第6話 陣貝徹
この年になってもまだ勉強意欲がわかないことを考えると私はつくづく勉強というものが嫌いなのだなと鈴鹿は黒板を見つめながら思っていた。
今は数学の授業であり、先ほどの公民の授業では案の定ボンボヤージュしてしまったが、この授業でも出港しかねないほどの瞼の重さだった。
教壇に立つ先生が日本語か異国語かもわからない言葉を吐き、それを前の黒板に書き連ね、意味も分からずそれを板書するその行為にも飽きてきた鈴鹿は机に突っ伏し昼寝をむさぼろうとする。
すると隣の席に座る麗華が鈴鹿の睡眠を邪魔するように自分のノートを見せてきた。そこにはまるでそのままルーブル美術館に出展できるんじゃないかと思わせるクオリティの先生の似顔絵が描かれていた。麗華は芸術と名の付くものはある程度のレベルまでこなしてしまう。鈴鹿にとっては今さら驚くことではなかった。
鈴鹿は麗華が絵を描いたそのノートを取り上げ、なにやら落書きをし始めた。あらかた書き終え満足するとそれを返した。麗華が見るとそこにはまるで小学生が描いたかのような稚拙な落書きが施されていた。
麗華は少し吹き出す。それを見て鈴鹿も自然と顔が緩んでしまう。
退屈な数学の授業ではこんな不毛なやり取りをすることがいつの間にか二人の不文律となっていた。
すると鈴鹿の机の上に丸めた紙片が放り込まれた。どうやらすぐ後ろの席から投げ込まれたようだ。おもむろにそれを開いてみるとそこには「何笑ってんの?」と書かれていた。
授業中には麗華だけでなく時々暇つぶしにこの男とも不毛なやり取りをする。
後ろの席に座る男、陣貝徹(じんがいとおる)。鈴鹿とは麗華と同じく幼馴染。もともとは麗華の母親が自宅で経営しているピアノスクールに通っていた生徒だ。よく鈴鹿は麗華を遊びに誘うために家に訪問していたためその頃からの顔見知りである。麗華つながりで友達に発展し、中学高校と同じ学校に通っている。小学校の時分でもよく三人で遊んだりしていた。
徹はその端正な顔立ちからか女子によくモテる。告白もよくされるようだが、未だに誰かと付き合ったという噂は聞いたことがない。一部男子ではホモなんじゃないかという噂も立ったほどだ。しかし本人と話している限り好きな人はいるとのことだったので、ただ思いが伝えられないヘタレなんだなと鈴鹿は自分勝手に解釈していた。
ちなみに鈴鹿にとってこの男はただの友達もとい暇つぶしの相手程度の存在だった。
鈴鹿は徹に返事をするためにノートの端をちぎった。そして何やら文字を書き、徹の机へとそれを投げた。
その紙には「既読無視」と書かれていた。
「おい、なんだよこれ、ちゃんと返せよ」
徹は前に座っている鈴鹿に囁いた。
すると二枚目の紙片が投げ込まれ、そこには「黙れ」と書かれていた。
そこから二人は何言かのやり取りをしていたが先生の「うるさいぞ」の一言で静かになった。
こういったやり取りは二人にとってはいつものことだ。
子供のころは徹がかくれんぼをしたいと言えば鈴鹿は「じゃあ私が鬼やるから徹は隠れて」と言ってそのまま家に帰り、徹を一人にすることもあった。
麗華、鈴鹿、徹の三人でままごとをする時には鈴鹿の要望で徹は無条件に「寝ているだけの犬」役に任命されていた。
じゃんけんでも明らかに鈴鹿の後出しだというのに「徹は出すのが早い」と言いがかりをつけ、徹を泣かすこともあった。
昔から鈴鹿はイジり役で徹はイジられ役だった。それは今になっても変わらない。だがそんな長続きしないような関係が二人にとってちょうどいい距離感なのだなと第三者の麗華は思っていた。
昼休みのチャイムが鳴り、いつも通り鈴鹿は昼ご飯を買いに行くために小銭を握りしめ食堂へと走って行った。人気の焼きそばパンは今みたく急がねば買えない代物だ。麗華はそんな食欲旺盛な鈴鹿を見送った。
「なあ、麗華」
麗華にそう声を掛けたのは徹だった。
「あいつ大丈夫なのか? もう二年の二月だぞ、そろそろ将来のこととか考える時期なのにまだ就職かどうかも決めてないんだろ?」
徹は鈴鹿の現状を慨嘆するように、そして心配するようにそう言った。麗華はそれを聞き無意識に頬が緩んだ。
「何笑ってんだよ」
「いや、別に。なんかお母さんみたいなこと言うんだなって思って」
徹は少し顔を赤くした。
「お、俺はただ単に友達として……」
「へー、友達?」
それはまるで『友達』と言った徹のことが不思議だというような聞き方だった。
「そろそろ言ってもいいんじゃないの、徹」
