第6話 独り言

 だが次の日も物置部屋からは志織の話し声が聞こえてきた。

 葉子は苛立った。昨夕言ったばかりなのにどうして志織はこうも自分を困らせるのか。

力任せに襖を開けてしまいそうになるのを堪えながら、葉子は襖の前に立った。

 葉子の気配を感じたのか、志織の声がぴたりと止んだ。


「昨日、おかあさまと約束したわよね?」

襖越しに葉子は言ったが、志織は答えない。

本当に物分かりの悪い子だと葉子は思った。


「おかあさまとの約束が守れないのなら、おとうさまに叱っていただきますからね」

 それでも志織は答えなかった。


「本当におとうさまに言いますからね」


 葉子は襖から離れて座敷に戻った。ため息が漏れた。旦那さんに言うとは言ったものの志織の独り言が酷いことを旦那さんには正直、言い難かった。志織が厄介な子だと思われたら、そのせいで旦那さんから自分達が見限られたら。これから母娘ふたりでどうやって暮らしていけば良いのか。三味線や唄の師匠で細々やっていけるのだろうか。それでなんとかやれたとしても今より暮らし向きが悪くなるのは明らかだ。旦那さんが志織を生んで欲しいと言ったから芸者をやめて、慣れない家事をやってこんなにも頑張って志織を育てているのにと葉子は腹立だしく思った。

 

 葉子はついに決心をして、志織が独り言を言う癖があるのでそれを止めるよう旦那さんから言って聞かせて欲しいと訴えた。だがその独り言がまるで誰かと話しをしているかのようだとは言えなかった。

 旦那さんは独り言なんて幼い子ならよくある事だから咎めるほどのことではないと、また取り合おうとしなかったが、独り言が酷くなって小學校でも言うようになっては困るからと葉子も引かなかったので、ついには志織に言って聞かせると承諾した。


「志織、こっちにおいで」

 旦那さんが庭で毬をついていた志織を呼んだ。志織は座敷に上がると、旦那さんの横に座った。


 葉子はそれを見て

「では、私はお茶を淹れてきますね」

 と台所に行った。


 旦那さんから言ってもらえば、さすがに志織も聞き分けるだろう。葉子がほっとしながら三人分の茶を用意し、座敷へ戻ると


「こんなに難しい漢字まで読めるようになって、志織は本当に賢い子だ!」

 旦那さんが嬉しそうに声を上げた。


 旦那さんがさっきまで読んでいた新聞を指さして、志織が得意げに微笑んでいる。

 てっきり独り言の件を旦那さんが志織に言い聞かせているものと思っていた葉子は訳が分からず、座敷に入ったところで立ち尽くした。


「志織、いつの間にこんなに難しい字を読めるようになったのだい?」

「おかあさまに教えてもらいました」


 葉子は自分の顔が強張るのを感じた。志織が指差していた先の紙面を見る。そんな漢字を志織に教えた覚えはない。


「そうか、おかあさまが教えてくれたのか」

「はい、おかあさまは、いつも一緒にご本を読んでくれます」


 それも嘘だ。長屋で暮らしていた頃ならともかく、この家に越して来てからは、あんたはいつもひとりで本を読んでいるじゃないか。志織は何でそんな嘘をつくのか?


「優しいおかあさまで、志織は幸せだね」

「はい、おとうさま」


 屈託のない笑顔でそう答える志織の姿を見て、葉子はこの子は本当におかしくなってしまったのではないかと一瞬怖くなった。


「葉子どうした?おまえも座りなさい」

 茶碗を載せた盆を持ったまま立ち尽くしている葉子を見て、旦那さんが言った。

 葉子は慌てて座ると、卓に茶碗を並べた。


 旦那さんは一口茶をすすってから言った。

「志織はとても良い子に育っているじゃないか。おまえには本当に感謝しているよ」


「いえ、そんな・・・」

 葉子は笑顔でそう応えたものの、内心は強張る顔を旦那さんに気づかれないよう取り繕うのに必死だった。

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