第二幕:記憶の扉
夜の冷たさが肌を刺すたび、心の奥底でじわじわと焦燥感が広がっていく。せっかく再会できたというのに、ユアンは俺のことを覚えていない。千年というあまりにも長すぎる時を経て巡り合ったのに、もし彼の記憶が戻らなければ、俺は完全に消滅してしまうのだ――そんな不安に苛まれながら、俺は再び『ルミエル画廊』を訪れた。
扉を押し開けると、カウンターの奥でユアンが筆を走らせていた。キャンバスには満月に照らされる湖畔の風景が描かれている。その光景は、千年前に俺と彼が愛を誓い合ったあの場所と、まるで鏡写しのように酷似していた。
「なぜ、あなたは僕の夢に興味があるんです?」
ユアンの声は警戒心を含んでいて、俺を拒絶したいという感情がかすかに伝わってくる。けれども、これは避けては通れない問いだ。俺は腹をくくり、正直に話すしかない。
「君の夢は、俺との過去に関わりがある。もし君が思い出さないと、俺はこの世から消えてしまうんだ」
そんな馬鹿げた話を、素直に信じてくれるとは思えない。ユアンの眉が寄り、その青い瞳に疑念の色が滲む。
「消えるって……どういうことです?」
「呪いを受けた存在なんだ、俺は。千年前、君と愛を誓ったが……それは悲惨な結末を迎えてしまった。神々の怒りを買い、俺は怪物となって、君の転生を探し続ける運命を背負わされた」
もちろん一気にすべてを理解してもらえるわけがない。けれども、彼に真実を伝えなければ、今のままでは時間切れになってしまう。そうなれば、俺はまた彼を失い、さらに今度こそ自分自身も完全に消えてしまうだろう。
ユアンは混乱しているようだが、その奥底にある瞳の揺れは、俺の言葉を全否定してはいないように思えた。もしかしたら、無意識の中で俺を感じ取っているのかもしれない。
「……わからない。あなたが言ってることが、本当に正しいのかどうか。でも、夢の中の景色を描くと、なぜか胸が苦しくなるんです。誰かと一緒にいたはずなんですけど、その顔がどうしても思い出せなくて……」
ユアンは言葉を区切りながら、まるで自分自身を探るように唇をかんだ。指先に力がこもり、握られた筆が微かに震えている。
その時、店の窓の外を横切る不穏な影に気づく。影の修道会の監視か、あるいは追手か。
「ユアン、今すぐここを離れよう。もしかすると、すぐに奴らが襲ってくるかもしれない」
そう告げると、ユアンは戸惑うように視線を揺らした。もちろん、いきなりそんな話をされたら困惑するのは当然だろう。彼の中で俺は謎の“怪物”にすぎず、何をしでかすかわからない相手でもあるはずだ。
「……でも、どうしてそこまで僕を巻き込みたくないんです? きっと、あなたの敵は僕なんかじゃ相手にならないような……」
その言葉に、俺は小さく息を飲む。確かに、ユアンを連れ回すことは危険を増すだけかもしれない。だが、彼から遠ざかれば、俺は消滅する運命に一歩近づくだけだ。そして何より、彼をまた独りで危険に晒したくはないという想いが、俺の足を止める。
「君を危険に巻き込みたくないのは当然だ。でも、君が俺と一緒にいなければ、俺は……」
そう言いながら、自分の手を見る。指先が淡く透け、まるで朝靄の中に溶け込んでいるかのようだ。ユアンが記憶を取り戻さないかぎり、俺は定められた“消失”の道を辿るしかないのだ。
「わかりません。でも、あなたを見捨てられない気がするんです……あの夢のせいかもしれない。あなたを見ていると、胸が締め付けられるんです」
ユアンの声は震えていたが、そこに宿る感情は優しさだった。彼が前世の記憶を失っていても、根底にある愛の欠片はまだ残されているのかもしれない。それが唯一の救いだ。
すると、ガラスを割るような衝撃音が響いた。ユアンは息を呑んで後ずさり、俺はとっさに前に出て腕を広げた。
「離れろ!」
男たちが呪文めいた言葉を唱え始めると、床から黒い靄が立ち上がり始めた。だが、俺も同じ闇の力を持つ者。怪物として封じられたまま、千年間も苦しんできた力を今こそ使うときだ。
「ユアン、カウンターの陰に隠れてろ!」
俺の叫びに、彼は一瞬だけ目を見開いてから、慌ただしくしゃがみ込んだ。恐怖でその場を動けないようだったが、それでも俺を信じるように視線を向けている。
呪文の応酬が始まった。暗い稲光のような魔力が飛び交い、店内に火花が散る。俺は影を操って男たちの脚を絡め取ろうとするが、相手も似たような術を用いてくる。激しくぶつかり合う闇が、火花のように弾けるたび、ユアンが小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。
「ちっ!」
焦れば焦るほど、敵の攻撃は苛烈になっていく。俺は最後の一人を闇の刃で倒し、どうにか店内を静寂に戻した。
「行こう、ユアン。ここはもう危険すぎる」
彼に手を差し出す。ユアンはまだ怯えた顔をしていたが、それでも俺の手を握り返してくれた。
店を飛び出し、夜の街を駆け抜ける。路地裏の暗がりを選びながら、何とか追手の目を避ける。
「あなたの言っていたこと、まだ半分も信じきれていません。でも……」
ユアンが苦しそうに息を整えながら、ぽつりと呟く。
「でも……見捨てるわけにはいかないんです。これだけは、本能がそう言ってる気がするんですよ」
その瞳には確かに優しい光が宿っていた。千年前と同じだ。彼はいつだって俺を救おうとしてくれた。だからこそ、今度こそ守り抜きたいという気持ちが、俺の胸を熱くする。
「ありがとう。必ずこの呪いを解いて、元の姿に戻ってみせる。そのときは……」
何を言おうとしたのか、自分でもわからなくなる。もし呪いが解ければ、彼に再び愛を誓ってもらえるのか。そんな期待が胸をよぎるが、まだ早い。ユアンだって、完全に思い出してはいないのだ。焦ってしまっては、前世と同じ悲劇を繰り返すかもしれない。
「あの夢。もう少し、詳しく話せますか?」
言葉を繋げるようにして問いかけると、ユアンは少し困ったような表情を浮かべる。それでも、できるかぎり思い出そうとしているのか、瞳を閉じて何かを探るように唇を噛んだ。
「夜の湖畔で、誰かの声を聞くんです。『探した』とか、『ずっと』という言葉が印象に残っている。でも、顔は見えなくて……いつもそこだけ、途切れてしまうんです」
それはまさしく、俺が彼を探し続けてきた千年の苦しみを表すような言葉だった。
「大丈夫、少しずつでいいから。俺は絶対に君を守るから、怖がらなくていい」
そう告げると、ユアンはかすかに俯き、俺の袖を掴んだ。
呪いの進行は止まらないかもしれない。影の修道会の脅威はむしろ増すばかりかもしれない。それでも、俺はユアンが思い出してくれるまで、彼を守り抜く。そう誓いながら、夜の闇の中を共に駆け抜ける足取りは、不思議と重くはなかった。
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