第3話

「はぁ……」


 生徒が全員帰った放課後、日報を打ち込む手は止まっている。他にも明日の授業の準備など、やらなければならないことは山ほどあるというのに、イマイチ筆が乗らない。


「中村先生、どうしたんですか? 眉間の皺、すごいことになってますよ」


 すごいこと、と言った箇所をえいえいと指でつついてくるのは、三つ上の女性教師だった。隣の席ゆえにいつも世話になっている先輩だが、あまり得意ではない。


 眼鏡を外してレンズを拭く素振りで、さりげなく彼女の手から逃れた俺は、「何度言っても、手紙を回すのをやめない子がひとりいまして」と、打ち明けた。


 溜息の本当の理由は、桜でなく、その母親だったが、彼女が中学の同級生で多少の確執があったと知れれば、この女教師のからかいの格好の的になってしまう。


「ああ~。それはどうにかしたいよね。高学年になると、本当にタチが悪い」


「やっぱりそうなっちゃいます?」


 今年、五年生の担任をしている彼女の言葉は重い。


「うん。学校の授業よりも塾の方が進んでるからって、聞く気のない子もいてね。だいたいスマホで、同じ塾の子とやり取りしてたり、ひどいとイジメみたいなことをしてたり」


「うわ」


 そういう陰湿なのが嫌で、中高ではなく小学校教師を志したというのに、もはやネットリンチは大人だけのものではないのか。


「低学年のうちに、授業中は筆記用具以外を持たないように指導しておいてほしいわ」


 そういえばこの教師、去年よりも一気に老け込んだ気がする。彼女は、肩で息をついたのち、「あら。私が中村先生の相談に乗るはずだったのにね」と、苦笑した。


「親に家での様子を聞いてみたりとかも手よ」


「ああ、そうですね。来週、授業参観ですし」


 その後、懇談会も行われる。平日だから、仕事に都合のつきやすいパート社員や専業主婦の母親の参加が八割だ。香織も来るだろう。


 娘が授業中に集中していないことを告げ口するのは、心証がよくない。生徒だけじゃなく、保護者にも。探りを入れるだけなら、なんとかなるだろう。


 俺は先輩教師に礼を言った。お礼はいいから、私の愚痴も聞いてよ~! と、その後延々と話しかけられて、結局日報は全然進まなかった。




 参観日当日、国語の授業。先日行われた運動会の感想を発表させながら、俺はサッと保護者の群れに目を走らせた。


 遅れて入ってきた母親が、近場にいた顔見知りに「うちの子終わっちゃった?」と、口パクで尋ねている。その辺は抜かりなく、まだ当てていない。あの家には、上に兄弟がいるのだ。


「それじゃあ、次は……」


 そわそわしていた生徒も、母親が来たことに気がついたらしい。はい! と元気よく返事をして、得意げに、けれどまだ少し舌足らずな口調で、時につっかえながらも、リレーの選手に選ばれたことを語った。


 参観日前に一度提出してもらっているから、俺は散々生徒たちの作文を見てきている。話半分で聞き流し、俺は生徒たちの様子、それから親たちをさりげなく観察する。


 現状、うちのクラスは目立った問題はない。日々些細なことで喧嘩をするが、それは成長に必要な範疇に留まっている。訳もなく、一方的にひとりがいじめられるようなことはない。少々浮きがちな生徒に関しては、俺がフォローに入るようにしている。


 学校全体でも、いじめ問題は今のところはない。だが、子どもというのは大人の見ていないところで何かをやらかすのが非常に得意だ。ときに、大人顔負けの嘘をつくことだってある。


 子どもに問題があるとき、その原因はどこにあるのか。たいていは子ども自身というよりも、家庭そのものにある。


 だからこそ、この参観日とその後の懇談会で、俺は何か異変が起きていないかを、見極めなければならない。


 視界の端で、桜がもぞもぞとしているのが見てとれた。さすがの優等生も、参観日は落ち着かないらしい。


 しかし、彼女の母親は見当たらない。ちらっと後ろを見た桜の視線の先には、俺よりも少し年上の男が立っていて、桜に微笑みかけていた。


 わざわざ土曜に学校を開けての父親参観(という言い方は古臭いからやめるべきだ。平日は母親だって仕事をしているのだから)でもないのに、男親の姿があるのは珍しいことだったが、なくはない。


 父の笑顔の激励を受けた桜は、ふいと視線を前に戻して、俺の顔を見た。どうせならお父さんの前で発表したいよなあ、と次に当てようとしたが、どうも様子がおかしい。


 机の下、膝の上で握られた手は、スカートをぐしゃぐしゃに握っている。目は少し潤んでいて、はくはくと何かを伝えたそうに口を開閉している。


 緊張しているだけだろうか。けれど、そうではない気もする。


 俺は結局、桜を当てることはできなかった。




「檜垣さん」


 懇談会が終わると、親たちは帰っていく。親子一緒に帰宅する生徒のために、教室は解放して、副担任や教頭が見てくれている。


 俺は桜の父親に話しかけた。振り返った男は、柔和で人当たりのよい微笑みを浮かべている。ヒステリックなモンスターペアレントとは真逆の、教師にとってはありがたい存在のように見えた。


「今日はわざわざ、お越しいただきありがとうございます。お仕事、休まれたんですよね?」


「ええ、まあ、はい。娘の成長を妻にばかり独り占めさせるのはずるいですからね」


 ほんのわずかなユーモアを持ち合わせた檜垣は、人当たりがよさそうだ。


「なのに時間切れで……申し訳ございません」


 参観日で当てられなかった子の親からクレームを受けることも多いが、檜垣はいたって冷静で温和だった。


「大丈夫ですよ。あの子、発表とか苦手でしょうし……それに作文自体は、私も家でチェックがてら読みましたからね」


 俺は「お父様と仲がいいんですね、桜さん。お母様とは、どうですか?」と尋ねた。彼はきょとんとした顔をする。


「ええ、まあそうですね……」


「娘さんは、学校でのことをよく話したりしますか?」


「そうですね。仲のいいお友達のことは聞いたりしますよ。ええと、何ちゃんだったかなぁ……」


 俺が適当な名前を告げると、「そう。そうです、その子。すごく優しくしてもらっているみたいで」と、檜垣は相好を崩した。


「ご家庭で何かお気づきのことがあれば、気軽に相談してください。こちらも学校で変わったことがあれば、ご連絡いたします」


 と言って、頭を下げた。初めて会う保護者に対して、いつも同じことを話しているので、締めくくりとして何もおかしなことはない。ないはずだ。


 俺は桜を迎えに行く檜垣の後ろ姿を見送った。


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