徹は返す言葉がなかった。そんな徹を見て麗華は周りに聞かれないように徹の耳元に歩み寄り、
「鈴鹿のこと、好きなんでしょ?」
と、言った。麗華にはばれているかもと思っていた徹だったがいざ言葉にされるとなんとも面映ゆい気持ちになった。
「まあ、あんまし鈴鹿は恋愛するようなタイプじゃないから縮こまっちゃうのはわかるけどさ、男ならドーンといっちゃてもいいんじゃない? 鈴鹿はあのとおり鈍感だから、ちゃんと言葉にしないとわかんないよ」
徹はそれを聞き、しばし逡巡した。麗華もそう言ってはみたものの徹が行動に移せない理由はなんとなく分かっていた。
麗華は徹の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、鈴鹿はそんな人じゃないから」
麗華がそう言うと教室の隅からタイミングよく千代が麗華を呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあ行くね」
「おう」
麗華が言ったさっきの言葉の意味は分かっていた。
今まで三人仲良く一緒にいた。それは小学校からの言わば腐れ縁だった。しかしそれは友達という立場であり、友情という鎖につながれていた関係だったからだ。ふと思う、もしそこに恋愛感情を持ち出してしまったらこの関係はどうなってしまうのだろうか。今まで通りの関係は望めないだろう。もし振られてしまったら鈴鹿と仲のいい麗華とも疎遠になってしまうのではなかろうか。そんなマイナスな感情が徹を支配していた。
だからこそわかる。さっきの麗華の言葉は「もし振られたとしても、今の関係を壊すほど鈴鹿は振ったことなんて気にする人じゃないから」という意味だったと。
確かに鈴鹿はそんなことを気にせず次の日も普通に挨拶を交わしてくれるくらいにあっさりとした性格だということは近くにいた徹なら知っていた。
中学の時、徹と同じクラスの男子が鈴鹿を好きになったことがあった。あの毒舌と気の強さがたまらないとのことらしい。その男と鈴鹿は徹と同じくクラスメイトの一人だ。二人は挨拶をし、少し言葉を交わすくらいの仲だった。徹はその男に懇願され、しぶしぶだが鈴鹿への告白の場を設けたことがある。設けたといっても体育館裏に呼び出したくらいのものだ。案の定、自分で意中の人を呼び出すことのできない男気にかけるその男はあっさりと振られた。その理由は面倒くさいという鈴鹿らしいものであった。その男はもう鈴鹿とは変わらず今までの関係とはいかないだろうと内心思ったはずだ。だが次の日、傷心しきったその男にいつもと変わらない「おはよう」と挨拶をした鈴鹿には素直にかっこいいと思ってしまった。
鈴鹿にはもしかしたら気まずいという概念がないのかもしれない。だがそのおかげでなのか今の鈴鹿という存在が確立されている。
徹は昔懐かしき鈴鹿のエピソードに感慨にふけろうかと廊下の窓の外へと目をやった。すると、
「どした? ユーフォー見える?」
と、いきなり声を掛けられた。びっくりして振り向くとそこには鈴鹿がいた。どうやら食堂から帰ってきたようだ。右手には戦利品の焼きそばパンが入った袋を提げていた。
「なんか見えるの?」
鈴鹿は続けて質問する。
「別に、なんも見えないよ」
徹は淡泊に答える。
「てか雲行き怪しいな。今日傘持ってきてないよ、どうしよ」
鈴鹿はさして心配するでもなく言った。そんな時は鞄を傘代わりにし、雨に濡れながら走って帰るのが通例だからだ。だが根が優しさでできている徹は、
「じゃあ俺の傘に入ればいいだろ」
と、気取ることなく真摯に言った。だが鈴鹿はその紳士な一言を、
「お前の傘小っちゃいからいいわ」
と、無下に断った。そこまで言われてしまえばもう徹も次の言葉がなかった。
果たして俺の傘はそんなに小さかっただろうかと徹が思い悩んでいると鈴鹿は提げていた袋から野菜ジュースを取り出した。そしてそれを徹の頬につける。
「冷たっ」
「不健康そうだからそれやるよ」
鈴鹿は少年のような目でそう言い、教室の方に戻っていった。
だが鈴鹿は何かを思い出したように戻ってきた。
「あ、傘の話、ありがとね! 気持ちだけ貰っとく」
嬉々とした笑顔でそう言うと鈴鹿は麗華たちの所へと走って行った。
「……そのギャップはずるいだろ」
そう呟くと徹は野菜ジュースにストローを刺した。
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