サディーク
* サディーク・フセイン
……ク、サディーク!
ピリついた声で我に帰る。顔をあげると不機嫌な顔の母親がサディークを睨んでいた。中腰の体勢で洗濯物をハンガーにかけている。
浅黒い肌、大きな黒い目、太い眉毛、筋の通った鼻。母親の顔の要素が彼の顔と一致している。そのことだけが、血の通った人だと思わせた。
「何やってんだよ。葬式、早く行っといで」
いつものごとく、苛ついているようだ。怒鳴られなかっただけまだマシだろう。
「しっかし、殺人だなんて。ほんといい迷惑だよ。おかげでマスコミがうじゃうじゃきてさ。めんどくさいったらありゃしない」
この母親は、殺されたのがサディークのクラスメイトだと知っていてこういう言い方をする人だ。身体中の細胞が死んでいくような感覚を無視して立ち上がる。
父親と姉の前を素通りして、家をでた。7月のカラッとした暑さも、平坦な町並みも、今は彼の心を少しだって動かしたりしない。
強い日差しが僕を照らすけれど、今立ち止まったら二度と歩けなくなる気がする。
事件の謎は解明されないままだった。犯人が宗教に関わっていた男だということしかわからない。メディアの報道は違和感だらけで、明らかに何かを隠しているとしか思えなかった。ガムを奥歯で噛み締めた。ミントの味がした。
アナスタージア・アマンの葬式にはたくさんの人が来ていて、なかには校長や偉い政治家もいた。皆暗い顔をして俯いている。彼女の死が世間の関心ごとの駒みたいに扱われることが、寂しいような気がした。黙祷を捧げる時間、サディークの中をいろんな思い出がかすめていった。
「確かに彼はアラビア系よ。だから何? 私はアフリカ系だけど、何か文句あるの?」
まだ小学生の頃、サディークはいじめられていて、そのいじめっ子に反論したのが、幼馴染のアナスタージアだった。彼女は彼を助けてくれた。ガーネットレッドの分厚い唇が、いじめっ子たちの威勢を掃除機みたいに吸いとっていくのは、見ていて清々しかった。
その浅黒い肌ともじゃもじゃした黒い髪がとてもきれいだった。気恥ずかしくて、「大丈夫?」と優しい声で聞いてきた彼女に、わざとそっけなくしていた。よくひとりで、小さな文庫本を読んでいた。彼女はオー・ヘンリーの大ファンだった。朗読の授業では詩をみんなの前で読み上げた。細い目がきらきらと輝いていた。「最後の一葉が落ちた時、私も死んでしまうのよ」と唱えていた清んだ声は、今でもはっきり思いだせる。
アナスタージアが世界から消えた。それはサディークにとっては全人類が死んだことと同じだった。棺の中でアナスタージアはまだあたたかそうに見えた。キスで目覚めやしないだろうか。みんなが泣いているなか、彼だけはまだそんな馬鹿みたいなことしか考えられなかった。
葬式が終わって、家に帰ろうとしていた時だった。薄暗い路地裏に入った瞬間、急に誰かに、腰の辺りを蹴られた。
体勢を崩して地面に身体を打ちつけた。嫌味な笑い声が、複数聞こえる。顔を見なくても誰かわかった。
「もう守ってくれる奴はいねぇぞ、まぬけ」
立っていたのは、かつて僕をいじめていた少年たちだった。そいつらの影が僕をすっぽりと覆っている。目の前が薄暗くなっていく気配がする。
「お、なんかポケットから出てきたぞ。はは、【オー・ヘンリー博物館】のチケット? 二枚入ってやがる。誰だよこいつ、だっさ」
少年がチケットの中のオー・ヘンリーの顔を真っ二つに破いて地面に叩きつけた。
それはぐちゃぐちゃに踏まれ、引き裂かれた。8月生まれの彼女に渡そうと思っていたもう一枚までも。無邪気な笑い声と跡形もなくなったチケットのくずが頭に焼きついた。全てが、何もできなかった僕を責めていた。世界中の人間がみんな、彼女みたいな人だったらな。だけどもう彼女はどこにもいないのだ。誰かの靴の裏が顔の方に向かってきて影が濃くなる。僕の味方は永久に世界から消えてしまったのだ。
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