第4話 秘密
翌日から、志織は葉子の言いつけ通り座敷で本を読むようになった。
葉子は家事がひと段落すると本を読む志織の傍に座って、その様子を眺めた。
志織は黙々と本の上に目線を滑らせている。
葉子は開け放した障子から庭へと目を移した。
椿の花は散ってしまったが新緑の繁り始めた庭から、ふたりのいる座敷に心地よい風が吹き込んだ。
「あんな薄暗いところで読むより、志織もここの方が気持ちが良いでしょう?」
葉子は志織に尋ねたが、志織は小さく頷いただけで黙って本を読み続けた。
その様子がどうにも陰気臭く思われ、葉子は小さく溜息をついた。物置部屋に籠らなくはなったものの、志織は相変わらず本ばかり読んでいる。明日は何か用事を作って、志織を外へ連れ出そうと葉子は決めた。
「今日はお出かけするのよ。早く顔を洗っていらっしゃい」
葉子は志織に余所行きの着物を着せると丁寧に髪をとかしてやってから、自分の身支度にとりかかった。芸者をやめた後に旦那さんが買ってくれた萌黄色の小紋に袖を通すのはここに越してきてから初めてだった。この生活に慣れるのに一生懸命で、思えば葉子にとっても久しぶりのきちんとした外出だった。百貨店で買い物をして、洋食店で食事をしてその後、映画を観に行くのも良いかもしれないなどと考えながら支度を終え葉子が座敷に行くと、志織はまた本を読んでいた。
まったくこの子はちょっとでも間があるとこれだと、葉子は呆れた。
「志織、もうお出かけするから、本はそこまでになさい」
だが志織は本から顔を上げようとしない。
「志織、聞こえないのかい?お出かけするよ」
「もう少しだけ・・・」
葉子は苛立ちを覚えたが、志織の言う通り少しだけ待ってやることにして自分も座った。しかしほんの数分のことだと思っていたのに、志織は一向に読み終わる気配がない。本の頁はまだ大分厚みがあった。
せっかく志織の為に出かけようとしているのに。葉子は我慢が出来なくなって立ち上がった。寝室に向い箪笥から腰紐を数本取り出して座敷に戻ると、志織の腕を力いっぱい掴んだ。
「痛い!おかあさま!」
志織の手から本が転がり落ちた。
「お立ち!いいから、こっちに来るんだよ!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
葉子は嫌がる志織を引きずって、物置部屋に連れて行くと言った。
「手をお出し!」
だが志織は、ごめんなさいと泣くばかりで手を出そうとしない。
葉子は志織の両手を無理やり引っ張って前で合わせると腰紐で縛り、両足首も縛って座らせた。そして志織が先ほど落した本を拾ってくると、適当なところで頁を開いて志織の手に無理やり握らせた。
志織はその間もずっと、ごめんなさい、ごめんなさいと泣き続けた。だが葉子は、まだ許してやる気はなかった。
「そんなに本が好きなら、ずっとそこで読んでなさい!」
葉子は物置部屋の襖を大きな音をたてて閉めると、座敷に戻った。座敷までは志織の泣き声は聞こえてこなかった。葉子は障子を開けた。怒りで火照った葉子の身体に初夏の心地よい風が吹く。これで志織も駄々をこねて葉子を困らせたことを反省するだろうと思った。少し可哀そうな気もするが、私もこうして厳しく躾けられた。一寸でも振付を間違えれば物差しで容赦なく叩かれたし、ご飯を抜かれたこともあった。それを思えば物置部屋に閉じ込められるくらい、まだ優しい方だ。だが腰紐は志織が暴れれば暴れるほど身体に食い込むように縛ってあった。もし志織の身体に腰紐が食い込んで痕がついてしまったら。もしそれを旦那さんに見られでもしたら。そう思うと葉子は急に不安になり、慌てて物置部屋へと向かった。
泣き止んだのか、志織の声はしなくなっていた。
「志織!」
襖を開けると志織は縛られたまま横になって倒れていた。本は手から離れ、畳に落ちている。
葉子は慌てて志織を抱き起すと、腰紐を解いた。
「志織、ごめんね。許しておくれ」
葉子は志織を抱きしめた。葉子の頬に触れた志織の髪は涙で濡れていた。葉子は後悔した。ああ、なんでこんなことをしてしまったのだろう。
志織のか細い吐息が葉子の耳朶にかかる。
「大丈夫、本当のおかあさまは優しいから」
こんなに酷いことしたにも関わらず、志織はあたしのことを本当は優しいと言ってくれる。葉子は胸がいっぱいになった。
「おかあさまだって、本当はこんなことしたくなかったのよ。でも志織がおかあさまの言う事を聞かないから・・・」
「ごめんなさい」
「分かってくれれば、良いのよ」
葉子は志織を抱きしめたまま、袖からのぞく志織の手首を見た。腰紐で縛った痕が薄っすらとではあるが赤く残っていた。
葉子はゆっくりと身体を離した。涙で濡れた髪が志織の顔に張りついていた。葉子はそれを優しく掻き分けてやると、泣きはらして腫れた志織の目を見て言った。
「このことは、おとうさまには内緒にしましょうね。志織がおかあさまの言うことを聞かないから、こうなったのだもの。おとうさまが知ったら、きっとおとうさまも志織が悪いとお叱りになるよ。志織だって、もう叱られるのは嫌だろう?」
旦那さんは滅多なことでは怒らないが、怒るととても怖いことを志織も知っている。
志織は黙って頷いた。
「良い子だね。おかあさまもおとうさまに言ったりしないから、このことはふたりだけの秘密だよ」
葉子は志織を優しく抱きしめた。
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