめくれ上がるわけがない。底に着いた途端どこかへ移動したか)

優子はクレストにつかまりながらうんていで遊ぶオランウータンのように辺りを見回す。

だが視界に入ってくるのは雨が降り注ぐ暗黒の世界だけ。下では押しのけられた川の水が元の場所に戻っていく。

 視線を動かすたびに焦燥感が高まっていく。死角から不意打ちが飛んでくるのではないかと恐怖心も同時に高まっていく、だが飛んできたのは皮肉で優しげな、

「こっちだよ」

 という声だった。

 優子は声の方を見る。真上。優子がつかまるクレストの上にサタンはヤンキー座りをして見下ろしていた。

「今のめっちゃ痛かったよ」

 サタンが何のけなしに言っているその光景がさらに優子の気を逆撫でする。

「じゃあ、もう一発喰らえや!」

 優子は逆上がりの要領で足を蹴り上げクレストの上にいるサタンに蹴りを見舞うが、それは避けられ無情にも中空に足が投げ出される。

 クレストの上に乗った優子は十メートルほど離れた場所に翼を出し上空にとどまっているサタンを見やる。

「けっ、優しく声掛けとは随分と余裕じゃないの。そんなんじゃ魔王の名が泣くよ」

 優子はクレストの上で凛と立つ。

「別に死角からの不意打ちを好むから魔王なんて悪者めいた呼び名がついてるわけじゃないよ。僕だって女の子に優しくするぐらいの紳士的な考えは持ち合わせてるよ。てか、僕の名前知ってるんだね。なんで?」

「そんなことどうでもいいじゃんか。ところで魔王さん、かわいい女子高生の願いだ。死んでくれねぇかな?」

 悪魔も顔負けの狡猾な笑みを優子は大門鈴鹿の風貌で浮かべる。だがサタンは、

「無理です」

 と小バカにするように答えた。

「あーあ、死んでくれるなら昇天もののSMプレイでもしてやったのに」

「へー、それは良さそうだね。でもお高いんでしょ?」

「そんなことはないよ、死というオプション付きならてめえの命で一括払いだ、よ!」

 そう言うと優子はサタンに向かってクレストを足場に一直線に走る。サタンもそれに応えるように優子へとまっすぐに向かい、二人は衝突した。

 拳と拳を交え、互いに隙あらば蹴りを見まい、敵の体勢を崩す、その応酬だった。

 クレストを足場にしてそこでしか動けない優子と揚力を駆使し自由に空を飛び回ることができるサタンでは如実に地の利が出てしまう。だが優子は時には斜めに足場を作ったり、サタンの猛追を遮るためにシールドとしてクレストを使うことでその差を補完していた。

 濁流で揺らいだ水面からおよそ十メートルの場所で二人は相見えている。二人の攻撃の風圧が辺りの雨水をはじけさせる。その衝撃はどんどんと大きくなり再び下の川の水は堤防側へと押しのけられた。

 一分後、ガンという打撃音が辺りに響き、その応酬は一時中断を告げ、優子は濁流の中へと墜落した。サタンが『勝ったか』と思うほどの静寂が流れた。しかしそんな思いを無視し、優子は水面から飛び出しクレストを階段状にしてサタンよりも上空に立つ。優子はサタンよりも四メートルほど高いところにクレストを作り、その上に乗る。二人の距離は二十メートル。少し優子がサタンを見下ろす形になる。

「女の子がそんなに激しい動きしちゃダメでしょ。スカートなんだからパンツ見えちゃうよ」

 サタンが紳士な気遣いを見せるセリフを吐く。

「大丈夫だよ。ちゃんとスパッツ履いてるから、ほら」優子は恥ずかしげもなくスカートをめくり黒く短いスパッツを見せる。「淑女のたしなみだよ。何? パンチらでも期待してた?」

