2 イタリア オルヴィエート


 ローマを出るのだと分かったのは、高速道路に乗る時だった。それから1時間半ほど車の中で揺られた。だんだん建物よりも緑が景色の割合をしめていくのがわかって、ぼくはこれからどこに連れて行かれるんだろうかと、不安になってきた。味方がどこにもいなくなったみたいに心細かった。会話ができる雰囲気じゃないことはすぐにわかった。おじさんはぼくと話す気がないみたいだ。

 たどり着いたオルヴィエートは、ローマよりもだいぶとのどかだと思った。空気自体はそれほど田舎じゃないけれど、ヴィオラ(パンジー)が植木鉢の中で微笑んでいたり、観葉植物が建物の中から溢れるように手を伸ばしているのが、穏やかな場所だと思わせた。

 まだ中世の面影が残る街並みの景色を、おじさんの車が追い越していく。お話に出てきそうな石造りの建物は、ローマのものよりも古びた感じだ。白やクリーム色の建物が隙間なく並ぶ。もし終末か何かがきたとしたら、ドミノみたいに崩れてしまいそうだ。深い水色の空に覆われている景色が、ここを地上の楽園みたいに見せていた。

 短いトンネルを通るとにぎやかな路地に出る。そこから少し右に向かった場所で、車を降りた。うすい緑の森の入り口と、小さな一軒家があった。おじさんはその家に向かって歩いた。


「早くしろ、俺は遅いのは嫌いなんだ」

 おじさんが家族を見る目をしているのか、ぼくにはわからなかった。こんなものかと首をかしげながら、後ろについて家に入った。思い描いていたすてきな感じとは言いがたい。白いかべには黄ばみが目立つし、ほこりっぽくて全体的にうす汚い。せまいリビングになぜか巨大なピアノが置いてあったり、変な模様の布がソファにかけられてある。それにさわろうとすると手を思いきりつかまれた。

「汚い手で触るな。いいか、これからは帰ったら必ず手洗いうがいだ」

 怖くなって、うんうんとうなずいていた。

せまい廊下に入ると、左側に扉が一つ見えた。おじさんは、ぼくの胸の辺りに目をやると急に怒りだした。そこにはおばさんからもらった十字架のネックレスがあった。

「ここにだけは絶対に入るな、入ったらお前を煮て喰ってやる」

 地面から低くとどろいてくるようなどなり声に背中がざわめく。ぼくの両目から、ダメだと思えば思うほど、涙が勝手にあふれていった。すると、

「なんだ。俺が悪いっていうのか」

 おじさんは悪意をむきだしにした顔になってにらむ。

 どうしよう、これじゃダメだ。

 焦りは、はちきれそうなほどふくらんでいた。その夜はうまくねつけなかった。部屋は寒いし、暗いし、気味が悪かった。施設の方がはるかにマシだ。みんなに会いたかった。

 翌朝、おじさんの車で学校に連れて行かれた。本当は行きたくなんてなかったけれど、これは「まっとうな教育をさせること」という、ぼくがおじさんと家族になるためにかわされた約束事のひとつらしい。

 やさしそうな先生に連れられて教室に入ると、男の子や女の子の視線がぼくの見た目に集中する。ぎらぎらした、いじの悪い顔たちだ。ぼくは他の子よりもずいぶん背が小さいし、両方の頬に涙ぼくろがある。これは案外目立つ。いやな予感がした。

「ローマからやってきた、クラウディオ・スミス君です。さあ、ごあいさつをしてね」

 先生はぼくの背中をとんと押した。

「……」

 自分でもうんざりするけれど、ぼくの唇は情けなくふるえて、声がのどにつっかえてしまった。嫌な予感は的中した。教室が魔物の巣窟みたいに感じられた。施設にいた時にも感じたことがあった。大人たちはうまくかくしてる、子供中を伝染する病気みたいな空気が流れる。

