第3話 あなたが笑っていてくれたら①

 エニ・ツァイ。

 僕の大好きな、母さんの名前。


 僕は生まれてから4歳になるまで、母さんと2人きりで暮らしていた。



 幼い僕にとって、母さんは僕の世界のすべてだった。



 ♔♔♔



「カシア、朝よ。そろそろ起きなさい」


 そう言って、母さんがぼくの肩を揺らす。

 ぼくは目をこすりながら、ゆっくり瞼を開けた。



 薄暗い部屋の中で、小さな窓から差し込む光が、ぼくを覗き込むお母さんの顔を照らしている。



「……ふふ。お母さん、顔がピカピカ光ってるよ」



 思わずそう言って笑いをこぼすと、母さんは少し呆れたような顔をして「はいはい、分かったから早く起きて」と言って、ぼくの手をグイッと引っ張る。

 そうしてぼくの体は強制的に起こされた。


「さあ、まずは顔を洗わないと」


 そのまま母さんに手を引かれながら、部屋の隅にある水桶のところまで歩く。

 

 水はとっても冷たくて、ちょんと人差し指を入れる度に毎回びっくりしちゃう。 

 分かってるはずなのに、今日も思わず「ひゃっ」と声が出て、母さんがクスクスと笑った。



「カシア、ちゃんと自分で洗える?」

「洗えるよ! だって、ぼくもう4歳だからね!」

 


 そう言って頑張って手のひらに水をすくい、顔にかける。

 冷たさに思わず目をぎゅっと閉じたけど、母さんが「上手ね」と褒めてくれたから、なんだか嬉しくなる。



 顔を洗い終わると、母さんが自分の服の袖でそっと僕の顔を拭いてくれる。


 囚人服の袖は少しゴワゴワしてて硬いんだけど、そのまま母さんの腕にぎゅうっとしがみつくと、母さんも負けじとぼくをぎゅうって抱きしめ返してくれる。

 それがいつも楽しくて、冷たい水で顔を洗うのも、実はそこまでイヤじゃないんだ。


 

「母さん、今日は朝ごはんある?」

「今日はあるわ。昨日のスープの残りと、ネズミの肉が少し。お隣のシン爺さんがこっそり分けてくれたのよ」

「お肉!? すごいすごい! ごちそうだね!?」

 


 ぼくは飛び跳ねてはしゃいだ。


 だって、朝ごはんはいつも夜に配られる配給のスープの残りだけだから、なかなかお腹いっぱいにならないんだもん。



「ほらほら、床が軋むからあんまり飛び跳ねないの。悪い子にはご飯はあげられないわよ?」

 首を傾げながらそう脅す母さん。ぼくはものすごい勢いで、背筋をピッと伸ばして床に座る。


 

 そしてあることに気づいた。

 床に置かれた朝ごはんが、今日も1人分しかないことに。

 


「……母さんは今日も食べないの?」



 母さんはいつも、朝ごはんはぼくのだけ用意してくれる。

 ぼくはお腹が空いてるから嬉しいけど、母さんは少食すぎて、たまに心配になってしまう。


 

「ええ。母さんはお仕事中もずっと座っているし、いつもお腹が空かないのよ。勿体無いから、カシアが全部食べちゃいなさい」

「ふうん。じゃあ食べちゃうね!」

 