「ちょっとだけね」

「やーん、エッチ」そうわざとらしい演技をした優子は中腰になってサタンを見据える。「時にサタン、野球は知ってる?」

「あのカツオがよく中島くんに誘われるやつでしょ?」

「おお、すごい、それだよそれ。じゃあお姉さんがそんな君に野球とは何たるかを手ほどきしてあげましょう」

そう言うと優子は懐から何かを取り出しバッテリーのサインを確認することもなくメジャーリーガーたじたじの投球フォームを見せつけサタンに向かって黒い物体を投げた。

石だ。おそらく川底から拾ってきたものだろう。

公式球よりも少し大きめのその石はスピードガンで計測しようものならスカウトマンの度肝を抜かせる数字を出すだろう速度でサタンへと向かっていく。

だが魔王の名を冠するサタンは甲子園の魔物ほどではないにしろ球威を見極める動体視力は確かなものだ。サタンはその石を顔面で受けることなく寸前で躱す。

ドバン。

水面へと飛び込んだ黒石はそんな音を出して濁流を割った。どうやら受けるでもなく打ち返すでもなく避けたのは十全だったようだ。

「ちょっとちょっと危ないよ。デッドボールになってたら即天国に出塁してたよ」

「いいじゃんか、怪我して出塁する方がファンの拍手も一入だよ」

 優子は再びポケットから石を出し、投球フォーム。

次々に川を割る音が量産される。

だが優子は某猫型ロボットの様な四次元なるポケットを持っているわけではない。持ち合わせの隠し玉も無限ではない。

 十二球目で優子は肩を竦めもう球はないとサタンにアピールした。それを見てサタンは乱闘騒ぎを起こす助っ人外国人のようにピッチャーへと突進した。二人の距離は十メートルに縮まる。

その時だった。優子はジェーリーグを彷彿とさせる強靭なキックを見せ、再度黒い物体をサタンへと発射させた。無回転で向かってくるそれは優子が履いていた学校規制の黒い革靴だった。おそらく投球途中に脱ぎやすくしていたのだろう。

サタンはそれと正面衝突をしそうになる。だがサタンも優子の隠し玉がなくなったからといって油断をしていたわけじゃない。もしかしたらまだ何か秘策があるのではないかという考えは念頭にあった。

だからこそ避けることができた。

素粒子加速砲で射出されたのではないかと思うスピードを見せたその革靴はサタンの顔をギリギリかすめていった。

しかしサタンが再び優子に視線を向けたところなぜか目の前にはまた革靴があった。さっきと遜色ないスピードを見せ放たれた靴のつま先はサタンの顔面を見事にとらえている。

死角。一つ目に放った靴は目の前にあるこの革靴を隠すための布石、壁。そしてこの二つ目は一つ目を避けれたという安心感を打ち崩す黒槍。

やられた。しかも驚くべきことに佐藤優子はサタンがどの位置にどの方向に避けるかを予想していた。でなければここまで正確に二つ目の革靴がサタンの顔面をとらえることはできない。

石を投げたのもそれを見定めるため。常人には全十二球全てがほぼ同じ速度に見えたかもしれないが、優子はわずかだが球速を変え、速い場合と遅い場合のサタンの避け方に注目していた。

そして優子はやや虚を衝かれた投球にはサタンは右側に避けるという癖を見つけた。

全ては確実にサタンのに一撃を入れるため。

ドバン。

サタンの首をかすめた一つ目の靴が川を割るのとほぼ同時にその靴はサタンの仮面を割った。川を割るドバンという地に響く音とバリンという甲高い音のユニゾンが優子の鼓膜を震わせる。

押しあがった川の水はゆっくりと重力に従順に元の場所に落ちていき、濁流は流れを再開する。雨音と濁流の流れる音のデュエットが辺りに響く。

雨に紛れて落ちた仮面の白い破片は濁流へと飲み込まれていく。

そして仮面を一部割られたサタンはかなぜか動こうとしない。もしかしたら反撃の策でも考えているのかと第三者が見れば思うかもしれないが、そうではないことを優子は知っていた。