 一番前の席の子が顔をしかめていて、それはみんながぼくを受け入れないことを示していた。予想通り、ぼくのあだ名は、クライ(泣き虫)になった。それからはいたたまれない時間を教室ですごし続けた。窓からとび出してしまおうか、そんなことを何度か考えたほど、重苦しい時間だった。


 長い、長い一日が終わり、やっと一人で校門にたどり着くと、おじさんの車が見えた。

「むかえに来てくれたの?」

「そういう契約だからな」

車の中で、おじさんはイヤホンをずっとつけていた。ぼくは窓の外で流れる景色に目をやっていた。この町は、ローマから少し北に行ったところにある。たしか、ぼくと同じ名前の博物館があった。それから、六〇メートルぐらい深い有名な井戸もあったはずだ。

「ねえ、おじさん」

「おじさんじゃない。ジョーという名前がある」

 彼はイヤホンを外して答えた。ぼくの声はまだ聞こえているらしい。少し安心した。

「着いたぞ」

 気づくと家にたどり着いていて、おじさ……ジョーはすぐに車から出ていってしまった。後を追おうとすると、ひそひそ話す声が聞こえてきた。

「あそこの爺さん、こんな時間にも家にいるんだね。まさか本当に働いていないのかね」

「さあ。SYとかいう宗教の偉い人らしいけどね」

「SYって、時々ニュースで言ってるやつかい。胡散臭いね。そういう連中とは関わらないのが一番だ」

 隣の家からだ。敵意の溢れる声が、どうしようもなくおぞましいと感じた。

 三日目の学校が終わって、家に帰ってきた。生活には慣れない。クラスメイトは新しいおもちゃを見つけたみたいに、ぼくにちょっかいをかけてくる。町には気にいったようなところも無い。ローマの方が、いろんなものがあって面白かった。

 それに、ジョーはいつも不きげんで、一人でふさぎこんでいる。きみょうなことに、毎日2回、それも朝方と夜中に、例の入るなと言われた部屋の中で、何やら言葉をぶつぶつと唱えている。そのせいでますます眠れなくなった。

小さな裏庭の戸口に座りこむ。お尻が冷たい。ゆううつを吐き出そうとため息をついた。家族ができたのに、泣きたくなるほど寂しい。

 いろんな感情がぐるぐるとうずまく。内側でこもっていく。吐きだしたくなる。口を開いた。胸を少しだけふくらませて、小さくハミングしてみると、庭に音が生まれる。一つずつ発して言葉にしていく。ゆっくりと、織っていくように。

『かわいいオウム。かわいそうなオウム。どうして寂しいの』

 施設のみんなと一緒に、何度も歌った歌だった。

『歌うよ! 僕は歌うよ! 僕は寂しいオウム』

 歌うと、もやもやしたものが空に流れて消えていくような気がする。孤独も不安もゆううつも和らげてくれる、薬みたいに。

 ふと、気配に気付いてふり返ると、ジョーが目を丸くしてぼくを見つめていた。

「どこで歌を習ったんだ?」

 初めてこんなにも熱心に見つめられたことがうれしくなった。

「施設にいたときにみんなで歌ったんだ。Il Pappagalloっていう童謡―――」

「そんなことは知ってる。どこで習ったかと聞いたんだ」

何だか焦っているみたいだった。歌を習ったことなんて一度もない。考えたこともなかった。そう伝えると、ジョーはしゃがみこんでぼくに目線を合わせた。声はふるえていた。

「もう一度、ゆっくりと息を吸って、歌うんだ」

 ジョーは青い顔をしていて変だった。同じやりとりが五回ぐらい続いた後、彼は大きなため息をついてやっと立ち上がった。きみょうなことに、笑っていた。それも、顔だけじゃなく全身で。

