サディーク
*サディーク・フセイン
管理人に家を追いだされ、サディークは路地に放りだされた。
はやり病のせいで一文なしだなんて、笑えない。ふと気づく。彼女の写真を置いてきてしまった。楽しみにしていたラグビーの試合も見れない。
今日も、ダラスの辺境では怒声や罵声が飛び交う。薄暗い路地には、弱者を狙ってる奴らが大勢いる。ここでは、強いと弱いがあまりにもはっきりしすぎている。ズボンのポケットに銃を忍ばせて歩く。今の彼にはこれが財産で、何よりも大事だ。
歩いていると、制服姿の少年少女がサディークを追い抜いていった。思えば彼は勉強が嫌いだった。アナスタージアは、医者を目指していて特に数学がピカイチだった。今でも、スミレの花飾りをつけた彼女の、本を読む横顔が浮かぶ。おしべみたいな長いまつ毛を静かに伏せていた。サバサバしている彼女がその時だけはうっとりするほど大人びて見えた。同い年とは思えないほど、遠かった。
彼女もスポーツが好きだった。特に野球を愛していた。男に混じって、すっ転んで泥んこになってもプレイをやめなかった。女子の中で恋の話やおしゃれのことを話している時とは雲泥の差だった。勉強があるから恋人なんていらない。そう、きっぱりと言いきった背中に、声をかけることもできなかった。
18歳だったアナスタージアは、赤いワンピースで学校に来ていた。白の水玉模様を後ろの席から眺めた。その日の下校中だったのだ、殺されたのは。最後に彼女の目を見ればよかった。澄みきった黒色を、彼女の瞳の中にしかない色を、もう一度見たい。恋をするみたいにまだ、そう思っている。
翌朝、サディークは最後の金を使って、地下鉄の切符を買った。ここ数年で駅は特にひどい場所になった。誰かが主張を喚き立てている。隠れもしないで盗みをする奴、刃物で脅す奴もいる。その間を縫ってホームから地下鉄に乗る。ジャンクフードを包む紙の、油っぽい匂いがした。
「ねえ」
目を開けた。隣に彼女がいる。サディークと同い年になったアナスタージアの、輝く肌と、ミントみたいな香りがある。彼女は女神のように微笑んで彼の額にそっと触れる。考えるのをやめてその指に身を任せる。
「愛してるわ」
僕もだよ、アナスタージア。
墓地へと続く道を歩いていた。空模様は悪いが乾燥していて、肌は夏の熱気を浴びている。舌がざらざらする。雲がゆっくりと濃くなっていくなか、やっと墓地に辿り着いた。
「喉が渇いたろ。今水を入れるからね」
カバンからカップとミネラルウォーターを取り出して、彼女の墓に向かう。白い墓石の足元に、水を汲んだカップを置く。
銃を取り出した。サディークは自分の首筋に押し当てる。俺の死に様を見ていて欲しかった。指が震える、やはり最後まで死ぬのは怖い。
「何してるの、あなた」
ふと足音が聞こえて振り向くと、見覚えのある女が怯えた目でこちらを見ていた。それが誰なのか気づいた瞬間、掌の中で銃が笑った気がした。
「アナスタージアを殺したのは誰なんだ! 言え! 」
一発、空に向けて弾丸を放った。清々しい破裂音が空に響く。反動で腕が痺れた。この女は警察の服を着て葬式にいたのだ。絶対に何か知っている。
「宗教がらみだってことは知ってるんだ。何か手がかりを教えて欲しい」
女は最初、ぶるぶると体を震わせていたが、サディークを憐れみっぽい目で見て、静かにこう言った。
「もう死んだの」
言葉の一音ずつが彼の周りをぐるぐる巡った。
「事件の後、自殺したのよ」
「嘘をつくな! そんなのどこにも載ってなかった!」
「SYに、これ以上の情報の記載を封じられていたの」
一瞬頭が、殴られた時みたいにくらっとした。SとYが脳にこびりついて離れなくなった。
「ふざけるな……なんで彼女なんだ!」
眩しい笑顔が蘇る。アナスタージアとの未来が欲しかった。
「彼女が死ぬような世界って、いったい、何なんだよ……ッ!」
ぼうっとなって街を歩いていると、電化製品の店を見かける。一台だけ、見せ物用のテレビがあった。
『えー、CRYはクラウディオさんとジョーさんをメンバーとして活動されていましたね。
先程の公式発表によりますと、今後、クラウディオさんは個人名義で歌手活動を続けられるとのことで』
テレビがやかましく騒ぎ立てている。
『ジョーさんは、故郷のイタリアに帰国されるようですね。えー、この方は宗教団体Save Yourselfの第一人者として、世界中の人々と親睦を深めておられます。』
そこには、海外の子どもと手を繋いだ男の姿があった。
犯人と同じ宗教で、アナスタージアは無差別に殺されて、それで。SとYの文字がチカチカと目に突き刺さる。テレビの中の男をじっと見つめた。
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