夜に響く囁き
海野雫
第一幕:再会
夜の森を抜け出す頃、月は既に高く昇っていた。木々の狭間をすり抜ける風は肌を冷やし、そのたびに俺の胸を焦がす千年の記憶が疼き始める。どこまでも続く闇の向こうに、一筋の灯りが見えた。そこに、俺の長い旅の終着点があるのだと、はっきり感じていた。
「……ユアン」
かつての恋人の名を口にしながら、俺は街へと足を運んだ。石畳の広場では、笑い声や楽器の音が響き、人々は夜でも賑やかに過ごしている。その喧騒のどこかに、転生した彼がいると考えるだけで、心が逸る一方で、不安が膨らんでいく。
もし、彼が俺のことを思い出さなかったら――。もし、俺を見て恐れ、拒絶したら――。考えれば考えるほど、胸の奥でチリチリとした痛みが広がる。
俺はそんな感情を振り払うように、足早に広場を横切った。石造りの建物が並ぶ通りを進むと、目に入ったのは小さな看板。『ルミエル画廊』と描かれている。窓の奥では、金髪の青年がキャンバスに向かって筆を動かしていた。
心臓が強く鼓動を打つ。あの柔らかな面影、穏やかな姿勢……間違いない。千年も探し続けた彼が、そこにいる。
扉を押し開けると、小さな鐘の音が店内の静寂を破る。ユアンが顔を上げ、俺に気づき、ほんの一瞬目を見張った。その青い瞳が俺を映し出した瞬間、すべてが止まったように感じる。
「いらっしゃいませ」
彼の声を聞くだけで、胸が詰まる。けれど、その声には懐かしさだけでなく、戸惑いと警戒心が混ざっていることがわかる。無理もない。今の俺は呪いによって“怪物”の姿を宿しているのだから。
「この絵……君が描いたのか?」
視線の先にあるのは、夜の湖畔を描いた一枚の絵。満月が水面を照らし、木々が静かに揺れる。その風景はかつて俺たちが愛を交わした思い出そのもの。
「ええ……最近、夢に見る景色なんです。どうしてこんなに切ない気持ちになるのか、自分でもわからないんですが……」
ユアンはそう言って微笑もうとしたが、その表情には疑問の色が浮かんでいる。
「……君は」
俺が一歩前に出ようとした瞬間、ユアンはそっと身体を引いた。明らかな警戒が伝わってくる。
「すみません、どちら様ですか? 昨日まではお見かけしなかったように思いますが……」
俺の胸に鋭い痛みが走る。千年前、俺の名を真っ先に呼んでくれた唇が、今はまるで見知らぬ相手に問いかけるように、冷ややかな声を紡いでいる。
「俺の名前は、カイ。君を、ずっと探していたんだ」
言葉に詰まりそうになるのをこらえながら、何とかその想いを口に出した。ユアンの瞳がわずかに揺れる。もしかして、彼の中に眠る記憶が、小さく声を上げているのかもしれない。
「探していた? どういうことですか?」
困惑するユアンの表情を見ていると、千年前の悲劇が胸に蘇る。暗殺者の刃に倒れ、儚く消えていった恋人の姿。神々の呪いによって怪物と化し、千年の間探し続けた苦悩。だが、すべてをここで語るわけにはいかない。彼を怖がらせてしまうだけだ。
「君は……名前は、ユアン・ルミエル、で合ってるか?」
「あ、はい。それが僕の名前です。どうしてそれを……」
彼の声に再び警戒が混じる。俺はその不安を和らげようと、一歩近づこうとするが、ユアンは身を引いた。やはり、簡単には受け入れてもらえない。
「わからないことばかりかもしれないが、信じてほしい。君が、俺の運命を握っているんだ」
本当は“愛していた”と言いたかった。けれども、そんな言葉をいきなり告げても、受け止められないだろう。ユアンは戸惑いと恐れをないまぜにしたような表情で、俺を見ている。
「すみません、もう閉店の時間なので……」
彼は俺を遠ざけようとする。痛みが胸に押し寄せる。千年もの年月を越えて、ようやく会えたのに――。
「……そうか。わかった。でも、近いうちにまた来る。君に伝えたいことが、あるんだ」
ユアンは何も返事をしなかった。ただ、その青い瞳が何かを探るように俺を見ている。俺は振り返らずに店を出ると、ひとり夜の風の中に立ち尽くした。
「記憶が戻らなければ、俺は消える。時間がないんだ……」
指先を見下ろすと、ほんの少しだけ透けているような気がした。怪物としての呪いが、今まさに俺を蝕み始めている。かつての誓いを思い出してほしい、そうしなければ俺は完全に消えてしまう。果たして、彼は再び俺を受け入れてくれるのだろうか。
夜の冷たい空気が肺を満たすたび、胸が軋む。けれども俺は、再びユアンに会いに行こうと誓った。たとえ拒絶されても、何度だって――彼こそが、俺の千年の呪いを解く唯一の希望なのだから。
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