「やった、やったぞ! これで俺は……俺は!」

 そうやって大声で叫ぶ。まるで理解できなかった。

 でも、ここまではまだほんの序章に過ぎなかったんだ。


今日も同じようにピアノのそばに立たされている。見せる表情が少しだけ多くなったジョーは、ピアノのイスに腰かけてぼくを見つめる。ジョーの瞳はやけにまっすぐだ。今まであった誰よりも、ぼくの中の深いところを探ろうとしているように感じる。

 ジョーはにこりともせずに大義そうにうなずく。そして、鍵盤に、静かに筋ばった指を下ろす。彼は二週間前から、特訓の休憩時間にだけ、思い出したみたいに自分の曲を弾く。

透明な湖の中でぼくらだけがぷかりと浮かんでいるみたいに、ふしぎと胸の中が静かになって、落ち着いていく。ジョーの音は、余計なもの全てをぼくの世界から消してしまう。ピアノが鳴る数分、世界の全てがまるで、ジョーのものみたいだ。

最後の一音が指とともにはねて、心までふわっと投げられる感じがする。

ぼくは今まで音楽で、こんなにぐらぐらしたことがあっただろうか。

燃えるような夕焼けが地面にゆっくりと沈んでいくなか、ジョーがピアノとおしゃべりするみたいに奏でていく響きが、ぼくを何度でも生き返らせてしまう。

「……何見てる」

ぼんやりしているとジョーに釘を刺される。

鍵盤を愛おしそうに見下ろすかと思えば、ぼくに冷ややかな目線を送る。それがジョーで、もしかしたらぼくの芯は、ジョーが見せた夕焼けに染められてしまったのかもしれなかった。


ジョーの家に来て一週間ほどが経った。ゆっくりとここの生活に慣れてきていた。

ベッドから起きるとまず顔を洗って、ジョーが作ってくれた料理を、ダイニングキッチンに運ぶ。彼との日常には、ぼくにとって信じられないことがたくさん詰まっていた。まず、朝ごはんだ。信じられないことにジョーは朝、砂糖の一つも入れないブラックコーヒーを飲むのだ! 朝ごはんといったら甘いものだと思っていたぼくは、あんぐりと口を開けた。その視線に気づいたジョーは、

「イタリア人の朝食の好みなど知らん」

と言いながら再びコーヒーを啜った。そんなことを言いながら、ぼくの食卓に並ぶ朝ごはんはいつも、マーマレードが塗られた黄色いビスケットとミルクだった。普段よく食べているものばかりだ。

ジョーは休日のほとんどを読書に費やす人だ。時々リビングの窓辺の椅子から立ち上がると思ったら、トイレに行くか、あの禁じられた部屋に入って何か唱えている。

 雨の夜、雫の音がぽたりと響いてくる。ルームライトがリビングを照らす。ソファに座ってぶるぶる震えていると、ぼくの頭に厚手のセーターが当たった。びっくりして振り向くと、ジョーがトイレから帰ってきていつもの椅子についた。ぼくはしばらくジョーをじっと見て、埋まらない距離に少しだけ安心していた。


 謎の特訓に付き合わされて一ヶ月ほど経ったある日のことだった。ますます冷えてきた空気に雨の匂いが染みこんでいた。

 驚きが脳みそを貫通して、目玉がこぼれ落ちるかと思った。

学内交流会の前日、その演目の中になんと、ぼくとジョーの名前があったのだ。ちなみに学内交流会というのは、学校が独自にやっているイベントで、それぞれの学年が劇をしたり、ブラスバンドや有志の出し物が行われる。まさかこのための特訓だったなんて、夢にも思わなかった。

ぼくの名前が有志の欄にあったことで、いじめっ子がいつもよりしつこく絡んできた。お前のような泣き虫にできることなんてない。そう言われた時、悔しいのにまた涙が出た。学校から帰ると、手袋とマフラーを玄関に放りだして、一目散にピアノの元へかけた。ジョーへの怒りがおさまらない。

