第32話


 暗闇の中、香宮たかのみやは肩で息をついた。


 目の前の小さな橋は、すでに異界とは通じていない。


 これで一安心だ。


 しんと静まりかえる夜の中、乱れた呼吸も落ち着きを取り戻した。


 やっぱり空気がよどんでいる気がするけれども。


 よどんでいるなりに、少し軽くなったのかな。


 ふっと、香宮たかのみやは息をついた.


 怪異の影響で、「この世」と「この世の外」とが近くなっていた。


 ゆがんだ空間は風がないものだが、今は心地よい夜風が戻ってきている。


「いったい何者だ?」


 静けさを破り、香宮たかのみやに声をかけてきたのは、輝貴てるたかだつた。


 黒い瞳が、じっと香宮たかのみやを見ている。


 くせがある男、ちょっと変わりものと聞いていたが、眼差しは影があっても真っ直ぐだ。


 香宮たかのみやは、小さく息を呑む。


 彼が目当てで来たのに、こうして見つめられると、ひどく緊張してしまう。


 橋姫が消滅したため、あたりの空気は穏やかなものに変わっている。


 夜風で乱れた髪を軽くかきあげた香宮たかのみやは、輝貴てるたかを振り返った。


 そして一歩、輝貴てるたかへと足を踏みだす。


「わた、いえ、おれは、前斎宮いつきのみや香宮たかのみやさまの嵯峨野さがの邸にゆかりのものです。

 名前はえっと、桜とでも」


 誰にも呼ばれることはない本名をもじり香宮たかのみやは名乗った


左近少将さこんのしょうしょうさまをお慕いし、後をつけておりました。

 申しわけありません」


「……」


 ぴくりと、輝貴てるたかの眉が動く。


 その傍らでは、もう一人の公達きんだちが顔色を変えていた。


 しまった。


 誤解を招く言い方をしてしまったようだ。


 香宮たかのみやは赤面する。


 主語が抜けていた。


「あ、輝貴てるたかさまをお慕いしているのは香宮たかのみやさまです」


 幕っているというのは方便だ。


 でも、どういうわけか、頬が熱い。


 たぶん、輝貴てるたかがあまりにも真っ直ぐ、香宮たかのみやを見ているからに違いない。


 こうしてあらためて間近で見ると、粗野な荒々しさはあっても、輝貴てるたかは美丈夫だ。


 線が細く、いかにも風雅な公達きんだちといった風情の貴近たかちかとは違い、雄々しい。


 まだ十代だというのに、ある種の風格があった。


 輝貴てるたかは、まだ黙っている。


 強い視線は、なにかを見透かそうとでもしているかのようだ。


 そのせいか、妙な焦りというか、心のはやりを感じた。


「念のため申しあげますが、おれは禁色の趣味はないですから、誤解しないでください」


 輝貴てるたかの餌食にされるわけにはいかないし、禁色の者同士の愛憎劇に巻きこまれたくない,


 そういう気持ちもあったが、思わず口をついてしまったというほうが正しいのかもしれない。


 なんだか、まるで言い訳をしているみたいに。


香宮たかのみやさまといえば、伊勢の斎宮いつきのみやか」


 輝貴てるたかから、ようやく言葉が返ってくる。


「そうです」


 香宮たかのみやは、大きく頷いた。


斎宮いつきのみや群行のときに、あなたがぬえを退治したことを、香宮たかのみやさまはご存じです。

 それ以来、あなたを慕われています」


 嘘も方便、と自分に言い聞かせるように心の中で眩く。


 鶴退治の一件で、彼に目をつけたのは嘘じゃないのだが。


ぬえ……。

 ああ、やはりそうか」


 輝貴てるたかは、なにごとか納得いったような表情になる。


「どこかで見覚えがあると思った。

 やはりおまえはあのときも、不思議な風を起こしていた小童だな。

 香宮たかのみやさまの家人だったのか」


 ちょっとだけ、面食らう。


 あの一瞬でよく、香宮たかのみやの顔を覚えていたものだ。


 それにしても、彼は不思議なことを言う。


 風?


 どういう認識なの。


 香宮たかのみやは、 ひっそり首をひねっていた。



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