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あれからどれほどの時間が経ったのだろう。カレンダーもスマホももうみていない。今が何年なのかも、季節さえもわからない。わかるのは、自分が数年だけ歳をとったってことと、ジョーが死んだこと。
やることもなくて、部屋を少しずつ掃除し始めた。すると、引き出しの中から、彼の曲を見つけた。ジョーが描いたものとは思えないほど、底無しの悲しさを含んだ言葉たちが、そこにあった。
どうやって君を愛せばいい
どうしたら君の涙を止められる
何度も償おうとした その度に君は遠ざかる
全部僕が悪い まだ君の声を求めている
夢のように 君が今ここにいるとしても
きっと救えないんだ 変えられない
抱きしめたいと気づいても
未完成だった。途中で不自然に文字がぶつんと途切れている。それがまるで、ジョーの命の灯火のように見えて、吐きそうになる。メモを床に捨てた。じっと見つめていると首を絞められそうな、呪われるような気がした。
でも数日しても僕はそのメモを捨てられなくて、それどころかいつも、ジョーの言葉の前に戻ってきてしまった。気がつくとそれを拾い上げて何度も何度も目を通している。急にたまらなくなってペンを手にした。感じたことのない衝動に突き動かされている。一人で言葉を綴っていたあの人に、今返事をして、間に合うだろうか。
間に合うはずないのに、そんな考えで自分を慰めようとしている。全部わかっていて、僕は歌詞の続きを書いてみる。
ある静かな夜のこと、ショッピングモールでもらってきた「父の日」のポストカードを手で包みながら、ノエミが僕に話してくれた。
「一人でバーに行ったことがあるの。今みたいな静かな夜だった」
彼女は御伽噺を語るようにぽつぽつと話し始めた。
私がクラウディオをダメにしてしまったんだろうか。そんなことばかりを考えていたの。ほら、あなたがとても、荒れていた時期のことよ。私たち、喧嘩ばかりだった。
いつものようにあなたと喧嘩して家を飛び出して、泣ける場所が欲しかった。どの道を通ったのか、暗くてよく覚えてないけれど、とにかくどこか適当な路地に入ったの。そこに看板があった。小さな居酒屋だと思って入ってみたわ。薄暗いバーのカウンター席に座ると、マスターが目の前でグラスを拭いてた。
とびきり強いのが欲しかった。
「カンパリを」
ふと、カウンターの隅の男の人と声が被ったの。その顔は暗くて判別できなかったけれど、首から下までの姿で、若くはない印象だったわ。ジャケットは色褪せているし指はずっと微かに震えていて、もう、どれほど飲んだのかしらと思った。
そうしていると、オレンジと赤の中間色が注がれたグラスを、マスターが出してくれた。バーのお客さんは私とその人しかいなかった。しばらく飲んで、酔いが回っていたのかな、私は気づけばその人に、「少し話しませんか」と声をかけていたの。
静かなジャズの音色が物哀しかった。
私がクラウディオをダメにしてしまった。今や彼は音楽に向き合わなくなって、自分の声を無視し続けている。思いの丈を、誰とも知らない人にぶちまけていた。言葉は洪水のように後から、後から溢れてきて止まりようがなかった。誰かに許して欲しかったのね、きっと。そのうちだんだん、自分が何を言っているのかわからなくなってきて、
「私が親の愛を知らないからなのかな」
そう言った。
すると急に、今までずっと黙っていたその人に尋ねられたの。
「どういうことだい、それは」
マスターが目の端をそっとその人に寄せた。秘密ごとが囁かれているかのような、怪しい雰囲気だったわ。
「私、両親がいないの。彼もそう。彼は本当の家族の愛をずっと欲しがってる。だけどそれは、私があげられる種類の愛じゃないのかも」
その人はしばらく黙って、決意したようにカンパリをグッと煽った。オレンジの香りが広がった。
「……親に見放されて、音楽と神だけを救いとしてきた」
