第5話

夜の闇にはある種の魔力が宿る。他は知らないが、すくなくとも私にとっては間違いなくそうで、決心したはいいものの、完全に立ち直るまで、一体どれほどの時間を費やせばいいのだろう。あるいは、完全に立ち直ることなど、出来ないのではないだろうか。

疑念を胸に、私は暗闇の中に横たわる。その数秒後に何者かが隣に座り込むのだが、その正体は何を隠そう、雪歌だ。あれから私たち三人はともに食事を採って、しばらくの間は歓談というか世間話というか、その手の他愛もない会話を繰り広げ、何を思ったか母のすすめにより、二人で一夜を過ごすことになった。

歓談とはいえども、主に喋っていたのはあの二人だけで、私はその後またしても殆ど沈黙を貫いていたのだが、それはこの際特に問題する必要もないだろう。

考えるべきはこの弱気に傾く心の処遇と、一向に私の方を見向きもしない雪歌に対する対応だ。

特に怒らせる様な行動はとっていないし、先に述べた通り殆ど喋っていないこともあり、怒っているとは考えにくい。私の様な人間を好まない人々もいることは知っているけれど、彼女はこれでも高校生来の友人であるのだから、今更気に入らないなんて言い出すことはない様に思える。

とすれば、なおさら私の感情は『困惑』であり、それは徐々に確実に強化されていった。

経験のある人なら理解できるだろう。困惑はやがては不安を呼び起こす。ましてや今は夜であり、私は夜の力に飲み込まれやすい。散々泣いたので、今更泣くなんてことはないのだけれど、それは決して喜べるものではなく、ただ、せめてもの気持ちとして彼女の方へ躙り寄る。

どんな風に思われているのか、でも、少なくとも指先に触れるほどに近寄っても避ける様子はないから、きっと思ったほどに状況は悪くないのではないかと思う。

 普段は特段気にする様なことはないことで、やはり人がそばに居ることで感覚が異なるのだろうか。部屋に流れる静寂がやけに際立ち、あの独特の金属音の様な音が気になって仕方ない。

私が時折足や腕を動かせば、まるで洞窟やトンネルの中にでもいるのかと錯覚するほどに大きな音としてとらえられてしまい、ここまでなんの物音も立てず座っていられる雪歌には感心する。

思えば、これほど静かな彼女を目の当たりにするのはおそらくはじめてだ。

以前にも思ったことではあるが、同じ同性の私でも見惚れるほどの造形をしているし、暗い部屋のなか、わずかな光源によりライトアップされたその姿は、神々しいと言っても過言ではない。

ゆっくりとした瞬きも、静かに上下する胸も、CGによって合成された人物モデルだといわれても『すごくリアルだな』と納得してしまうだろう。彼女の姿を見つめていた時間は、体感で10秒に満たないかどうかといったところではあるものの、私の記憶にはしっかりとインプットされる。

再度身を捩らせ反転すると、不意に軽い衝撃が背中に伝わって、見ずともわかるが、雪歌が私の隣で同じ様に、同じ向きで寝転がったようだ。

「……!」

彼女の機嫌を伺おうとした私の口は、うなじのあたりにかかる吐息のこそばゆさと、突如として強く抱き寄せるような仕草への驚愕から、再び結び直される。

まだ日中の恐怖心のようなものが拭えていないのだろうか。雪歌の呼吸は通常のそれとは異なっていて、どちらかといえば取り乱しているかのようにも思えるし、こうも強い力で抱きしめるような人格の持ち主ではないであろうことから、やはりよほどのことだと判断して、このからだを抱きしめるその手に指を重ねて、彼女や母がそうしてくれたように優しく叩く。

たまにテレビやインターネットで聞く話だが、自分よりも緊張している人を見ると緊張がほぐれることもあるそうだが、取り乱しているであろう人物を宥める様な行動をとると、どうやら不安のようなものは圧縮されてしまうようで、すでに私は調子を取り戻しつつあった。

あの雪歌でも弱みを見せるというのは、やけに人間くさくて、だからこそ私はこのように感じたのかもしれない。同時に、たとえば恐怖というのはすぐさま振り払えないことも多々あるのだから、それを弱みだと捉えるのは馬鹿馬鹿しくも思えるし、どこか愛おしくも思う。

