ハートは戻せない
葉咲透織
第1話
職業柄、背中にも目がある。
「こら、そこ。今持っているものを出しなさい」
できる限り穏やかな声で注意する。まだ振り向かない。こういうのはタイミングが重要だ。
正確な位置はわからないが、ぴりりと教室全体の空気が緊張したのが伝わってくる。
二年生に進級したとはいえ、四十五分の集中力は続かない。それでも生徒たちの目を惹きつけるために必要なのは、コミュニケーション能力というよりも、演技力だと思っている。
本当は朝から腹が痛くてイライラしていたとしても、注意するときに怒鳴り散らしてはいけない。優しく、けれど締めるところはちゃんと締める。声は柔らかく、表情は硬く、が鉄則だ。
振り返って教室を見回す。生徒のほとんどは、手を膝の上に置いている。手をもぞもぞしているのは、きっとノートにらくがきでもしていたに違いない。
俺はぐるりと教室全体を見回してから、俯いている女子児童に近づいた。
「
珍しいこともあるものである。この子は大人しく、授業中に積極的に手を挙げることはないが、内容自体はちゃんと把握している。
こちらから当てれば、間髪入れずに正しい答えが返ってくるので、何人かに答えさせてみて、元気な「わかりません!」が続いたときに指名する生徒の候補であった。
この年ですでに髪を染めている生徒もいる中、まっすぐな黒髪を下ろしている姿は、身長こそ平均値ながら、大人っぽい。
俺のクラスの生徒は比較的御しやすい子どもが揃っていて、他のクラスの担任からはうらやましいと言われる。授業中に無言で立って歩きまわる子や奇声を発する子もいない。穏やかなクラス運営ができている。
まあ、親まで範囲を広げると、少々厄介な相手もいるが、許容範囲である。
「檜垣さん」
二度目の声かけで、彼女は机の中から取り出し、俺の手の上に置いた。なんだかすごく懐かしい形をしている。
「お友達とのお喋りは、休み時間にすること。いいね?」
俺はそれを、教卓の上に置いたまま、「他の子も、しっかり聞いて。それじゃあ、次の部分を……」と、授業を進めていく。
つっかえつっかえ、拙い言葉での朗読を耳にしながら、俺はそっと、桜から取り上げたものに目をやる。
これが高学年の児童になると、塾通いやらなんやらで、自分のスマホを買い与えられている子もいる。学校への持ち込みは禁止されているのだが、まっすぐ塾に行くから持たせたいと親から言われれば、認めざるを得ない。
その場合も、授業中の使用は当然禁止だが、まぁ、聞かない聞かない。高学年の担任の先生方が、今一番頭を悩ませている問題である。
その点、二年生のクラスは可愛らしいものだ。授業中に手紙をやり取りするくらいなのだから。
その日の帰りの会のときに手紙は返却した。
「先生、中、見ましたか?」
「ええ? 見るわけないだろう? 先生の悪口でも書いていたのか?」
からかうと、彼女は神妙な顔をして首を横に振り、最後に傾げた。なんだか変な反応ではあったが、彼女の性格上、二度同じことで注意されることはないだろう。一年の頃から担任をしているから、わかる。
桜は大人の男(もちろん、俺を含む。例外はない)が好きじゃない。もっとはっきり言えば、怖がっている。特に叱っているときは。他の子が対象であっても、首を縮めて黙っているのだ。
二度、三度同じ注意が重なれば、俺も声を少々荒げてしまうだろう。彼女もわかっているはずだ。
と、思っていたのだが。
「檜垣さん。これで何度目ですか?」
今日もまた、俺は桜が友達にあてた手紙を没収していた。今度は一緒になってやり取りをしていた生徒もわかったので、注意する。
「ごめんなさい」
素直に謝ってくれるのはいいのだが、改善はされない。そして毎回、「先生、中身見ましたか?」と聞いてくるのも、多少イラっとくる。もちろん、顔には出さないけれど。
「見ませんよ。檜垣さんには先生が、手紙の中を勝手に見るような大人に見えますか? だとしたら先生は、悲しいです」
一度叱った後は、「もう怒ってないよ」アピールのために、あえて軽い口調と芝居がかったジェスチャーを心がけているのだが、何度も同じことを尋ねられては、さすがに対応を変えざるをえない。ずっと丁寧語で話している俺に、口を開いたのは萌絵の方だった。
「だって
教室じゅうがざわっとなる。ああ、地元で教師になんて、なるもんじゃない。
俺は「誰から聞いたか知りませんが、それはその人の、勘違いです。先生は一度だって、覗き見なんてしたことがありません」と告げ、授業を再開した。
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