第4話 あなたが笑っていてくれたら②

エニside


 朝、窓から差し込む薄明かりの中で、天使のような寝顔を見つめる。

 ずっと見ていたいけれど、そろそろ起こしてあげなくちゃ。



「カシア、起きて。スープが冷めちゃうわよ」



 柔らかくそう呼びかけると、カシアはしばらく眠そうに目をこすりながらも、すぐに起き上がる。



「母さん、眠いよお」

「眠くても、お仕事に行かなくちゃ。働かざるもの食うべからずよ」

「ううう……ぼくまだ子どもなのにぃ…………」



 そんな幼い息子の言葉を聞いて、ズキリと胸が痛む。

 出来ることなら、好きなだけ寝かせて、遊ばせて、勉強させてやりたい。


 でも永久収容者は、子供も労働させないと配給の取り分が減ってしまう。

 ただでさえ今の量でも足りていないのに、これ以上減らされたら本当に生きていけなくなってしまう。



「はい、スープよ。ちゃんと飲んでね」



 お皿を差し出すと、カシアはにこっと微笑んで、素直に飲み始める。



「母さん、今日も食べないの?」

「母さんのことはいいから。気にしないで、早く全部食べちゃいなさい」



 私はそう言って、お腹にグッと力を入れる。

 お腹が空いていないと言ったら嘘になるけど、カシアに少しでもお腹を満たしてほしい。



 カシアがスープを飲み終えると、私たちは家を出る準備を始める。

 少しだけ体を伸ばして、カシアと一緒に工場へ向かう道を歩き始める。



 外に出ると、冷たい空気が私の肌を刺した。ここは、どんな季節でも空気が冷たい。

 

 歩きながら、ふと後ろから足音が近づいてきた。

 振り返ると、同じ労働班の女性が私に向かって歩いてくるのが見える。




「エニさん、おはようございます!」



 その女性は、ほんの少し腰を曲げて、私にお辞儀をするようにして挨拶してきた。

 私も微笑みながら返事をする。



「おはよう、昨日はあれからどうなった?」


 彼女はキョロキョロと周囲を見渡してから、静かに口を開いた。



「おかげさまで、娘はなんとか助かりました……エニさんが通り掛からなかったらどうなっていたことか……」

「そう……ひとまず無事でよかったわ。ユリの精神面は大丈夫? 保衛官に襲われてそのまま放置されていたなんて、さぞ怖かったでしょう」



 彼女は少しだけ肩をすくめ、悲しそうな表情を浮かべながら答える。



「ええ、まだ怯えているけれど……あの子もそろそろ、ここでの生活に慣れなくちゃね」


 その言葉が胸に重くのしかかる。

 こんな場所に慣れるなんて、外の世界を知っている''普通の感覚''を持った人間であれば、まず無理だと思う。



 私は無理に笑顔を作り、彼女に頷いた。



「そうね……幼い子どもを持つ者同士、これからも助け合っていきましょうね」



 女性は笑顔で頷き、軽く会釈して去っていった。


 私はその背中を見送り、横にいるカシアを思わず抱き寄せる。

 すると、カシアが私の手を引いて前に立った。



「母さん、ユリに何かあったの?大丈夫?」



 眉をハの字にした心配そうな表情のカシアに、どう伝えようか一瞬悩む。


「大丈夫よ、ユリは強い子だから。カシアも困っている人を見つけたら、迷わず助けてあげるのよ」

「うん! ぼくも大きくなったら、母さんみたいになる!」



 そう言って、また手を握りしめて歩き出した。

 私はこの子の母として、この子の手本として、前を向いて歩き続けていくしかない。




♔♔♔




 工場に着くと、いつも通りカシアと作業部屋の前で別れ、それぞれの持ち場に向かう。

 カシアの手を離し、彼の小さな背中を見送りながら、私は必ず今日も無事に帰ってくることを祈る。


 織り機が並ぶ広い部屋に足を踏み入れると、いつもの変わらぬ光景が広がる。

 暗くて冷たい空気、そこかしこに広がる無言の緊張感。


 私は自分の囚人番号が書かれた席に着き、手を動かし始める。

 



 作業を始めてから半日が経ったころ。


 