 そう言って、スープ皿を両手で持って口に運ぶ。一気に飲み干してプハッと皿を口から離すと、なぜか母さんは、ぼくのことを満面の笑みで幸せそうに眺めていた。



 ♔♔♔



 外に出ると、空気が少し冷たかった。

 朝の音楽が鳴り響く中、僕たちは手を繋いで工場へ向かう。



 他の人たちも次々と家から出てきて、みんなそれぞれの作業場へ向かう。


 その顔はどれも疲れていて、会話をする人はおろか、笑っている人もいなければ、怒る人もあんまりいない。

 保衛官のおじさんたちは、なぜかよく怒鳴ってるけど……。



「母さん、なんでみんな、いつもつまらなそうにしてるんだろう? お腹が空いてるのかなあ?」



 思わず聞いた僕に、母さんは少し困ったような顔をして笑った。

 けれどすぐに小声でひっそりと答えてくれる。



「あのね、カシア。ここにいる人たちは、みんな一生懸命に生きている人たちなの。どんなに辛くても、心が疲れてしまっても、何とか前を向いて闘っている人たちばかりなの」

「たたかってるから、疲れちゃうの?」

「そうね……そうかもしれないわね」



 そう言って、母さんは少し悲しそうな顔をして俯いた。



「……母さんも、いつもたたかってるの?」

「え?」

「だから母さんも、いつも疲れてるの?」

「……ふふっ」



 ぼくの質問に、母さんはなぜか愉快そうに笑った。

 どうして笑うんだ、ぼくは本気で心配してるというのに。

 そんなぼくをよそに、母さんはぼくの頭を優しく撫でた。



「母さんは疲れてないわ。だって、可愛い可愛い息子が隣にいるんだもの」

「ぼくが隣にいると、どうして疲れないの?」

「どうしてかしらね、カシア。あなたが笑っていてくれるだけで、母さんの疲れは本当に全部吹っ飛んじゃうのよ」

「……ふうん?」



 楽しそうに話す母さんの説明を聞いてみても、やっぱりよく分かんない。

 不思議そうな顔をするぼくを見て、母さんはさらに可笑しそうに笑った。



 ……うーん、まあいいや。

 何が面白いのか全然よく分かんないけど…………。


 母さんが楽しそうに笑っててくれるんだったら、ぼくは何でもいいや。



 ♔♔♔



 工場に着くと、いつもの埃っぽい空気が鼻をつく。

 作業部屋の入り口で、母さんは僕の顔を覗き込んだ。



「カシア。何かあったらすぐに大きな声で助けを呼ぶのよ」

「わかってるよ。母さんも何かあったらぼくを呼んでね、すぐにビューンって飛んでいってあげる!」


 母さんは何も言わずに微笑んで、またぼくの頭を撫でてくれた。


 ぼくの作業場は、大人たちがいる広い部屋の隣にある。

 ぼくのお仕事は、もつれた糸をほどいて綺麗にすること。この糸を使って、隣の広い部屋にいる母さんたちが布を作るんだ。



「カシア、おはよ」


 作業場に入り、声をかけてくれた隣の子は、エラという女の子。

 ぼくの2つ上、6歳のお姉さんだ。



「エラ、おはよう!……あれ?」



 エラの顔は普段よりも青白く、心なしか体が小刻みに震えているようだった。



「……もしかして体調悪い?」



 エラの耳元でさり気なく聞くと、彼女は焦った顔でぶんぶんと強く首を横に振る。



「そんなことない! そんなことないから! だからぜったい、だれにも、何も言わないで……」

 

 エラは必死にそう言いながら、慌てて糸を手にした。

 でも糸をほぐす手はやっぱり震えていて、彼女の小さな体はいつもよりさらに弱々しく見える。



「……わかった。でも、あんまり無理しないでね」



 小さな声でそう呟くと、エラは糸に視線を集中させながら、静かに頷いた。

 そうして、埃が舞う部屋の中、ぼくも糸をほぐし始める。




 それから2時間ほど経ったころ。


 エラが急に、動きを止めた。

 


「エラ?」



 僕は声をかけてみたけれど、返事はない。どうしたんだろう。

 目はどこか一点を見つめていて、体の震えが明らかにさっきより酷くなっている。


 そこでぼくは、彼女の様子が何かおかしいことにやっと気づいた。



「エラ……?」



 もう一度名前を呼ぶと、エラの顔がゆっくりと上がり、こちらを向いた。

 でも、その目はどこかぼんやりとしている。目が合ってるはずなのに、まるでぼくのことが見えていないみたい。

 

 そして次の瞬間、エラは力なく倒れ込んで、床に思いきり顔をぶつけた。



「エラ!」



 思わず声をあげて駆け寄ったけれど、すぐに看守のおじさんがその声に反応してやってきた。

 おじさんは冷たい目で僕を睨んでから、そのままエラに視線をやる。



「はあ、またか……」



 おじさんは呆れたように言い放ち、そのままエラを力任せに抱え上げて、部屋の隅にある扉へ向かって歩き出した。エラは目を閉じたままで、力なく腕をぶらぶらと揺らしている。


 その姿を見て、ぼくは何となく嫌な予感がした。



「エラを、エラをどこに連れてくの……」



 でも、ぼくの言葉はおじさんには届かなかった。



「はーあ、今から山に行くのも面倒臭えし……銃の練習にでも使うか」



 おじさんはそんなことをぶつぶつ呟きながら、足で乱暴に扉を開けた。

 そのままエラは外に連れて行かれて、ぼくが彼女に会うことは二度となかった。



 ♔♔♔



 夕方のチャイムが鳴ると、作業を終えた子供たちがぞろぞろと部屋を出て行く。


 ぼくも手を止め、ほぐし終えた糸を軽く床にまとめてから立ち上がった。

 みんなが出口に向かうのを見て、ぼくも母さんの元へ走る。



「母さん!」



 工場の広い部屋から、母さんの姿を見つけた僕は、すぐに駆け寄る。

 母さんはぼくに気づくと、笑顔を浮かべて手を差し伸べてくれた。



「お疲れさま、カシア」



 手を繋いで、二人で工場の出口へ向かう。


 途中、他の子供たちとその親たちがすれ違いながら家路を急いでいる様子が見えた。その中で、エラのことが頭から離れない。


「ねえ、お母さん、エラが……」

 

 さっきね、連れていかれちゃったの。大丈夫かな。


 そう口に出そうとした瞬間――。


 

 母さんの手が急に僕の口元にやってきて、すばやく口を塞がれた。

 驚いて顔を上げると、母さんは焦った顔をして、周りに誰かがいないかを確認するように視線を走らせた。



「カシア、その話は止めなさい」



 その声には、普段の穏やかな母さんの口調じゃなかった。

 ぼくは母さんの手を自分の唇から離すと、何も言わずに頷いた。

 


 どうして母さんがこんなにも焦っているのかは分からない。


 それでも、母さんを困らせちゃダメだ。それだけはダメだ。

 そう思ったぼくは、すぐに話を止めることにした。



「うん、ごめんね。やっぱり何でもないや」



 母さんは僕を見て、少しだけ安心したような表情を浮かべると、手をぎゅっと握ってくれた。


「さあ、家に帰りましょう。カシア」


 

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