第4話

 それから二週間後。俺は授業を終わらせたあと、その他の業務を放置して、病院へとやってきた。


 つい昨日までは、身内以外の見舞いを禁止されていたので、遅くなった。本当は、もっと早くに来たかったのに。


 途中で花屋に寄った。どんな花が好きなのかわからないから、彼女の年齢と見舞い用だと告げ、適当に見繕ってもらう。すると何を勘違いしたのか、「サービスサービスぅ!」と言いながら、店員はゴージャスな花束を作り上げた。


 俺と彼女は恋人でも夫婦でもないから、こんなの渡しても、迷惑になるだけだ。だが、断れなかった。


 大は小を兼ねるのならば、派手な花はすべてを丸く収めてくれるに違いないと信じて、そのまま病院へと向かった。


 ナースステーションで病室の場所を聞くと、難色を示された。事が事だけに、厳重な警戒体制が敷かれている。特に男の見舞客は、受け入れがたいことは最初からわかっていた。


「では、この花と、それから手紙を……」


 手紙。


 彼女たちが授業中にやり取りしていた、可愛いメモ帳やノートを使った、特殊な折り方をしたものではない。学校名や住所が印刷された、無味乾燥とした封筒だ。


 最初は中身も、パソコンで書いて印刷しようかと思っていたが、やめた。レポート用紙を何枚もだめにして出来上がった手紙の字は、震えていた。手汗で文字が滲んで、筆記具を変えた。折り畳むのだって、いつもならできる三つ折りが、妙に歪んだ。


 見舞いの品を看護師に手渡して、また今度来ますと帰りかけたところ、「先生?」と、小さな声が聞こえた。


「ひ……いや、桜さん」


 彼女はもう、檜垣ではない。高橋桜。そしてその母親こそ、俺が見舞いたかった人だ。


 桜の後ろには、五〇代半ばの女性が立って、こちらに会釈した。慌てて返して、俺は「桜さんの担任の、中村と申します。この度は……」と、詫びを入れかけたところで、桜が手を引っ張った。


「先生、ママが会いたがってたよ」


「でも」


 看護師には止められた。振り返ると、おそらく師長の立場にあるだろうナースが、少しの間だけですからね、と肩をすくめた。


 桜に引っ張られるまま、俺は三階へ移動する。最近の病室は、入院患者の名前を書かない。


「ママ!」


 俺は、この子のこんな声を学校で聞いたことがなかった。いつも大人しくて、子どもっぽさがあまりなくて、けれど今、母親に向かっては、第一声からあまりにも無邪気で。


 ――俺は、この子の笑顔を守ることができなかったのだ。


 ベッドの上、身体を起こそうとしている香織のことを止めたのは、ぼーっとしている俺ではなく、桜の祖母であった。香織の母親である。無理しないの、と窘められて、彼女は「でも」と俺を見る。


「中村くん……いいえ、中村先生。今回は、ありがとうございました」


 礼を言われて、ハッとする。ありがとうなんて言わないでくれ。俺は。


 深く頭を下げて、謝罪する。


「俺が、もっと早くに桜さんのSOSに気づけていれば……」


 檜垣は、外面はいいが、家では妻に暴力を振るうDV夫であった。子どもには直接手を上げなかったのか、それとも母親がかばうから、たまたま無傷であっただけか。


 服で隠れる位置ばかりを狙って攻撃していたから、香織はかろうじて、パートで働くことができていた。


 しかし、授業参観の前日、酒を飲んで帰宅し、スーツをそこら中に脱ぎ散らかして、冷蔵庫からビールを取り出した檜垣に、香織は小さく溜息をついたという。無意識のうちだった。


 檜垣は激昂し、顔も体も構わず、暴力を振るった。顔にも大きな痣ができて、外に出られない。今までずっと参加していたのに、何の連絡もなく参観日に親が行かないと、怪しまれるかもしれない。


 そう判断した檜垣は、自身が小学校に出向いたのだ。


 子どもがおかしくなる理由の多くは、親に原因がある。


 懇親会後に檜垣に話しかけた俺は、この家に問題があることを感じ取っていた。


 仲のいい親子関係。学校でのことも話題になるだろう。


 俺が檜垣に告げた子どもの名前は、男子のものだった。桜とは馬の合うわけがないやんちゃな子で、彼女は苦手意識を持っている。


 加えて、母の同級生で娘の担任という俺のことをまったく知らない様子だったのが、気になった。


 実際、バザーで男手が必要なときにやってきた初対面の父親は、「ああ、中村先生ってあの。妻と娘から聞いていますよ」と、親しげに話しかけてきたものである。


 俺は檜垣を疑い、警察に相談をした。何かが起きている可能性がある。起きていない可能性もある。だからといって、ひとりで確かめにいくわけにはいかず、どうしたらいいかわからないと訴えた。


 門前払いを食らうかと思ったが、パトロールと称して訪問してくれた。そんなに必死になられちゃあね、何もなければそれに越したことはないけどね、と。


 そして、暴力を振るわれて倒れていた香織と泣いていた桜は保護されて、檜垣は逮捕されたというわけである。


「先生のせいじゃありません。私がもっと早くに、誰かを頼ればよかったんです」


 いや俺が、いや私が、の応酬に、終止符を打ったのは桜だった。


「ママ。先生、お手紙を勝手に読む人じゃなかったよ」


 ふたりして、きょとんとした。


 そう、桜が何度注意をしても、手紙を書くのをやめなかったのは、俺が手紙を覗き見する男だという母の話を、覚えていたからだった。


 父のこともあり、大人の男と直接話すのは怖い。そんな彼女が考えた、苦肉の策であった。宿題の作文は、父親がチェックするからアウトだし、授業中、親の目が届かない場所でしか、桜は訴えることができなかった。


 俺が馬鹿正直に、説教したあとにそのまま手紙を返却していたものだから、気づくのが遅くなったのである。


「うん……ママも、よく考えたらそうだな、って」


 いまだ痣の残る腕で、彼女は娘を抱きしめた。


「もしもあのとき、あなたが私の手紙を見ていたら、中村くんならきっと、平静ではいられなかったはずだもの」


「それってどういう……?」


「内緒。……でも、あなたがあのとき手紙を見てくれていたら、檜垣と結婚なんかしなかったかもしれない」


 ハートは取り戻せない。折り目のついた紙は、どれだけ丁寧に伸ばしたところで、皺だらけだ。傷ついたふたりの心も、簡単には癒せない。


 けれど、香織の笑顔は中学時代を彷彿とさせる明るさや聡明さを取り戻しつつあって、俺は目を細めた。あの頃よりもまぶしかった。


                

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ハートは戻せない 葉咲透織 @hazaki_iroha

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