 突然、部屋に怒鳴り声が響いた。

 あまりに大きな声に、私は一瞬手を止めてしまう。



「このクソガキめが、俺らの食糧庫に忍びやがって!!!」



 見回りをしていたのであろう看守の声だ。

 周りの人たちも、一瞬その声に驚いた様子を見せたが、すぐに無言のまま作業を再開する。 


 私もそれに続いて、気づかないフリをする。

 手を止めると、即座に叱責を受けるのは目に見えているから。



「おい! そんなに殺されてえならさっさと脳みそ撃ってやろうか!」

「生ゴミ以下の囚人が、よくもまあ人間様に逆らおうとしたもんだなぁ!」



 看守の怒号が何度も何度も響き渡る。

 私はその声を必死に無視して手を動かす。


 しかし、次第に他の声も私の耳に入ってきた。



「……ぐっ……ぐはっ…………」

「ごめんなさ……ゔっ…………も、もう二度としませ……がはっ…………」

 


 それは、痛みつけられながら、必死に情けを求める子供の声。




 私は必死に聞こえないフリをしようとする。


 でもそのうめき声の先に、まだ幼い子供の苦しむ顔が見えるような気がして、どうしても耳を集中させてしまう。

 


 涙と怒声が混じり合う音の中で、私の手はついに止まってしまった。

 背中に冷たい汗が流れ、心臓が速く鼓動を打つ。



 助けに行ったところで、私の力ではどうにもならない。

 もちろん守れるものなら守ってあげたいけれど、私ごときが目の前の現実を変えられるわけがない。



 諦めなさい。

 諦めるのよ、エニ・ツァイ。



 何度もそう自分に言い聞かせ、再び織り機に手を伸ばす。





 すると、もう一度うめき声が響いた。



 「……ゔあっ…………ああああああっ!!!!」




 その瞬間、もはや考えるより先に足が動いていた。


 目の前にある織り機から手を離し、その声がする方へと足早に歩き出す。




 ……そして、見てしまった。


 カシアと同じくらいの年齢の少年が、ひどく蹴られ、地面に倒れている光景を。



 彼は必死に手をついて、立ち上がろうとしているが、すぐにまた看守の足が彼に降り注ぐ。ボコボコに蹴られて、少年は体をくねらせてうめいていた。


 その様子を見て、思わず目を背けそうになる。息が詰まりそうだ。

 




「……やめて!!」




 自分でも驚くほど強い声が出てしまった。

 でも、看守は私の声に反応することなく、さらに少年を蹴り続ける。



「やめて……お願い、やめて…………」



 すると、看守が私に気づき、少年を蹴る足を止めた。

 そして私を冷ややかな目で私を見る。


 私は足がすくんで動けなくなり、その場に立ち尽くした。



「お願い、やめて……これ以上……」



 ああ、どうして私はこんなにも無力なのだろう。

 こんなことしか言えない自分が本当に情けない。


 でも、少なくとも、目の前で痛い思いをしている少年を見捨てるわけにはいかない。



「……お前、まさかこの俺に言っているのか?」



 その低い声に、私の体はびくりと跳ねた。

 冷たい視線が私に突き刺さるのがわかる。



「この子……まだ小さい子供が、可哀想です…………どうか、どうかご慈悲を……」



 声が震える。いや、身体ごと震えているのが分かる。

 でも、これ以上黙って見過ごすことはできなかった。



 けれど、看守は私の言葉に耳を貸すことなく、冷たく一言吐き捨てる。



「ふん、こいつが悪いんだよ。このガキが、俺たちの食糧庫に忍び込んで、貴重な飯を盗もうとしやがった」



 どうして、そんな理由でまだ幼い少年がこんな目に遭わなければならないのか……きっとお腹が空いて限界だったのだろう。



「そんな……ただの子供のイタズラじゃないですか…………どうか、どうか今回だけでも見逃していただけないでしょうか……」



 危ない橋を渡っていると分かっているのに、どうしても口から出てしまう。

 この少年がカシアと同じくらいの年齢だと思うと、どうしても見過ごせなかった。


 そして、看守は私の必死な願いに答えることなく、冷たい目で私を見下ろした。




「…………そうか。それがお前の''さいご''の言葉でいいんだな?このカス女」

「………………え?」

 



 彼が何を言っているのか、理解できなかった。

 



 

 その瞬間――――――耳を突き刺すような音が響いた。

 

 


 


 パアンッ。

 

 

 


 

 しばらく、その音が何の音なのか分からなかった。

 

 段々と意識が遠のき、視界がぼんやりと白くなっていく。





 ふと胸に手を当てると、熱いものが流れ落ちてくるのを感じた。

 じわじわと服が赤く染まっていく。


 痛みを通り越して痺れる感覚が、身体全体に広がる。


 ――――そして私は、その場に倒れ込んだ。

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