遭難一日目
耳元で嵐が鳴いた瞬間、窓ガラスが割れて船から外へと放り出された。海面に着く数秒間に「終わった」と自分の人生の末路を見たが、実際に終わったのは船の方で次の瞬間シュレッダーにかけたまな板みたいにパキパキと嵐に飲まれて崩れていった。
軽い軽い僕の体は宙に浮いていて、墨汁色の空から地に押し付けるような大粒の雨が痛いくらいに降り注ぐ。側で飛んでいるのは白い鳥かと思ったがよく見れば軽い軽い食器達で、同じように窓から放り出されて雨に叩かれている。
海に飲まれれば船と同じようになるのだろう。
やっぱり自分の人生は終わったようだ。
人が聞けば不幸な人生ではあったのだろう。生まれつき体は弱く、歳を経るごとに体のどこかが順番に機能しなくなる病を抱えていた。寿命も長くはないと幼い頃に告げられていた。
僕にとって幸いだったのは、親が金持ちであったことだろう。親は僕が様々な経験が出来るように暇さえあれば色々なところに連れていってくれた。
今回豪華客船で三ヶ月の船旅に出たのも、両親の提案だった。有名俳優達の歌劇を観て、三ツ星シェフの豪勢な料理を食べ、目指す先は世界遺産が数多に存在する土地だった。けれど楽しかった昨日までは、一つの嵐で薙ぎ払われていく。
この船旅のせいで、こんな最期になったというのなら金持ちだったことは悪いことだったのかもしれない。それでも親には感謝していたしいい経験はさせてくれたから、こんな結末になったとしても金持ちであったこと自体やこの旅を提案した両親を恨む気にはなれなかった。
不幸ではあったのかもしれないけれど、悪い人生では無かった。
心残りがあるとするならば──外を元気に走ってみたかった。
そんなありきたりな夢だけは、金で解決できなかった。
荒波が一口で飲み込むように僕が落ちるのを待っている。空中では成す術もなく、僕は海に落ちていく。
肌が痛い、海水が冷たい、息をしようにも口には塩味ばかりで、もがけるような力もない。
全てを諦め遠退いていく海面を見ながら思ったのは、豪華客船もちっぽけで非力な僕も同じように包み込む海というものは何よりも優しい存在なのかもしれないなんていう、そんな戯れ言みたいなことなのだった。
全身の痛みと冷たさで目覚めたとき、視界に入るものは無かった。無かった、というのは近くに特筆すべき物がなかった訳ではない。自分の目が何も像を成さなかったのだ。
目を閉じれば暗く、開ければ白む。目蓋の裏から明暗だけが分かるくらいで、それ以外は分からない。
風が吹いている。明るさからきっと昼なのだろうということは分かる。波の音が近くからするから、海辺であるのだろうということも。
何度瞬きしても瞳には何も映らず、目を擦ろうとすると腕が上がらなかった。
その違和を機に、頭がまともに回転を始めた。右腕も左腕も上がらない。両足も動かない。
腹に力を入れて起き上がろうにも、力がどこかへ逃げていって思うようには動かない。身体のあちこちが軋むように痛む。呼吸だけが出来ていた。
体は動かないのになぜだが頭だけは冴えていて、いっそ気を失ってしまえたら良かったのにと思う。
何も見えない。感覚だけが何とか自分が生きていることを知らせてくれていた。
最期に見たのは鳥のように落ちていく食器と遠退いていく水面だったろうか。
記憶の情景を脳裡に写し、細部まで克明に思い出そうとする。覚えている内に、しっかりと頭に刻んでおきたかった。もう見えないこの世界の記憶を色褪せさせたくない。
これが持病のせいなのか今回の事故のせいなのかは分からないが、ついに目をやられてしまったようだ。
ここはどこなのだろう? あの船に乗っていた人で同じように助かった人はいるのだろうか。両親は多分あの船の様子じゃ無理だろうな。もう涙さえ出ないけれど。
次に押し寄せてくるのは悲しみだった。どこかも分からない何も見えない、ただ生きているだけの状況。
これ、死ぬな……。
誰か。
誰か……。
「誰…か……」
助けて。
叶うなら。
そのままおそらく一晩を過ごしたのだと思う。辺りが暗くなると、次第に意識も遠くなっていった。
次に目が覚めてもやはり薄明かりがぼやけて見えるだけだったけれど、息を吸うとどこか潮を感じる冷えた空気の味がした。朝だ。
だからと言って何かが出来るわけではない。喉が酷く渇いていて、呼吸をするだけでも喉が痛む。このまま餓死するのだろうかと考えていたとき、水が砂を引き摺るような音がした。
何か生き物がいるのだと思った。音からして、ある程度の大きさはあるように思う。食われたらどうしようと思ったけれど、いっそ一思いに食ってくれた方がいいんじゃないかと思い直した。どうせ死ぬならば、何かの栄養になるにこしたことはない。
だから、腹を括って待っていた。
何かがすぐ側にまで来ている。
そしたら頬に何かが触れた。
濡れた冷たい手だった。
人が、いる。
しかし、その人は驚いたようにびくりと手を引っ込めたようだった。
「 ?」
小さな泡が弾けるような声がした。自分にはそれが何と言っているか分からなかったけれど、僕に何かを聞いているような気がした。
濡れた髪が僕の首筋に触れて、視界が一段暗くなり、額に何かが触れる。多分額と額を合わせたのだと思う。
息遣いが聞こえる。
泡で出来たような声が再びして、その人は砂の音をさせてどこかへ行った。
また側へとやってきて、唇と唇の隙間に何かがぽたぽたと垂らした。
水だった。
喉を潤わす水だ。
動きの鈍い喉の奥をなんとか動かし、水を飲む。
「だ、れ」
聞いてみたものの返事はない。
くすりと笑ったような空気の動きはあった。
対話できる。
人、だ。
言葉は通じないけれど、人がいるのだ。それからその人はどこかへ行って、しばらくすると戻ってきた。
口に何かを入れられた。刺身の赤身のような味で、歯応えは肉のようだった。蕩けるような旨味があり、後味は爽やかでいくらでも食べられそうだ。
不思議と力が漲ってくるような気がした。久々に食べ物を食べるからだろうか? 空腹にその肉がしみる。
光があるかどうかだけが辛うじて分かるくらいの目では今食べているものが何かなど分からなかったけれど、これまで食べてきたどんな料理よりもこの食べ物は美味しかった。
ご飯を食べて休んだからだろうか。次の日、上げることも出来なかった筈の僕の右腕は動くようになったのだった。
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