序盤の拳の応酬でも先ほどの優子の連続投球でもサタンは自らの体よりもまず仮面を最優先に護っていた。それを見て優子の自信は確信に変わった。

優子は狡猾に笑った。

「どうしたよ、サタン。そんな陰険な被り物なんかとっくに捨てちまえばいいでしょ。それとも何かその仮面に思い入れでもあんの? いや、そんなんじゃないか」

 優子はわざとなのか挑発的な物言いをする。

 サタンは何も言い返さずゆっくりと優子を見据えた。仮面の四分の一(口元の部分)がかけていて、そこからは薄く引き締まった唇が見て取れた。しかしそれだけでも表情を読み取るのは容易い。

明らかに怒っている。そんな風に優子は思った。

「怖いねー、そんな怒るんだったら別に一発殴らせてやってもいいんだよ。ほら」

 そう言うと優子は右頬を出して、人差し指でそこを指す。だがサタンは親の仇が目の前にいるのに何もできない無力さを嘆く子供のように優子を睨む。

 しかしその例えは的を射ていなかった。

「皮肉なもんだね」優子は子供を慰めるような柔和な笑顔で、「力がありすぎるが故に目の前のむかつく奴を一発殴ることすらもできないんだからさ」

 サタンは図星を衝かれたような顔をした。なぜ力がありすぎるが故に闘えないかはサタン本人が一番よく分かっていた。まるでもう打つ手はない、敗北をしたかのような表情を浮かべる。

 仮面を割ったことによりもう勝負は決したという雰囲気が漂う。

 それを優子も分かっているのかそれ以上サタンに攻撃をすることもなかった。

「ねぇ、魔王ってさ――」

 優子が口を開き何かを問おうとした。だが突如天地がひっくりえった。

 頭頂部への一撃が、優子の世界を揺るがした。

 あと少し打撃が強ければ先ほどのサタンよろしく川底への華麗なダイブを見せていただろうが、優子はギリギリのところでクレストを発生させ何とかとどまった。

 サタンを見上げる形になる。それと同時にさっきまで優子が乗っていたクレストに、さも自分のものかのように乗っているビルデをも見上げる形となった。不意を衝いておきながらふてぶてしいものだ。

「てめぇは、ビルデ……でいいんだよな?」優子が悪魔のように犬歯をむき出した形相になる。「初対面の女子高生に随分なご挨拶じゃねぇか。いやそれ以前に何でここにいる? 神二がお前を足止めしてたはずだ。そんなに決着が早く着くとは思わなかったんだが」

「俺を知っているってことはやはりそっち側の存在か。まあ、今更驚くことはないが。てか、神二ってのはあのチャラけた高校生か? あいつなら俺と少し談笑しただけで大方満足してたぜ。俺とは戦う気はないんだと」

「んだよ、あの野郎。意気揚々とビルデは俺が担当だ、とか言うから足止めしてくれるとばっかり……。ただの興味本意かよ。ま、それでいいんだけどね。自分勝手な部下を持つと上司はほんと大変だよ。なあ、サタン」

 優子は視線を変え、サタンに問いかけてみるが反応はない。

 代わりなのかビルデが反応する。

「なんだ、天谷神二がお前の部下だってんなら、お前はあいつの上司なのか?」

「ああそうだよ。神二に神の力が何たるかを教えたのは私だからさ」

「へー、それにしてはあいつお前のことを悪く言ってたけどな。血の気が多いとかなんとか」

「血の気が多い?」優子は血肉を喰らう獣のような顔になる。「そりゃいいじゃねぇか、確かに私は血も涙もない、血の気が多い戦闘民族さ。闘って戦って、蔑み虐げる。他人の死をもって自分が生きてると感じることができる。自分が弱者ではないと理解するあの瞬間を欲する。すべてが自分を中心に回っている。自分は選ばれた存在、自分は何もかもの頂点に立つ存在だ。そう感じることができる。お前らにわかるか? 欲を捨て、向上心という概念すらもなくしたてめぇらにわかるか? すべての上に立つというあの高揚感。得も言われぬ快感。生まれてきたこの世界が素晴らしく見えてくるあの感覚。私は認められている、私以外の存在などエキストラ。そんな風に心の底から思えてしまう。自分は一番。二番以下などクソの数字。私は私。自分という一人称が唯一許される存在。理想が現実になる。まるで自分が神にでもなったようなあの感覚。もう……普通にはなれねぇんだよ」

