第31話


 香宮たかのみやは、思わず息を呑んだ。


 輝貴てるたかたちに近づいた橋姫の髪が、いきなり長く伸びる。


 川に流された女の髪は、解け乱れて、きっとあんなふうに広がるのだろう。


 空にさらさらと広がり、いきなり輝貴てるたかたちへと巻きついた。


「逃げて! 橋姫に捕まってるわよ。

 もうちょっとあわててよ!」


 香宮たかのみやは、思わず叫んでいた。


 なんで髪の毛にまきつかれてるのに、二人とも平然としてるのよ。


 そういうの、剛毅って言わないよ。


 鈍いのよ!


 布都御魂剣ふつのみたまのつるぎを構えた香宮たかのみやは、そのまま橋姫に向かってなぎ払う。


 ごうっと強い風が吹く。


 橋姫はゆらりと体を揺らがせ、長い黒髪はちぎれみだれた。


 だが消滅させるところまではいかなかった。


 彼女は目も鼻も口もはっきりしない顔を香宮たかのみやに向けてきて、今度は髪をするりと伸ばしはじめる。


『引きずりこまれるぞ!』


「もう一撃、いける?」


『大丈夫だが、次で決まらなければ、俺は一度力を遣い果たして還ることになるかもしれん。

 そのあと、おまえにできることはいくらもない』


 布都御魂剣ふつのみたまのつるぎは、冷静に現状を把握している。


「そんな……っ」


 さすがに、香宮たかのみやは手のひらに冷たい汗をかいた。


 このままでは、まずい。


 殺られる。


 どう動く?


 一撃にかけるか。


 それとも、近づいてきたものを切るだけで、とりあえず布都御魂剣ふつのみたまのつるぎを温存しておくのか。


 咄嗟の判断に迷った香宮たかのみやだが、髪が伸びてきた瞬間、剣をぎゅっと握りしめた。


 払う!


 幸いなことに、今、自分は一人ではないのだ。


 そのまま、布都御魂剣ふつのみたまのつるぎを振りおろす。


 ふたたび風が起こる。


 橋姫の姿が揺らぎ、か細い悲鳴が上がった。


 それと同時に、布都御魂剣ふつのみたまのつるぎが消えていく。


 あちら側に戻されてしまう。


 香宮たかのみやは、輝貴てるたかたちを振り返る。


 輝貴てるたかも、傍らの公達きんだちも、はっとしたように香宮たかのみやを見つめた。


「橋姫は、あんたたちの横にいる。

 左側!」


 香宮たかのみやは叫んだ。


「今のうちに、弓を射って!」


 もっとも頼れる相方を失った香宮たかのみやは、公達きんだちたちにそう指示する。


 あとは、人間の力でどうにかするしかない。


 致命的に鈍いみたいだけど、信じてるわよ!


 香宮たかのみやは真っ直ぐ輝貴てるたかを見つめてから、邪気を払うように手のひらを打ち鳴らした。


「ひ……ふみよ、いむなや……ここのたり」


 橋姫は、異界に人を引きずりこむ。


 でも、そんなことはさせない。


 この世界に、踏みとどまってやる。


「ふるえ……、ゆらゆらのと……ふるえ……」


 この世の外のものである布都御魂剣ふつのみたまのつるぎを現世にとどめるためのひふみの詞は、自分自身をこの世にとどめておくためにも有効だった。


 輝貴てるたかは、なにか迷っているそぶりを見せる。


 しかし、しんと心を静めて祝詞を唱えだした香宮たかのみやの姿を見て、思うところがあったようだ。


 彼はなにか言いかけた傍らの公達きんだちを押しのけ、自分たちのすぐ憐に弓矢を向けた。


 そして、大きく弓をつがう。


 腕が、なめらかに動く。


 大きな弓なのに、輝貴てるたかは難なく引いていた。


 一閃。


 まばゆい光に、香宮たかのみやは思わず目を開けた。


「すごい……」


 弓はねらい違わず、橋姫を貫いている。


 その途端、彼女は断末魔の悲鳴を上げた。


 大きく姿がゆらいだかと思うと、彼女は足下から消えていく。


 そして、あとには宵闇だけが残った。



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