第6話
その日から、夢香はパッタリと僕の家へ来なくなった。
まるで、高校生の時みたいだな。
僕はビールを片手に一人、部屋の中を見やった。
夢香の置いていった物たちが、僕を見つめていた。
化粧水、乳液、化粧品、僕から奪ったスウェット。
主人が来ない物たちを、僕はどうしても触れることができなかった。
僕はベランダに出る。重たい煙草の火をつけた。ベランダの室外機の上に、夢香が最後に吸っていた、細い煙草の箱と、豹柄のライターが置いてある。
僕は、ビールと煙草を交互に摂取する。
「夢香は、みんないい人だと信じてるよ」
最後に夢香が話した言葉。
僕は、あの無邪気で純粋な瞳で、そんなことが言えるのだろうか。
「僕は」
ベランダから、土手の桜が見えた。
春の香りがする。
「そんなこと、言えないよ」
そこにいた、誰かに向けて、僕はそう静かに呟いた。
夢香が転がり込む、そんな日常を忘れかけていた。
桜はとうに散り、新緑が芽吹いた。
そこから日は長くなり、僕は夏を感じていた。
そんな夜の短い日。僕は、普段通りの生活をしていた。
普段通りに仕事に行き、普段通りに帰ってきた。
はずだった。
僕は、いつものようにビールと煙草を調達して、帰路についていた。
今日も疲れたな。
僕は家へ向かう。家の前に誰かが蹲っていた。
誰だ。
僕の足音に、蹲る金髪が、顔を上げた。
「あ、そうちゃん」
夢香。
金髪になった夢香は、嬉しそうに声を上げる。
「なんで、お前、ここに」
再会は、動揺。
「ちょっといい報告しにきたの」
夢香は、駆け寄る。
「あと、そうちゃんに会いたくなった」
夢香は、上目遣いに言う。
「あげてよ」
僕は、断れなかった。
朝焼け。
僕の部屋で、夢香は朝焼けを迎えた。
僕らは、あの夜と同じように、脱ぎ散らかしたスウェットを着直すと、クシャクシャの頭のまま、ベランダで煙草を蒸す。
「夢香、結婚するんだあ」
よかったな。額の傷を見ると、そうも言えないが。
「今までで一番優しい人」
よかったな。また左腕に傷が増えているぞ。
「だから、ここにくるのはもう最後」
よかったな。よかったな。よかったな。
僕は、ぐちゃぐちゃで、上辺の言葉しか出てこなかった。
僕だったら。
僕だったら、もっと。
否、夢香の中では、僕は土俵にすら上がっていない。
夢香にとって、僕は何なのだろう。
「夢香にとって、僕は何」
僕は、言葉を煙に隠した。
「一番大切な人」
夢香は、朝焼けを見つめていた。
「じゃあ、旦那になる人は」
夢香は、視線を動かさなかった。
「一番優しい人」
夢香も、言葉を煙に隠す。
「バイバイ、そうちゃん」
そう言うと、煙草の火を名残惜しそうに消した。
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