第三幕:絶望と覚醒
夕闇が世界を包み込み始める頃、俺たちは神殿へと辿り着いた。薄闇に沈む回廊は不気味なほど静かで、足音が響くたびに胸の奥で不安が募っていく。
「嫌な予感がするな」
俺は小さく呟いた。指先がかすかに震えている。呪いから解放されかかった今、ユアンが再び傷つけられてしまうのではないか。そんな恐怖が、頭を離れない。
「カイ……大丈夫?」
隣を歩くユアンが、心配そうに俺を覗き込む。彼自身も不安を抱えているはずなのに、むしろ俺を気遣ってくれているのだ。
「お前こそ、怖くないのか?」
素直にそう問いかけると、ユアンは唇を噛んで小さく首を振った。
「怖いよ。すごく……だけど、君と一緒なら、踏み出せる気がして……」
その言葉が、かえって俺の胸を締め付ける。守りたい存在がいるということは、同時に失う恐怖でもある。しかし、俺はここまで来て立ち止まるわけにはいかない。
重々しい扉を押し開けると、ひんやりとした空気が頬を刺した。神殿の内部は朽ちかけた石柱が立ち並び、壁には不気味な紋様が刻まれている。まるで影が生き物のように蠢いているかのようで、思わず背筋が凍った。
「ここが、影の修道会の……」
ユアンの声が震えている。彼の手をぎゅっと握り返し、俺は静かに頷いた。
奥へと足を進めるたびに、胸の鼓動が早まる。何かが待ち伏せしているのがわかる。
「気をつけろ。絶対に俺のそばを離れるな」
「うん」
ユアンの返事は心細げだったが、それでも踏み止まることはしなかった。俺の姿を見て、どうにか自分を奮い立たせているようだ。
すると、廊下の先から足音が聞こえた。硬質な床を踏みしめる、ゆっくりとした、しかし確固たる意思を感じさせる音。まるで獲物を逃がさないという自信に満ちているような、不吉な響きだった。
「待ちわびたぞ、カイ」
低く響く声とともに、人影が姿を現す。長身で漆黒の法衣を纏い、その目には冷酷な光が宿っていた。影の修道会の幹部、レオ・ヴァルク。
「……っ!」
俺はユアンの前に立ち、彼を守るように構えた。レオは冷笑しながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「ここまで生き延びたとは見上げたものだが、無駄な足掻きだ。貴様の存在こそが、この世界に混乱をもたらす」
「何が混乱だ。勝手な言い分を抜かすな!」
俺は怒りを抑えきれずに声を上げる。だが、レオは嘲るように笑った。
「自覚しているだろう。貴様が消えれば、すべてが丸く収まるのだと。わざわざこの神殿に来たのも、それを証明するためではないのか?」
答える間もなく、彼は目にも止まらぬ速さで手を振った。すると、床から黒い影が伸び、ユアンの足元を絡めとる。
「ユアン!」
悲鳴に近い声が俺の喉から漏れた。必死に駆け寄ろうとするが、別の影が俺の動きを封じてくる。まるで意思を持った鎖のように、冷たく湿った触手が身体を締め付けようとする。
「離せ!」
もがきながらも、必死にユアンに手を伸ばす。そのとき、レオがユアンの首筋に短剣を突きつけた。
「貴様が消滅すれば、彼の命は助かる。さあ、どうする?」
心臓が凍りついたように痛む。頭の中で、あの悲しい記憶が蘇る。
「……やめろ」
唇が震え、声が上ずる。しかし、レオの冷酷な笑みは崩れない。
しかし、その時――。
「思い出した……」
ユアンの呟きが、静かに空気を震わせた。短剣を突きつけられたまま、彼は瞳を見開き、俺をじっと見つめている。
「……僕は……君と誓いを交わした……ずっと前に……」
ユアンの瞳には光が宿り、頬を伝う涙が床へと滴り落ちる。まるで失われていた記憶の扉が勢いよく開いたかのようだった。
「カイ……千年前、僕は君を……」
レオが苛立ちを隠せない様子でユアンの髪を掴み、顔をそらさせようとするが、ユアンの意志は揺るがない。
「僕は、もう一度君を失うなんて……嫌だ。二度と、そんな悲しみを味わいたくない!」
短剣が彼の肌をかすめ、赤い一筋が流れた。その様子に俺は目を見開き、悲鳴を飲み込む。ユアンは痛みに耐えながらも、レオの腕を振り払うように動いた。
「そんなものは幻想だ!」
レオが怒りに任せて刃を振り下ろす。間一髪、ユアンが身を捻ったものの、肩を浅く斬られ、鮮血が飛び散る。
「ユアン!」
身体を縛る影を振り払って彼のもとへ駆け寄った。ユアンは苦しそうに肩を押さえながら、俺の顔を見つめる。その瞳には確信があった。
「カイ……僕はもう……君を失いたくない……」
その一言が俺の心を突き動かす。身体の奥底から熱い力が湧き上がり、まるで鎖を断ち切るかのように呪いの霧が晴れていく。俺の周りを覆っていた闇が消え、鮮やかな銀髪へと戻っていった。
「……呪いが……解けた……」
自分の声が聞こえる。俺は倒れかけたユアンを支え、痛々しい肩の傷を押さえる。
「ユアン、しっかりしろ!」
血が止まらない。俺は必死に彼を抱きしめ、力の限り魔力を注ぎ込む。
「やめろ、カイ!貴様は世界の均衡を!」
レオが再び短剣を振りかざす。しかし、俺の眼中にはもう彼はいなかった。ユアンの意識が遠のくのを感じ、心臓が張り裂けそうになる。
「二度と離さない……」
俺は祈るように、ユアンの体温を求め続けた。世界が歪み、神殿の石畳が音を立てた。遠くでレオの叫び声が聞こえるが、まるで別の世界のことのように思えた。
ユアンの瞳から意識が消えかけた、そのとき――。
神殿の上空から、銀の光が降り注いだ。俺がこの世で唯一信じる月の輝きが、俺たちを包み込む。崩れ落ちそうになる瓦礫や影が一瞬にして払いのけられるかのような、神聖なる閃光。
「ユアン、目を閉じるな!」
どれだけ必死に呼びかけても、返事はない。絶望の闇が俺の心を蝕み始める。
「頼む……君がいなければ……俺は!」
そう叫んだ瞬間、俺の体が不思議な温もりに包まれた。まるで誰かが背後から抱きしめてくれているかのような、やわらかな感覚。見上げれば、月光がより強く差し込み、彼の息を繋ぎとめようとしているようにも見える。
「ユアン……頼む、死なないでくれ……」
そう強く願ったところで、彼の意識はゆっくりと遠のいていった。抱きしめる腕の中で、ユアンの体から力が抜けていくのを感じる。涙が頬を熱く濡らし、嗚咽が喉を突いて出そうになった。
「行くな!」
このまま、また彼を失うなんて、もう耐えられない。レオの嘲笑も、崩れかけた神殿の軋む音も、何もかもが遠ざかっていく。俺はユアンを抱きしめ、ただ祈り続けた。
――神よ、どうか、彼だけは。どうか……。
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