第5話 あなたが笑っていてくれたら③
エニside
足元がぐらつき、視界がぐるぐる回る。
私はそのまま力尽きるように倒れた。
胸から流れ出る熱い血が、すぐに冷たく感じられる。
視界はぼやけ、だんだんと意識が遠のいていく。
作業部屋はまるで何事もないかのような静けさで、規則正しい織り機の音が続く。
そんなの当たり前だ。
私ひとりが撃たれたところで、何も変わらない。
みんな自分を守るのに必死で、ここはそういう場所なのだから。
そんなことを考えている内に、どんどんと息が苦しくなっていく。
血が流れ出ていることを実感するたびに、体が冷えていっている気がする。
すると、どこからか誰かの叫ぶ声がした。
「看守さん! 至急来てくれ、織り機が動かなくなってしまった! これでは作業が進まない!」
「看守さん、お願いします!こっちにも来て!」
次々と看守を呼ぶ声が上がる。
「何だ、こんなことで騒ぎやがって」
彼はイライラした様子でその声の方に向かう。
そして看守が私の視界からほぼ見えなくなったのと同時に、私の周囲にワラワラと人が集まってきた。
「エニ! 大丈夫か、しっかりしろ」
「しばらくアイツの気を引いておくからな、さあ急いで応急処置だ」
「そこのあんた、隣の部屋にいるカシアを呼んできな」
「エニ、待ってな。すぐにあんたの息子を連れてきてあげるからね」
私は、無理にでも体を動かそうとするが、なかなか思った通りに動いてくれない。
朦朧とする意識の中、危険を顧みず助けようとしてくれるみんなに、感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
「やばい、看守が戻ってくるぞ」
「取り敢えず止血出来るところだけしたが……ごめんよエニ、私らも一旦持ち場に戻らなきゃだ」
そう小声で言ってから、私の周りにいたみんなは自分の席に戻っていく。
私はほおを緩め、心の中でお礼を言った。
ああ、私も声を出したいのに……
「ありがとう」の一言すらろくに言えないなんて。
呼吸が乱れて、反射的に涙が溢れる。
少しでも油断すると意識が遠のいていきそうで、なんとかうっすらと目を開けた。
その時、誰かの声が私の意識を一気に引き戻した。
「おばさん、おばさん! しっかりして!」
必死な幼い声が、耳元で響く。
この子は、さっきの……蹴られていた少年だ。
なんとか首だけ動かして、必死に呼びかけてくれる声の方を向く。
「大丈夫よ、いいから、あなたはもう行きなさい」
声にならない掠れた声で、必死に伝える。
でも、少年は私の身体に手を伸ばし、必死に揺らしながら何度も呼びかけてくる。
「でも、おばさん、このままじゃ死んじゃう」
その言葉に、私は一瞬、何も考えられなくなった。
――――死ぬ?私が?
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
でも、体は動かない。
止血してもらったはずなのに、まったく血が止まる気配はない。
それどころか、痛みを通り越した痺れのような感覚が、ジワジワと全身に広がっていく。
……嫌だ。
怖い。
嫌だ。
死にたくない――――。
…………ああ、でも、そうか。
私は、本当に、もうすぐ、死ぬのか。
「私のことは、本当にいいから。……じゃあ、そうね。一つだけお願いを聞いてくれる?」
少し考えてから、少年にそう聞いた。
少年は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷く。
「わかった。なあに?」
私は彼に向かって微笑みかける。
全身が痺れていて、息をするのもそろそろ本当に辛い。
でも、どうしても、これだけは――。
「……私の息子が、あなたと同じ年ごろなの。よかったら、友達になってくれないかしら?」
少年は少し戸惑ったような顔をした。
「友達? どうして?」
私は目を閉じてゆっくりと答える。
「この世界で、ひとりぼっちにならないでほしいから。あなたが側にいてくれたら、おばさんも安心だわ」
それだけ言って、私は彼に微笑みかける。
いま目の前にいる心優しい少年がカシアの側にいてくれるのなら、きっと私がいなくなっても大丈夫だろう。
なんとなく、そんな気がした。
少年は少しの間、黙ったまま私の目を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「……わかった。約束する」
ああ、よかった。
彼の言葉に、私は少しだけ安心することができた。
「……ありがとう。最後に、あなたの名前を聞かせてくれる?」
私はゆっくりと息を吐きながら、彼に名前を聞いた。
少年は少し躊躇いながらも、やがてポツリと答えてくれた。
「…………キラ。キラ・リー」
「……キラ、良い名ね。出会えてよかったわ。さあ、もう行きなさい」
その言葉を最後に、私は少年に別れを告げた。
キラは小さく頷き、走り出した。
その背中がどんどん遠くなるのを見届けたその瞬間、再び耳に入ってきたのは、遠くから聞こえるカシアの声。
「母さん!? 母さん……? どうしたの? どうしてこんなところで寝てるの?」
カシア…………!
どうしてカシアの声は、こんなにも私に力をくれるんだろう。
手足の力はとっくに抜けて、意識は今にもどんどん遠くなっていきそうなのに。
カシアがそこにいるというだけで、どうして、こんなにも満たされた気持ちになるんだろう。
もう目はほとんど開かないけれど、精一杯笑ってみせた。
たぶん、全然上手くは笑えてないかもしれないけれど。
でも今、私は心から笑っている。
そう。これが母親として、私が最後にできること。
「カシア、よく聞いて。何があっても笑っていてね。笑っていれば、大切な人たちを幸せにできるから」
笑顔を忘れないで。ただずっと幸せでいて。
本音を言うと、私がずっと、あなたを笑顔にしたかった。
せめてあなたが大人になるまで、そばでずっと見守っていたかった。
でもそれは、決して叶わない。
これから大人になるにつれ、私の知らないあなたがたくさん増えていくのだろう。
どんなあなたになっても、どうかずっと笑っていてほしい。
それが、私の最期の願い。
カシアは、しばらく黙って私を見つめていた。
そして、キョトンとした顔で口を開く。
「……たいせつな、ひと?」
私は思わず笑いそうになり、ただでさえ息が苦しいのに咳き込んでしまう。
ああ、きっとこの子はまだわかっていないのだろう。
でも、いつか必ず伝わるはず。
あなたが笑顔でいることで、あなたを愛する人たちに、どれだけ力を与えられるのか。
「そうよ、カシア。大切な人の側で、何があっても笑っているの。あなたの笑顔は、母さんの一番の誇りなんだから」
――――その瞬間、ずっと険しい顔をしていたカシアの表情が変わった。
涙を一粒ポタリとこぼして、そのあとすぐにニイッと私に歯を見せる。
「…………うん、わかった。わかったよ、母さん」
その笑顔を見て、私は胸が締め付けられるような気持ちになった。
泣きたくなったけれど、涙を堪えて笑っているカシアを前にして、私が泣くわけにはいかない。
カシア
カシア
カシア
何より大切で
何より愛おしい
私のカシア
あなたが笑っていてくれたら
母さんはそれだけで幸せだから
カシアは目を細めて歯を見せたまま、一生懸命涙を堪えている。
ごめんね、ごめんね
ごめんなさい、カシア
まだ幼いあなたを置いて旅立つ母を
どうか許してね
心の中で何度も謝りながら、最後の力を振り絞り、両手を広げてカシアを抱き寄せる。
カシアが私の胸に顔を埋めると、ついに私の目から涙がこぼれた。
涙は止まることなく溢れ続けているけれど、どうかカシアにだけは見られていませんように。
「愛してるわ、カシア」
私はそう呟いて、愛おしい温もりを感じながら静かに目を閉じた。
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