第8話 物置部屋
葉子は急に疲れがわいて、そのまま座敷に横になった。そのうち、うとうとと眠ってしまったらしい、気がつくと座敷は夕陽で茜色に染まっていた。早く夕餉の支度をしなくてはと、葉子は慌てて立ち上がった。
座敷と寝室の間の襖は、志織が物置部屋に行った時のまま開け放たれており、座敷から真っすぐに寝室の奥にある物置部屋の襖が見えた。
志織はまだ物置部屋の中で本を読んでいるのだろうか?葉子は物置部屋へと近づいた。
いつもはぴたりと閉められている襖が、ちょうど片目で覗けるくらいの隙間を残して開いていた。葉子は吸いつけられるように中を覗いた。
志織は長持を背にして座っていた。膝の上に本を開いているが、その顔は本ではなく斜め上の方を見上げていた。何かに頷いているようだが、その視線の先には何もない。
気味が悪くなって、葉子は目を離した。やはり、この子は本当におかしくなってしまったのだろうか?そう思うと再び覗いて確かめるのが怖くなり、襖の前で逡巡していると
「・・・はい、おかあさま」
志織がそう言うのが、はっきりと聞こえた。
葉子は恐る恐る襖の隙間から再び中を覗いた。
志織と目が合った。
葉子は息を呑んだ。
「おかあさま」
志織は微笑むと、本を置いて立ち上がった。
こっちに来る。
葉子の胸は早鐘を打ち、額や首筋から汗が流れる。だが葉子は金縛りにあったように動けなかった。
志織は襖を開けた。
「入って」
志織が葉子の手を掴む。
葉子は咄嗟にその手を振り払った。
「おかあさま、どうしたの?」
心配そうな口調なのに、志織は、さも楽しそうに笑っている。
「ごめんね。なんでもないよ」
と言いつつも、葉子は後ずさった。自分の娘なのに得体が知れないと思った。気味が悪かった。
「おかあさまは、夕餉の支度をしないと」
葉子は慌てて台所に行こうとしたが、その手を再び志織が掴んだ。今度は振りほどけなかった。
志織が再び笑顔で言う。
「ねえ、おかあさま、一緒にご本を読んで」
座敷で黙々と頁に視線を走らせていた志織の顔が浮かんだ。人の気も知らないで、この子はいつも自分の好きなことばかりして、忌々しいったらありゃしない。葉子はそう思ってはっとした。
「そして、頭を撫でて」
今度は泣きながら何度もごめんなさいと繰り返す志織の姿が浮かんだ。それを見る度に胸がすくようだった。暗い悦びが葉子の胸に広がっていく。葉子は身震いした。
違う違う、あたしは志織を心底、愛おしいと思っている。あたしは志織を誰からも後ろ指をさされることのないよう立派に育てたいだけだ。その為には優しいだけでは駄目なのだ。時には厳しくすることも必要なのだ。
本当に?
志織がじっと葉子を見上げていた。その目は、いつか玄関先で見せたあの冷たいものだった。
「全部、あたしが悪いって言うのかい?」
そうなのだ。志織はあたしを責めている。
長屋で暮らしていた頃は、志織がこんな目をすることはなかった。小鳥が死んでも泣くようなとても優しくて、繊細な子だった。だが今の志織は、その頃とは人が違っているようにさえ葉子には思えた。
「志織、一体どうしてしまったんだい?そんな目で、おかあさまを見るなんて。前の優しい志織に戻っておくれよ」
葉子は志織に縋るように、その場に蹲った。
ややあってから
「おかあさま、一緒にご本を読んで」
と再び、志織がそう言った。
葉子が恐る恐る顔を上げると、志織は微笑んでいた。
葉子は思った。本を読む志織に寄り添い、優しくその頭を撫でてやる。志織は本から目を上げると、嬉しそうな顔で葉子を見るだろう。葉子はそれに優しく微笑み返す。それが志織の望んでいることなのだ。いや、あたしだって望んでいたはずだ。誰が見ても仲睦まじい母娘になることを。
葉子の目から涙が溢れた。
「ごめんね、志織」
志織はそれには応えず、葉子に立ち上がるよう促すと、笑顔でその手を引いた。
葉子は志織に手を引かれるまま、物置部屋へと足を踏み入れながら思った。
私はこれから志織の良いおかあさまになれるだろうか?
涙で滲んだせいか、目の前が白く霞んだ。葉子はその霞の中に柔らかな笑みをたたえる自分の姿が見えたような気がした。その幻と葉子の顔が重なったと思った瞬間、物置部屋の襖が音もなく閉まった。
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