03

 おれはハンガーにかかった衣類をかき分けながら、クローゼットの中に降りた。扉ごしに人の気配がないことを確認し、思い切って外に出た。

 よかった。誰もいない。部屋はさっき死体を発見したときのままだった。作業台と見られる大きな机の上には、ドライバーなどの工具や何かの基盤が置きっぱなしになっている。棚にずらりと並んだキャビネットには、用途のわからない機械だの手の塑像だのマトリョーシカだのが飾られている。本棚にも本や写真集がみっちりと並んでおり、事前に調べた秋夫氏の人物像が伺えるような部屋だった。

 大助氏は出窓の近くに、うつぶせに倒れていた。背中には生々しい刺し傷がいくつもあり、辺りには血の臭いが漂っている。ぴかぴかに磨かれた木の床にも血痕が広がっており、見ているだけで全身から血の気が引いて気分が悪くなりそうだ。とはいえ空手で帰ったら、先生に何をされるかわかったもんじゃない。

 おれはスマートフォンのカメラを起動し、動画を撮りながら部屋中をゆっくりと移動した。隅々までカメラに収めたあと、最後に窓際の死体を――あまり撮りたくないのだが――よくよく撮影しようとしたそのとき、ふと何かが聞こえた。

 最初は気のせいだと思った。が、動画を撮るために死体の側面に回り込んだおれの耳に、今度は「……でしょう」と呼びかけるような男の声が、小さいが確かに飛び込んできたのだ。

 背中に怖気が走った。

 声が聞こえたのはたぶん、窓の方だ。秋夫氏が転落して死亡した、まさにその現場である。

 おれは手が震えそうになるのを押さえ、なんとか動画を撮り終えた。その間にも囁くような声が何度か耳に届いたが、何を言っているのかはわからなかった。わかりたくもなかった。大急ぎでクローゼットの中に潜り込み、天井裏に上って、開けっ放しにしておいた客間の点検口から部屋に戻った。

「せ、先生ー!」

 後先考えずに飛び出すと、先生は部屋にいなかった。どうしてこんなときにひとりぼっちにするんだ! おれはクローゼットからなるべく離れ、備え付けのテレビを点けた。賑やかなバラエティ番組の声に、ほっと一息つくことができた。

 先生が戻ってくるまでの数分間が、やけに長く感じられた。やがてドアが開き、先生が顔を出したときには、安堵のあまり思わず駆け寄ってしまった。

「先生ぇー! どこに行ってたんすか!?」

 先生は「うるっさいなお前は!」と言っておれの頭をはたいた。

「耳元ででかい声を出すな! 商売道具だぞ! 暇だから聞き込みに行ってたんだ」

「あのあのあの幽霊出たんすよ! 声がしたんですよ絶対! いますよ幽霊!」

「だからうるさいっつってんだろ!」

 もう一発おれの頭を平手打ちして、先生は「あのなぁ、幽霊なんかいるわけないだろ」と、霊能力者として最も言ってはならない台詞を吐き捨てた。

「柳、それでも俺の助手か? 幽霊なんてものはいない」

「で、でもですね」

「後にしろ。部屋撮ってきたか?」

 おれのスマートフォンを奪った先生は何度か動画を再生し、「ふーん」などと言いながらうなずいた。

「ど、どうです?」

「まぁ、いかにも秋夫さんの部屋って感じだな」

 それだけ? それだけなのか? おれの努力は報われたのか?「ていうか先生の方はどうだったんすか? その、聞き込みは」

「とりあえず奥様の園子さん、それから末っ子の春子さんと話してきた。短時間だから軽くだが」

 さっきのソファに戻った先生はそう言って、冷めたコーヒーを啜った。

「あくまで俺の見たところだが、園子さんの方はちょっと胡散臭いな。ご主人の大助さんだけじゃなく、息子の秋夫さんの死についても、あまり堪えているという感じがない。あくまで印象だが……」

「先生、嘘くさい人見分けるの上手いっすもんね」

 やっぱり同類だからかな、と言ってしまうとロクな目に遭わないので、おれは黙って飲み残しのコーヒーを飲んだ。冷めてもやっぱりうまい。

「春子さんもどうもフワフワした感じだな……もっとも、彼女はあれが素って感じか。まぁでも、こちらの方はおしゃべり好きらしくて助かった。真偽はともかくとして、色々聞かせてもらったよ」

 さすがコミュ強、しかも面のいいコミュ強は違う。

先生は急に春子さんらしき口調になると、

「ん~、あたし会社のことは何やってんのかよくわかんないんだけどぉ、パパはとにかく秋夫にぃに会社継がせたい感じだったかな~。でもママは冬彦兄の方がそゆの向いてるって言ってぇ、なんか秋夫派と冬彦派みたいな感じで~」

 と、彼女のモノマネで証言を再現してくれた。

「相変わらずモノマネ上手いっすね先生」

「まぁモノマネはともかくとして、秋夫さんと冬彦さん、どちらを次期社長に据えるかということについては、家庭内でひと悶着あったとみてよさそうだな」

 春子さんのモノマネを止めた先生は、ギャルの霊に取り憑かれた男が突然正気に戻ったみたいに見えた。演技派なので、こういうことはやたらと器用だ。

「顔だけ見ても秋夫さんは父親似、冬彦さんは母親似だし……というのは春子嬢の受け売りだが」

「じゃ、じゃあ、あの上品そうな園子奥様が、冬彦さんを後継ぎにするためにふたりを殺したってことですか……? えっ、めちゃくちゃ怖」

「おい柳、一足飛びに結論に飛びつくんじゃない。第一、秋夫さんは事故死ということになってるんだぞ」

「でも事故に見せかけて、とか……」

「だから結論を急ぐなと言ってるんだ。いいか? ミツヨちゃんがおれたちに頼みたいのは、今のところ大助さんを殺した犯人を捜すことだ。そして少なくとも後継問題に関しては、園子さんには大助さんを殺害するだけの十分な動機がない。邪魔な長男がすでに亡くなっているんだから、順当にいけば冬彦さんが山野奥家の後継ぎになるはずだ。だったら、わざわざリスクを冒して大助さんを殺さなくてもいいだろ」

「そっか……それもそうですね」

「まぁ動機がまるでないとは言わん。夫婦仲はあまりよくなかったみたいだしな」

「やっぱ後継問題っすか?」

「それもあるが、春子さんによれば、そもそも園子さんには結婚前、他に好きな男がいたとかいないとか」

「ええええ! 春子さん、それわりと爆弾発言じゃ……」

「これも真偽のほどはわからんがな」

 先生はさらりと言ってのけた。「大体なぁ柳、秋夫さんはともかく、大助さんの件については、園子さんにはアリバイがあるんじゃないか?」

「あ!」

 おれは思わず大声を上げてしまった。この屋敷に来てから、奥様はおれたちとしばらく一緒にいたのだ。すっかり忘れていた。

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