 優子は大きく息を吸い、そして自分を落ち着かせるようにゆっくりと吐く。

「お前らもお前らで色々なもんがあるんだろ。それぞれに思うところがあるんだろ。思い出したくない過去があるんだろ。護りたいものもあるんだろ。殊勝なことだ。見上げたものだよ。でも私は――」

 優子は右手で自分の顔を覆い、ゆっくりとその手をおろす。頭から顎下へと白い閃光がオーラのように周りに放たれる。

「そういう綺麗ごとが――」

 最初に変わったのは髪型、そして目、鼻、口と続いた。

 サタンとビルデはその顔に見覚えがあった。

忘れもしない、忘れることもできない。忌まわしきその顔を。

「大っ嫌いなんだよ!」

 顔が変わった、比喩ではなく文字通りに。先ほどの大門鈴鹿の顔ではない。

 その顔は二人を見つめる。

 睨みではない。だが二人は睨まれたような感覚に苛まれる。それほどにその顔は二人にとって恐懼に値するものだった。

「お前は…………神……」

 そこには神がいた。魔界を恐怖のどん底に陥れた存在がそこにいた。

 そして神はまた顔を変える、今度は手を使わなかった。再び白い閃光が放たれる。それが放ち終わると再び大門鈴鹿の顔が形成された。

「ま、別に手なんか使わなくても見た目は変えられるんだけどね。ちょっとした演出さ。で、どうだった? 久しぶりに見た仇敵の顔は」

 ビルデは少し逡巡したが、

「けっ、久しぶりか……。俺には昨日のことのように思い出されるよ。てめえが魔界に乗り込んで、俺らの仲間を虐殺したあの日をよ」

 暗黒の世界に闖入してきた数人の不確定な存在。それが何かと分かる前にいくつものスクリームが世界を包んだ。圧倒的な力。一瞬だった。絶望を啓蒙された。今までのすべてがなかったように、これからのすべても壊すかのようにその顔は笑った。

 そいつが今、目の前にいる。ビルデはそう思った。

「まあ、今回は神二の言う通り挨拶だけで、本気でやり合おうとは思わないよ。もし私が本気でやってたら、今頃そっちのサタンは濁流にのまれて河口付近で変死体になってただろうしね」

 サタンもビルデも何かを言い返すことはなかった。事実そうなってしまうほどに二人とこの神の力の差は歴然だったからだ。ビルデは考えずともそれを固定概念として悟っていた。

「それに私はさっきも言った通り血の気が多い。戦いを欲するいかれた野郎だ。てめぇらみたいな雑魚よりも、強い奴と殺り合いたい。そう、てめぇらが探してる大門鈴鹿とな」

 優子はいじめがいのある子供を見つけたガキ大将のような毒々しい笑顔を浮かべた。

「そんなことを言うってことはもう大体の事情は掴めてるわけだな。俺たちがなぜ大門鈴鹿を探しているか。そしてサタン様の仮面の意味も」

「ああ、わかってるさ。もしかしたらそれ以上に知ってるかもね。なぜサタンが仮面をしなくてはいけないのか。いや正確には、なぜわざわざ自身の魔力を抑える仮面なんかをつけなければいけないのか、か」

 ビルデは舌を打った。想定外だった。今起こっているすべてが。

 天谷神二という新たに増えた神の使徒もだが、それ以前に俺たちを苦しめた張本人がもうすでにこの人間界に侵入していたことも、大門鈴鹿という存在も、なぜサタンがここまで自身の力を抑えなくてはいけなくなっているのかもすべてを敵に知られていた。

