第4話

「そうちゃんありがとう。シャワー、気持ちよかったよ」


 半ば強引に転がり込んだ夢香は、図々しくもシャワーまで浴びている。僕は、ベランダで煙草を吸っていると、風呂から上がったようだ。夢香はスキップをしながらワンルームへ戻る。


 着ている灰色のスウェットは、僕のものだ。小柄で華奢な夢香には、いささかオーバーサイズだった。


「そうちゃんも煙草吸うんだ。横で吸っていいかな」


 と、僕の断りなく横にちょこんと座る。


 女性がターゲットの、ピンクとホワイトの小さな小箱から、これまたスリムな煙草を取り出すと、豹柄のライターで火をつけた。


 僕はというと、ずいぶんタール数の多い煙草を蒸して、柵にもたれて夢香を見やった。


「寒いね」


 半分髪の濡れた夢香は、これまた口角を上げて言う。


「そりゃあ、冬だもん」


 と、目も配らせず僕。


「夢香も吸うんだな」


 一呼吸置くと、僕はそう呟く。


「仕事の人たちみんな吸ってたからね。待合で、先輩に教えてもらったんだ」


 たくさんの煙を吐きながら、夢香。


「夢香は、仕事は何をしているの」


 僕は、ようやく夢香を見た。頭頂部まで染められたピンクの髪が、眩しかった。


「フーゾク。ソープってやつ、やってるよ」


 おおかた予想はついていたが。驚きはしなかった。オーバーサイズのスウェットから覗く谷間に、少しバツが悪くなる。


「稼げるの」


「まあまあね。でも夢香、頭悪いからそれしかできないの」


 最終学歴が中学卒業の人間を取る企業など、確かに無いだろう。


 僕は煙草の火を消すと、もう片手に持っていたビールを飲み干した。



 その日を境に、夢香は時々……、否、まあまあな頻度で僕の家を訪ねるようになった。


「たあくんと喧嘩した」


 から始まり、来るたび喧嘩する男の名前が違った。


 夢香はよく顔や体にあざを作ってきては、僕の家で泣いていた。と思えば、すぐにころりと甘えてくる。


「夢香はもっと男を見る目を持つべきだよ」


 僕はベランダで、夢香を見下ろす。


「ええ、だってみんなすごい人なんだよ。夢香が悪いんだよ」


 そう、ニッと笑って返すだけだった。


「夢香、喧嘩は嫌いじゃないの。その間だけは、夢香のこと見ててくれるから。でも、殴られるのは嫌い。だから逃げるの」


 ずいぶんと葉を残して、夢香は煙草の火を消した。今日の爪の色は、ライトブルーでハートのシールが貼られていた。


「そうちゃんは殴らないし、家へあげてくれるから好き」


 好き、と言われて少しドキッとしたのは気のせいだろうか。


 夢香の好きは、小学生の頃に言われた好きと変わらない響きだった。



 春も真っ只中。この時期になると、夜も暑く、僕はTシャツをきて眠るようになっていた。


 夢香はいつもと変わらずシャワーを無断で借りると、頭頂部が黒くなった桃髪を、タオルドライする。


 これまた無断で、僕のTシャツとハーフパンツを借りては、


「ただいまあ。シャワー気持ちよかったあ」


 と、呑気に出てくる。


 そこで、僕は息を呑んだ。


 夢香の体の、至る所に傷がある。


 それは、男から殴られたものだけでは無いのは明白だった。


 左前腕には、夥しいほどの切り傷。新旧混ざったそれ。太腿には、煙草を押し付けた跡。


 そして、ニッと笑う顔の不和。


「なに、そうちゃん見惚れてるの。たかいよ」


 と、夢香。隠そうとせず。


「どうしたのさ、それ」


 僕は一歩たじろぐ。


「夢香が悪いんだよ。夢香が、夢香の思い通りに行かなかった時に、気づいたらやっちゃうんだよね」


 と、左腕を撫でながら。


「そうちゃんは、気にしなくていいよ」


 夢香は、いつもと違う笑い方をした。


「うん……、煙草吸ってくる」


 僕は逃げるように、ベランダへ飛び出した。


 夢香は、あんな人だっただろうか。


 小学生の頃は、自責をするような人間ではなかったと思う。否、している姿を見せなかっただけなのか。


 僕は息を吐いた。煙草に火をつける。


 灰が、生まれる。心許ない煙は、庇に当たって散っていった。


 灰が儚く床に落ちる頃、夢香もベランダへやってきた。


 夢香はいつも通りしゃがむと、青色の箱を取り出して、煙草を咥える。


「銘柄変えたんだ」


「うん。やすくんと一緒なの」


 また男の名前が違う。


「痛く無いの、それ」


 僕は、夢香の左腕を指差した。


「痛い時もあるよ。でも、全然気にならないかな」


 と、夢香。


 灰が、落ちる。


「なあ」


 僕は、紺色の箱からもう一本煙草を取り出して、火をつけた。ベランダの柵を背もたれにして、夢香の方に向き直った。


「もういい加減に」


 と、言おうとして、やめた。


 落ち着いた男を探しなよ。それは、僕の元から夢香が離れていく。


 僕のものになれよ。それは、僕が夢香の命を預かるには、あまりにも覚悟がなさすぎた。


 何も、言えなかった。


 果たして、僕は夢香をどうしたいのだろうか。


 夢香が僕の家に転がり込むようになって、僕は彼女を作らなくなった。


 夢香のものが多くて、彼女を作れないでいたと言っても、過言では無い。


 だからと言えど、夢香を手中に収めたいと言えば、それも違う話だ。


 鳥のように自由な夢香を見ることが、止まり木であることが、僕の望みなのかもしれない。


「どうしたの、そうちゃん」


 夢香は、不思議そうに僕の顔を見た。


「……やっぱいいや」


 僕は、そっぽを向いて煙草を消費することに専念した。

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