第2話

「ねぇ、これ』


 口の動きだけで、隣の席の女子が何かを手渡してきた。


 中学二年の春のこと。


 春休み中に引っ越してきたばかりで、俺はほんの少し、浮いていた。まだ全員のフルネームも覚えておらず、特に女子とはあまり交流がない。


 渡されたのは、紙だ。ノートを切り取ったものだが、ゴミを押しつけられたわけではない。きれいなハート形に折り畳まれていて、おおっ、と思った。


 これがあの、授業中に女子が回す「手紙」って奴か。教師の目を盗んでやり取りをする、秘密文書。


 転校前は、私立の男子校に通っていた。けれどどうもあのノリに馴染めず、父の転勤を機に、地方の公立中学校に転校した。一年ぶりに女子のいる空間は、緊張もするけれど、のんびりした校風は合っていて、おおむね順調だった。


 男子校でこそこそと回すのは(さすがに授業中はなかったが)、誰かの兄貴が持っているエッチな漫画やグラビア写真集である。女子の目がないと、そして本物の女子がいないと、どうしても頭はそっちに向かう。偏差値が高くても、頭はサルばっかりだ。


 手の中の手紙を、俺はじっと見つめた。宛名は「モーやん」。誰だ。男子も経由するんだから、女子だけで通じるあだ名を書くな。


 隣の女子をみれば、顎で「早く回せ」と指図してくる。


 誰宛かもわからぬ手紙は、逆隣にそのまま渡せばいいのか? いや、出所がわからないから、後ろや前という可能性もある。


 困ったな、という顔をしつつ、実のところあまりそう感じていない。俺の関心事は、誰に向けての手紙かということではなく、どうやったらこんな風に折ることができるのか、だからである。


 開いてみてもいいかな。中を見なければいいか。戻すことくらい、俺にだってできる……はず。


 こっそり両隣を伺えば、タイミングよく女子は当てられており、左の男子はうつらうつらしている。よし。


 俺はゆっくりと、ハート型の手紙を開封した。思った以上に複雑な折り目がついている。なるほどなるほど。頷きながら一枚の紙に戻った手紙を、折り直すだけだ。開けたときと逆の手順でやればいい。簡単だ。


 ところが、折り紙なんて幼稚園以来である。しかもそれだって、鶴すら折れない園児だったのだ。先生のお手本もない。次第に俺は焦り始め、手汗まで噴き出してくる。


 早く戻して、なに食わぬ顔で次の人に回さなきゃ。モーやんが誰か、そいつはわかるはず。


 けれど、何度チャレンジしても、ハートに戻すことができなかった。気づけば新たな折り目が産み出されていて、正しい道筋がわからない。数学のようにはいかないものだ。方程式を解けずにいる女子と代わってもらいたい。


 キンコンカンコン、チャイムがなる。ああ、終わってしまった、どうしよう。


 紙から顔を上げると、怖い顔をした女子が立っていた。


「中村くん、さいってー」


 腕を組んで睨み下ろしてくる女子の後ろで、強張った顔をしている子。たぶん、今にも泣きそうな彼女が、この手紙を書いた主なのだろう。


 誓って言うが、俺はあの日、手紙の中身を見ていない。一ミリもだ。女子の会話に興味などなかった。あの頃はまだ、自分専用の携帯電話を持っている生徒も少なくて、授業中に限らず、内緒話といえば筆談であった。


 けれど、俺は思うのだ。本当に内緒にしたいことだったら、誰もいないことを確認したうえで、記録に残らないようにしとけ、と。


 中心となって糾弾してきたのは、モーやんその人だった。牛山うしやまだから「モーやん」……つけた人間のセンスと、それを受け入れているモーやんの度量に感心する。


 そして彼女が庇っていた手紙の送り主こそ、高橋たかはし香織かおり――桜の母親である。


 同級生が保護者にいると、本当に厄介だ。これが父親であれば、あるいは息子であれば多少違っただろうが、母親と娘の関係は、より濃密だ。お喋りな女同士、「今日学校どうだった?」に対して「そういえば」と、共通で知っている俺の名前は話題にのぼりがちだ。これは想像ではなく、実際にそうだからである。他にも同級生の子どもが通っているのだ。


 ――あのとき、俺は何度も弁解した。折り方が気になっただけだ、見ていない。何が書いてあったのか、何も知らない。


 モーやんは、「嘘」「絶対見た」と鼻息荒く詰めてくる。たじたじになりつつも、俺は認めなかった。ちょっとでも頷いたら、終わりだ。


 俺たちの押し問答に、香織は「もういいよ」と言った。俺の言い分を聞いてくれたのかと思いきや、違った。


「見てたとしても、私たちには絶対見たって言わないよ。あとで男子の間でこそこそ話すんでしょ」


 どうしてそう、ひねくれたことを言うのかなあ!


 俺は本気で怒鳴りたい気持ちになったが、悪者になるのはこちらである。もはや何を言っても無駄だ。


 諦めて犯人に甘んじた俺は、女子に目の敵にされまくった。男子は同情的だったが、「それで、なんて書いてあったんだ?」と聞いてくるので、やっぱり信じてくれていない。面倒な連中と縁を切るため、俺は少し離れた高校に進路を定めたのであった。ほろ苦い青春の記憶である。


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