 そして何よりも腹立たしいのはそれらを分かったうえで、まだこいつらは俺たちと闘おうとはしない。飽くまでも最高なコンディションの俺たちと闘いたい。いや、正確には俺たちなど眼中になく大門鈴鹿と闘いたい。それはなぜか、『ただ強い奴と闘いたいから』、ただそれだけだった。

「随分なもんだ」ビルデは堪忍袋の緒をしっかりと締めながら呟く。「そこまでわかっておきながらお前は大門鈴鹿と闘いたい。ただ戦闘を求めるサイヤ人みたいに。それはなんだ、ワクワクすんのか。そういうのは少年漫画の主人公だけでいいんじゃねぇのか。そんなクソみたいな戦闘意欲だけでてめぇは、俺たちの世界を!」

 ビルデは叫んだ。だがそれは自身の感情をさらけ出しただけで、内心はひどく冷静だった。理性という異物が歯止めをかける。経験という肥やしが恐怖を増長させる。

 それらがなければ今すぐにビルデは目の前のこの女に鉄拳を見舞っていたことだろう。

 雨が降る音、濁流が流れる音、ビルデの息づかいが空気を震わす。

 雑音の静寂が続いた。

 それを破瓜するは神の声。

「お前の堪忍袋のキャパシティが寛大で安心したよ。それとも恐怖におののいたのか。ま、とりあえずお互いの手の内がわかっただけでもメリットだと考えた方がいいんじゃねぇか。いやお互いではないか、私たちが知っていることを私が教えているだけなんだから、神なる私としてはデメリットしかないのか。だったらあんたたちはなかなかにラッキーじゃないか。よかったね」

 二人は答えない。

「そうだ、訊きたいことがあったんだ」

 神は思い出したのかのように手をポンと叩いて未だ白いクレストの上で立ち往生しているビルデに問う。

「何でこの場所がわかったの? 見たところサタンがあんたと連絡を取っている素振りはなかった。まさか闇雲に探して私たちを見つけたわけじゃないでしょ? ま、大体想像はつくんだが……」

 神は自分の胸ポケットを抑えて、ビルデの後ろに背後霊のようにくっついている正体不明の有機生命体を見る。

どうやら隠しても無駄だと悟ったのかビルデは答える。

「名刺だ」

 神は『まあそれしかないでしょ』といった小憎たらしい顔をする。

「お前にさっき渡した名刺の文字フォントのインクに性ホルモン剤を摺り込ませていた。この魔界バエブブが引き寄せられる匂いをな」

 ビルデは自分の肩の後ろを指さす。ブブが申し訳程度に優子を睨みながらひょこっと出てきた。

「こいつはどんなに離れた場所からもその匂いを嗅いで発情期さながら一目散にその場所に向かう。しかもその性ホルモンの匂いは水に濡れたくらいじゃ取れない代物だ。だからお前の場所がわかったんだよ。あと、このブブはそれだけじゃなくちゃんと悪魔の使い魔としての役割も従順に果たしてくれるぜ。あの天谷神二と違ってな」

 どこかで天谷神二がくしゃみでもしているだろうビルデの発言の後、神はその名刺を取り出ししげしげと見る。

「へー、これがねー。匂いなんて全然しないけど、そう言うんならそうなんだな」

 優子は佐藤勝とありきたりな名前が書かれた名刺を鼻に付けて、その流れでキスをした。

「じゃあ、これはもらっておくよ。普通ならここでどこかに捨てるんだろうけど、これを持ってたらまたあんたらに会えるんだもんね」

 もしかわいい女子高生が今みたく上目づかいでそんなセリフを吐いたのなら卒倒ものだろうがビルデには恐怖しか感じるところがなかった。

「んじゃ、またね」

 名刺を胸ポケットにしまった優子はビルデが乗っていた白いクレストもろ共自分が乗っていたクレストを消して、そのまま重力に身を任せ濁流の中へと姿を消した。

 絶望と焦燥という忘れ物をビルデとサタンに押し付けて。

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