その声は自分のことを言っている割にはひどく淡々としていて、他人事のようだった。
「私にも子ども代わりのような存在がいた。抱きしめようにも、どうすればいいのか知らなかった。もう、何もかも遅い」
氷がカラコロと音を立てていた。
「ただ、あの子が私の隣にいた日々は、何かがまるで違ったんだ。何もかもが……」
その人はまるで独り言を呟いているようだった。
「眠る時、朝起きる時、あの子の存在を思うことで、どれだけ救われてきたか。そうだ、私にはあの子は特別だった。これが愛だというのなら、私はあの子を愛していたのかもしれない」
そして、その人は黙ってしまった。
全てを話し終えるとノエミは僕の肩にその身を預ける。
「そうか」
それはジョーかもしれないし、ジョーじゃないのかもしれない。胸の中に空いた穴が、少しだけ別の何かで埋まったような気がした。
カレンダーを1枚めくると、10月になった。
ノエミはまだ仕事から帰ってきておらず、僕はぼうっとテレビを眺めていた。
外から何か音が聞こえてくる。人の声だった。どきりとして、そばにあった毛布を引き寄せて頭からかぶる。音は今の僕には恐怖の対象となっていた。
しかし何故だろう。この夜は嫌な気にならなかった。不思議に思って、恐々と窓の外を伺ってみると子どもたちが、ジョーの歌をうたっていた。みんなで輪になって、アカペラをしている。胸が沸きたつ。足がすくむ。ジョーの背中が見えた気がした。
あ、と思ってその肩を掴もうとした時、僕の片足は外に出ていた。
子どもの一人が僕を見つけた。みんな、笑いながら僕の元に駆けてくる。
「一緒に! 一緒に!」
とびきり小さな子が、僕の手を引いた。動かないこともできたはずなのに、手を引かれるままついていった。
「歌って!」
みんなが期待の目で僕を見る。腹からすうっと息を吸いこんだ。肺に酸素が溜まる。喉がからからだったときに水を飲んだみたいな安堵に包まれる。でも声を出せない。声を出すのが怖い。
そう思った時、
「わ!」
誰かが僕の足を踏んづけた。同時に僕の緊張は糸が切れたみたいに千切れて、声が身体の外に響いていった。子どもたちは目を丸くした。
夢中で、縋り付くようにことばを放つ。やっと、僕らの音楽が帰ってきてくれた。自然に涙が溢れてきて、両頬が、川が流れたみたいに濡れる。
ああ、こういうことなんだね、ジョー。どうしてあの日あなたが泣いたのか、やっと分かったような気がする。
ジョーは帰ってこない。でもジョーの歌は、ジョーが生きていたという証拠だ。気がつくと歌は終わっていて、通行人の笑顔と拍手に包まれていた。ブラボー!という声が飛び交って、僕は今更、身なりのなっていない格好を恥ずかしく思った。
「ねえ、おじさんも明日、見に来てよ!お祭りやるの。その舞台で私たち、歌うの!今日もね、その練習が一日中あって、これから帰るとこなの!」
……まあ確かに。髪も髭もボサボサ、肌も手入れしていないんじゃ、おじさんに見えても仕方がないか。
子どもたちは、ここからだいぶ離れた小さな村の祭りのことを教えてくれた。そしてみんなで笑い合いながら走っていってしまった。
僕だけがそこに残された。喉を撫でる。さっきの感覚、歌った時の喉の震え。さっぱりとした解放感、もうしばらく味わっていなかった。僕はその時生まれた思いつきを、そっと胸の中に残して、家の中に帰った。
夜が明けた。
「はい、ハンカチ。あ、ティッシュ持った?財布無くさないようにね!」
ノエミはてきぱきとカバンに物を入れていく。
「ノエミ……、施設にいた頃とはもう違うんだよ?」
「だって心配じゃない! 最近ずっと外に出てなかったのに、急に、知らない村のお祭りに行くだなんて」
ノエミはぷりぷり怒っている。仕事がなければついていけるのに、と悔しそうだ。
彼女の名を呼んだ。
「君がいなかったら僕は壊れてた。本当に感謝してる。ありがとう」
彼女の手をギュッと握る。あたたかくて柔らかくて、僕にはないものを彼女は持っている。
「君のためならなんだってすると誓うよ」
「じゃあ、結婚ね」
