第四幕:愛の奇跡

 ユアンの冷えかけた体を腕の中に抱きしめたまま、俺は必死に祈り続けていた。彼の髪はひんやりと夜の空気をはらみ、肌からは熱が抜けかけている。それでも、そのわずかな温もりを感じるたびに、俺の胸には千年を超えてきた想いが疼いていた。


「ユアン……頼む、しっかりしてくれ」


 声が震え、涙が頬を伝う。かつて誓いを交わしたあの夜、俺は彼を守ることができなかった。暗殺者によって命を奪われ、彼は無情にも俺の前から姿を消したのだ。あの絶望を、二度と繰り返したくはない。そう願い、必死に彼を探し続けていたのに……またしても、俺は彼を傷つけてしまうのか。


「カイ……」


 かすれた声が、俺の名を呼んだ。目を凝らすと、ユアンの瞳は半ば開かれていたものの、そこに宿る意識は薄い。まるで夢の中で彷徨っているような、掴みどころのない視線。


「ユアン……今、助けるから」


 俺は彼の髪をそっと撫でながら、神殿の天井を見上げた。古代の彫刻が月光に照らされ、幽玄な影を落としている。すると、まるで呼応するかのように、月の光が一段と強まった。神殿の中央に差し込むその光が、淡い銀色に揺れる。


「頼む……神よ……どうか、彼の命を救ってくれ」


 俺から彼を奪わないでくれ――その一心だった。


 すると、急激に月光が増し、神殿全体が眩いばかりの銀色に染まっていく。俺は思わず目を細めた。次の瞬間、空気が静止したように澄み渡り、荘厳な気配が満ちる。


「汝の愛は試練を乗り越えた。我はこれを祝福しよう」


 まるで透明な鈴を鳴らすような、しかし重みを帯びた声が響く。視線を上げると、そこに現れたのは、優雅に佇むルミエル神の姿だった。月光をまとった神の周囲には、星屑のような光が舞い、そのひとつひとつが俺たちの罪や苦しみを洗い流すかのように揺らめいている。


「ルミエル神……」


 俺は唇を震わせた。彼女は静かに俺とユアンに目を向けた。その目は冷酷な神のそれではなく、どこか慈悲に満ちている。


「汝の魂は、千年の間、幾度となく絶望に沈みながらも、その愛を手放すことはなかった。これは運命ではなく、己が意志の証。それゆえ、我は汝の願いを聞き届けよう」


 ルミエル神の腕が、白く細い弧を描くようにユアンへと伸びる。ユアンの胸元に触れた瞬間、眩い光が弾け、神殿の闇を払った。


「ユアン!」


 俺は彼を抱きしめながら、その光の温もりを感じ取る。冷えかけていた彼の体が、少しずつ熱を取り戻していくのがはっきりと分かった。肩口に開いた深い傷が瞬く間に塞がり、あの苦しげな呼吸がゆっくりと整っていく。


「……あ」


 ユアンの唇から、微かな声音が漏れる。瞳が震え、そして次第に焦点を取り戻すかのように俺の姿を映し出した。


「ユアン……良かった、良かった!」


 嬉しさのあまり、言葉がうまく出てこない。ただ、ただ、彼が生きているという事実だけで胸がいっぱいになる。


「カイ……僕……」


 ユアンは混乱した様子であたりを見回し、それから俺の胸に視線を戻した。まるで自分がまだ夢を見ているかのような不思議そうな顔をしている。


「大丈夫だ。お前は、俺の腕の中にいる」


 俺はそう告げると、彼の頬に触れ、その温かさを確かめる。ユアンは少し照れたように笑い、俺の手に自分の手を重ねた。震える指先からは、確かに鼓動が伝わってくる。


「……ありがとう、神よ」


 思わず、俺は目を伏せて感謝を捧げる。ルミエル神は小さく頷き、月光とともにその姿を消し始めた。その瞳には優しい光が宿っていたように思える。


 神殿の崩壊が始まる。影の修道会の邪悪な力の源を失ったこの場所は、自らの存在理由を失い、音を立てて崩れ去っていく。


 俺たちは互いを支え合いながら、崩れゆく神殿を後にした。背後で聞こえる瓦礫の落下音は、まるで長きにわたって続いた呪いの物語に終止符を打つかのようだ。


 

 それから幾日も経たぬうちに、影の修道会は事実上壊滅した。世界を覆っていた暗雲は消え、俺とユアンを縛るものはもう何もなくなった。


 夜の森を照らす満月は、以前にも増して優しく、俺たちの足元を導いてくれる。銀色の花が闇の中で揺れ、まるで祝福のように淡い香りを放っている。


「俺はもう、どこにも行かない。お前をずっと守り続ける」


 俺はユアンの手を握る。その手は確かに温かく、返される握力に、彼の確かな意思を感じた。


「ありがとう。僕も、君と離れたくない……。千年前は守られるだけだったけど、今度は僕も、君を支えたいんだ」


 ユアンの言葉に、俺は穏やかな笑みを浮かべた。彼は確かに変わった。前世の記憶を取り戻しただけでなく、今を生きる自分自身の意志を強く持っている。


「お前がいてくれるなら、俺はもう呪いの恐怖に怯えることもない。ようやく、心からそう思えるんだ」


 ユアンは優しく笑い、そっと俺の胸に顔を寄せる。その仕草は何とも愛おしく、胸の奥を柔らかく締め付ける。


 俺たちはまるで、長い旅の始まりを前に心踊らせる子供のように、互いを見つめ合った。千年という時を経て、やっと得られた自由と愛。それを思い切り謳歌しても、誰も文句は言わないはずだ。


「ねえ、カイ……」


「なんだ?」


「……愛してるよ」


 不意の告白に、胸がきゅっと高鳴る。俺は思わずユアンの手を引き寄せ、彼の細い腰を抱きしめた。驚いたように目を見開いたユアンだったが、すぐに頬を染めて、俺の背中に手を回す。


「俺も……愛してる、ユアン。もう二度と、お前を離さない」


 そう告げると同時に、俺たちの唇は重なった。触れ合う瞬間、夜の静寂がひときわ深まり、まるで森全体が呼吸を止めて二人を見守っているかのように思える。


 彼の温もり、柔らかな感触、そして確かにここにある命。すべてが愛おしく、奇跡のようだった。長い間、孤独に苛まれ、暗闇をさ迷い続けた俺にとって、これほどの幸福が訪れるとは想像もしなかった。


 お互いの愛を確かめ合うように、もう一度唇を重ねる。夜風が花の香りを運び、満月の光が俺たちを優しく照らしていた。


 千年の試練を乗り越えた先に待っていたのは、決して離れることのない永遠の愛。どれほど長い年月が経とうとも、俺たちは必ず出会い、愛し合う運命にあるのだと信じたくなる。


 ユアンが微笑む。その笑顔は、まるで月の光よりも眩しく、美しかった。


「愛してる、ユアン」


「僕も愛してる、カイ。今までも、これからもずっと」


 もう一度だけ熱い口づけを交わしたとき、夜の闇が一際深くなる。だが、その闇を恐れることはもうない。なぜなら、彼の笑顔こそが俺の光であり、俺が彼を照らす光でもあるから。


「これから先、ずっと一緒だ。誓うよ」


 俺がそう言うと、ユアンは恥ずかしそうに笑いながら、頷くように首を横に振った。


「誓わなくたって、わかってる。僕たちはもう、離れられないよ」


 その言葉に、俺は目を細め、彼の手を握りしめる。まるで囁き合うように優しく口付けをした。

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夜に響く囁き 海野雫 @rosalvia

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