「演目に申し込んだでしょう! 何考えてるの、人前でなんて歌えるわけないよ!」

 抗議しても、ジョーは何も言わなかった。

 来るなと祈った翌日は、残酷なほどあっさりとやって来た。ぼくたちは学校の講堂へ向かった。子どもの晴れ姿を見に来た保護者で、学校中はあふれかえっている。

出番は初めの方だったので、すぐに舞台袖に通される。そわそわして落ち着かない。下級生のゆっくりとしたおゆうぎが終わると、盛大なはく手が巻きおこった。ぼくはふるえていた。

 見かねたのかただの気まぐれか、ジョーがそばにやってきた。ジョーは「俺が教えた大事なことを言ってみろ」とすごんだ。

「声は息を吐くことではっせられる。息が続かないのは、吸えていないのではなく吐けていない。正しい身体のラインをイメージして、息が通るようにする。腹式呼吸の感覚を忘れずに」

 もう何百回も空で言わされたことだった。ジョーに腹を小突かれる。彼は、笑っていた。まるで少年の瞳だった。

「ピアノに食われんなよ?」

 どうしてだろう、胃の痛みが一瞬、スッと消えた。出番を終えた下級生たちがうらに戻ってきたのはちょうど同じタイミングだった。舞台に出ていくと、あまりに強いスポットライトに一瞬くらっとする。

一音がまるでピアノとのおゆうぎのように始まる。やさしい指づかい、触れたいと心から願っているようなひき方だった。この人は、ピアノが相手ならこんなにもやさしい。  

 ジョーと目があった。彼が一瞬だけほほえんだような気がして、それに後おしされて息を大きく吸いこんだ。


 歌うことは苦じゃない。何よりも、ジョーに必要とされているように思える。ジョーの作った、物悲しくてせんさいな調べを聞いていると、わからなくなる。本当のこの人を、知ってみたいような気がする。きざむコードに声を彩っていく。ピアノが作る道を歩いていく。混ざり始めると、世界にはぼくらしかいなくなる。言葉の一音ずつに乗りながら、テンポの波に飛びこんだ。そこではぼくらの区別なんてない、一つだった。お互いを包みこむ。どこかにさらわれてしまいそうになるくらい、全身がぐわんぐわんと揺さぶられる。鐘の音がするのは、ぼくらがひびき合っているのだろうか。

 天国にいるみたいだ。他のこと一切が消えて、頭の中が音楽しか受け付けてないみたいな、恍惚。怖いぐらいにどこまでも昇っていくような、りんかくと空気が触れ合ってゆっくりと溶けていくような。核をぎゅっと手で握られて思いきり、ぶん回されるみたいな。そんなしょうげき、耳をかん通してそのまま串刺しにされるような、じくじくした痛みと焦がれ。ただ与えられる世界に、自我がぶつかって、自分の中に宇宙が生まれる。一生消えない宇宙が。楽しい、楽しい、楽しくて仕方ない。どうしようもないくらい、恐ろしいくらいだ。息ができなくて頭の中がふわふわしてくる。体の内側から熱がぶわっとまい上がってくる。汗がかみ先を、頬を、滑り落ちていく。

 ジョーと目が合う。彼はくちびるの左端を上げて、眉を上下させる。どうした、そんなもんかと煽られた。

 もっと来いよ、できるだろ。

 ジョーの声が脳内に蘇った。わくっと胸が浮き上がって僕の中の理性がだんだん溶けていく。もっと楽しく、もっとだ。

 気がつくとシャワーのような拍手に呑まれていた。汗の湿りともやついた感情が、さっぱりとかき消えたような爽快感が、熱を持っていた。拍手は悍ましいほどに鳴り止まず、ぼうっと舞台に突っ立っていると、ジョーに手を引かれて舞台袖に戻る。みんなが興奮しているのがわかった。びっくりして声を上げた。驚いたことに、ジョーは子どもみたいにわんわんと泣いていた。

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