「……え」
「え、じゃない!何年も待ってたけど、私、もう待つのに疲れちゃったから」
彼女は宣戦布告した。
「大丈夫よ、すぐに『その気』にさせてあげるから」
魅惑的な悪魔の微笑みだ。
僕だって、もうとっくの昔から、『その気』なんだけどな。キスをする。ノエミを残して家を出た。久しぶりに浴びる日差しは眩しすぎて、少しくらくらした。
地下鉄に乗って、小さな村に向かった。そこは山の奥にあって、羊や山羊と人々が共存している。緑がどこかしこに溢れていて、胸の中の不快さを全て吸い取ってくれるような気分になる。
「昨日のおじさん!」
入り口付近で立っていると、少女が声をかけてくれた。
「おじさんの歌、まあまあいいと思うわ。あたし達の後に飛び入り参加で歌ってよ」
その「おませさん」な口ぶりに思わず頬が緩む。誰も、僕がクラウディオだということがわからない。なんだか寂しいような居心地の良いような気分で、ゆっくりと散歩する。森の奥に広がるぼんやりした霧や折り重なる緑が目に入る。それは妙に僕の胸の中に後味を残した。特設ステージと、それに向かい合わせで椅子が30席ほど並べられている。ビデオを回す母親や、お年寄りなどが前の席に座っている。端の席に座っても、疎外感は全くなかった。ここには全部を受け入れる空気がある。
祭りの始まりを飾ったのは、子どもたちの演奏だった。リコーダーや打楽器、ハーモニカの軽やかな音が美しく調和していた。体がうずうずし始める。年甲斐もなく、僕は何かを期待しているようだ。
演目は続く。子どもたちの演劇、ダンス、スピーチ。どの演目もしっかりしていて、思わず、「ううむ」と唸ってしまう。最近の子は本当にしっかりしている。僕の子どもの頃なんか、自分の意見を言うなんて選択肢さえ浮かばなかった。
あっという間に最後の出場者になった。昨日練習をしていた子どもたちがステージに上がる。僕を褒めてくれた少女もいる。緊張しているようだ。みんなが息を吸い込む音がした。ぱあっと光が照らされたような気がした。ステージだけが眩しくて、熱に満ちている。やがて緊張が解れだす。喜び、調和が生まれていく。みんなの顔がいきいきし始める。楽しくて仕方がないのだろう。観客も皆、笑顔になる。僕はそれらを知っている。音楽を好きになる瞬間のことを。それはいつまでも忘れられなくなる、膨れ上がるような喜びだ。
ジョー?
どこかに彼の気配を感じた。
現実は簡単じゃない。ジョーが死んだことで生まれた傷は、消えることはない。だけど、こうして同じ音楽に心を動かされている間、僕とみんなは確かに一つになれる。胸の中がぎゅっと絞られるみたいに痛くなった。
だから歌うのかもしれない。人を信じたいから、愛したいから歌うのかもしれない。素晴らしいアカペラが終わって、拍手喝采が鳴り響く。その輪に加わる。そうしないと、くらくらする程の鼓動に耐えられない気がした。
「最後に、飛び入り参加する人がいます!」
拍手が僅かに落ち着いた頃合いを見計らってか、声が飛んでくる。僕はギョッとした。それは僕を褒めてくれた少女の声だったのだ。会場がざわめきだす。ゴクリと息を呑む。まさか、いや、そんなまさか。思わず首をすくめる。でも怯えている自分がおかしかった。何を縮こまっているんだろう。本当は、歌いたい。歌えるのに。
「そこのおじさん!」
ひゅっと掠れた吐息が漏れた。少女が僕を指さしている。人々が一斉に僕の顔を見る。ぶるっと背筋が震えた。後押しされたように、立ち上がる。ステージまでの道のりが僅か3歩に感じられる。歌いたいと思った。誰かがギターを渡してくれる。ステージには一本のマイクが立っている。ストラップを肩にかけると服がかさりと音を立てた。平和のためだとか、大それたことじゃなくて、CRYと誰かが繋がれるような歌を。寂しい人を抱きしめる音楽を。
ここで歌わなきゃCRYじゃないなと思って武者振るいをする。
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