飛行機の中はぼんやりと暗い。嫌な夢を見て飛び起きた。時計を見ると、深夜2時。馬鹿な夢だ。ジョーは1月1日のライブで一緒に歌ってくれるというのに。

『あと10分で着陸いたします。シートベルトをお締めください』

 アナウンスが数回繰り返される。俺はもう慣れた手つきで、持ち物を全てカバンに収めて、コートを身につける。

 その時、マネージャーが一言囁いた。彼は真っ青だった。ジョーが死んだ。どうしてだかそう聞こえて、俺はマネージャーに聞き返した。疲れているのか、先ほどジョーと再会したのがよほど衝撃的だったのか、耳までばかになってしまったらしい。

「もう一度言ってくれ」

 しかしマネージャーは口を開かなかった。

「おい、なんだよ。もう一度言ってくれってば」

 マネージャーがスマホで写真を表示させた。そこにあったのは号外の写真だった。

『速報

 元CRYメンバー ジョー・スミス氏の死亡 殺害か』

 体温が一気に何度も下がった。

「は」

悪い冗談だろう。

しかし何度目を擦っても文字はそこにある。何度見直しても、消えない。マネージャーのスマホを奪い取る。

『速報

 元CRYメンバー ジョー・スミス氏の死亡 殺害か』

『速報

元CRYメンバー ジョー・スミス氏の死亡 殺害か』

『速報』

 なんなのかわからない言葉の羅列が、ただ俺の眼前に存在している。死亡? 殺害?

なんのことだ、俺はさっきジョーと会ったんだ。話したんだ、やっと。

「……嘘だ嘘だ、嘘に決まってる」

 指ががくがく震えた拍子にスマホが床に落ちた。

「飛行機を出してくれ! イタリアへ帰らせてくれ!」

 誰かが俺の両腕をがしりと掴んだ。視界が定まらなくなってきて一気に力が抜けた。

「やめてくれ、ああ、嘘だ……」

 玄関で出迎えたノエミは、様子がおかしいことに気づいて、俺を抱きしめた。彼女の体温に包まれて初めて、何が起こっているのかが少しだけ理解できた。俺が去ってすぐに、彼は殺されたのだ。もしかしたら彼は、俺に助けを求めていたのではないか。俺はそれに気づけずに、みすみす彼を殺させてしまったのではないか。

意識が戻ったと思ったらトイレで吐いていた。ノエミはずっと背をさすってくれていたが、それに気づいたのは後のことだった。

「何があったの? ねえ、どうしちゃったの?」

ノエミに支えられながら、ソファに身を投げた。体がもう、少しだって動かない。

「さっきから、誰に謝ってるの?」

 俺がジョーを殺したんだ。その思いだけが全身を駆け巡って、喉の奥の方に巨大な、しこりみたいな熱い塊ができていた。何かをぶつぶつ呟く。何を言っているのか自分でもわからない。

 再び目が覚めた時、ベッドの上にいた。

「ホットチョコレート、作ってきたよ」

 ノエミの声が上から降ってくる。顔をあげることもできないまま、彼女がカップをスプーンでかき混ぜる音を聞いている。チョコレートの甘い香りが漂ってくる。

「……」

 ジョーの最後の顔と、初めて会った時の顔、匂い、声。とりとめのない記憶ばかりが再び俺のところに帰ってきて、目の前に現れる。

「何があったのか、もう聞かない。聞かないよ。何もしなくていい」

 ノエミが枕元にしゃがんだ。ぼうっと彼女に目をやる。ひどく心配そうな顔をしている。彼女が指に触れた、気がする。

「音楽を止めて」

「え?」

 歌声が聞こえる。ピアノの跳ねる音が耳に入ってくる。とても不愉快で、とても聞いていられなくて、

「それを止めろ!」

 怒鳴った。音楽はどんどん大きくなる。頭が、割れそうになる。ジョーが見える。「お前が殺したんだ」と、泣いている。優しい言葉が俺を切り刻んで、粉々に叩き潰して、抉って、捻って、何もかもわからなくする。

「クラウディオ! 落ち着いて、音なんて鳴ってないよ!」

 恐ろしい、悍ましい。息がうまく吐けなくなって肺が引き攣る。あまりにも耐え難い苦しみに、酒を飲もうとした。手でボトルを探すも、空気を掴んだだけだった。酒、酒があれば忘れられる。身も心も焼け爛れてしまいそうだ。

「お酒は全部捨てたよ!」

 ノエミは言った。道が閉ざされたような絶望が後に残って、ぐったりと彼女に身を任せた。それからどれだけの時間が経ったのだろう。ノエミの鼓動が響いてくる。彼女が歌をうたっている。声を出すことができなくても、彼女は俺がそれを聞いているのをちゃんと分かっているようだった。

ジョーの曲だ。ジョーの旋律だ。スタジオで、ライブで、たくさんの人の前で歌ってきた曲だ。それはとびきり繊細な、ゆったりとした流れのバラード。ノエミはそれを子守唄のように俺に聞かせている。

1月1日、俺はライブにでなかった。それが発端になって、今までやってきた悪事が、世の中に出回り始めた。

過度な飲酒による暴言、ドラッグの使用を始め、それらは俺の歌手としての印象を下げるには十分すぎた。ファンだった人が次々に離れていくさまが、テレビで流れていた。寝室に引きこもるようになった。胸に穴が空いていた。何かが欠けてしまった。それは俺を一日中蝕んで、世の中の全てを恐ろしく見せるのだった。

思えばずっと、自分でもなんだかわからないような悪夢に、溺れている。もがいて叫んで、誰かが助けてくれるのを待っているんだ。

 ジョーが何を考えていたのか、思っていたのか。結局最後までわかることができなかったんじゃないかと思う。父親だと思っていたし母親だとも思っていた。気難しい友達とも思っていたし、俺だけが本当のジョーを知ることができると思っていた。他の人がジョーについて知ることに、子どもみたいに嫉妬なんかしたりもした。彼の寂しさを癒してあげたいと思ったし、同時に彼に癒されたいと思った。それはいつも叶わなかったから俺は傷つくことになった、だがそれでも気持ちを無理矢理なかったことにするのは不可能だった。そういう意味では俺はジョーに囚われていた。ジョーが神様に囚われていたのと同じように。

この世界で生きるには何かに縋らなきゃならないこともある。悪いことじゃない。だけど、辛いのはなくならない。ジョーが俺に、俺の欲しいものをくれないから余計にそうだ。

 音楽だけじゃ足りなくなったんだ、途中から。音楽が全てを満たしてくれると思っていたのに、途中から変わった。ジョーの音楽を感じれば感じるほど、浴びれば浴びるほど俺は、ジョーの愛が、本当の家族の愛が欲しくなった。欲しくなったし、もしかしたら叶うんじゃないかって。俺にも手が届くんじゃないかって思った。だから手を伸ばした。伸ばし続けた。

 好きだったんだなぁ。頑固な横顔も、寂しさを包む歌詞も、ごく稀に見せる皮肉めいた笑顔も。この世の何よりも、愛してた。そう言えばよかった。

 あなたがどこに逃げようとしたって、僕はあなたと幸せになるって決めたと、言ってしまえばよかった。だけど俺は言わなかった。言えなかった。全部壊れてしまうことを想像すると、あまりにも恐ろしかったから。

 要するに俺は大事なことから逃げ続けていたんだ。その結末が、これだ。本当に愛した人を失った。ばかみたいだ。ジョーは本当に俺の元から消えてしまったのだ。

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