 力をこめた彼女の腕は、まだ緩める様子はない。呼吸も完全に復調したようすではなくて、最終的に五分くらいだろうか。手の上から指をどかした私が、首だけ振り向くと、すぐそこに雪歌の瞳が見えて、見えたかと思えば、突然なにも見えなくなってしまった。

否、見えていないというのは正しくない。見えているけれど、焦点を合わせられないのである。

あまりに近すぎる距離に何も反応できず、彼女が私の唇を奪ったことを理解したのは、その舌が唇を割って口腔内に侵攻してきてからのことだ。反射的に押し除けようとするが、体勢が体勢なだけに退かすことはできずに、それどころか体を捩ったせいで、上半身だけ正対面するような形になってしまう。雪歌はその機を逃さず跨る様に立ち位置を変えて、丁度私の外腿に座るようにして、ついにはこの腕を捕らえて離さない。 

口はその唇で塞がれてしまったため、落ち着かせるような声かけはできず、力では到底叶うわけもなく、その時私の脳裏をよぎったのは、日没後の橋の下での忌まわしい体験だった。

 あの日私は己が無力によって、どうすることもできず、ただ全てを諦めて事に身を任せるほかなく、おそらくはそのせいで人生そのものが変わったのだと思う。

男性恐怖症というよりは、嫌悪症。視線や表情、体臭や質感。存在そのものを憎むとまではいかなくても、嫌悪し、忌避していた。同時に女性相手にはそういうことは感じなかったし、むしろ好意的に見ていた面もあったような気がする。実際に今こうして突然の蛮行に及ぶ彼女とあの男を照らし合わせても、あの時あの場所で感じたほどの恐怖感はない。違いはなんなのか。

不思議な感覚を体験した私は瞬時に思考を巡らせて、答えをたぐり寄せる。

 女性全体をなんとなく好意的には見ていたけれど、性的に見ていたことはなくて、おそらくこうなっているなら強く嫌悪するだろう。そうであるなら、同性愛者としての素養はあったといえるのではないだろうか。俗にいうレズビアンというやつだったとして、好みのふるいにかけても残ったのが雪歌だったとして、故に私は「嫌だ」と首を振ることもしないのではないだろうか。

 おそらくは一秒にも満たない時間でそう推測した私は、再度彼女を意識に迎え入れる。

表情なんて見えないけれど、閉じた瞳はそれでもなお美しく、漏れ出る吐息は艶かしい。

『これは……かなわないな』

初めて顔を合わせてからのこと、在学中の日常や催し、もちろんそこにはあの日の修学旅行も含まれているのだけど、それから何年も経って、今に至ると、私は諦める以外の選択を失った。

認めよう。私は、私も雪歌のことが好きだ。友人としてのそれではなくて、恋愛感情として。

でも、この状況はどうすればいいのだろうか。声は出せないし、腕は抑えられている。

好意を根拠にしたこの行動を認め受け入れたと示す、肉体的な動作は限られていて、そうするしかあるまい。腹を決めた私は、最後の防衛線として保っていた咬合を解く。

上顎や頬に擦り助けられていた舌は、それに気が付くと、ほんの少しの間ためらいを見せた。

この期に及んで、そんな意気地なしな振る舞いをする必要なんてないのに。

いつまでも戸惑う雪歌は、きっと優しい人間なのだろう。だったら、私が示すべきだ。

目を閉じ、感覚を頼りに、私は舌を差し出して彼女のそれを見つけ、撫でる。

この体の上で微かに震えた感覚は、錯覚ではない。私の行動も、幻想なんかではない。

一種の疑念に囚われているやもしれない雪歌を、私が私も気が付かないうちにすきになっていた人を、そんな馬鹿馬鹿しい感覚に囚われさせたくないから、彼女の舌に無理やり絡みつける。

「もうわかったでしょう?これが答えって、わかったでしょう?」

言葉にこそ出来ずとも行動で理解を促し、幾度も幾度も、果てには彼女の口内にまで差し出す。

ようやくというべきだろう。わずかに彼女の舌と触れ、粘度の少ない唾液が混ざり合い、それをきっかけに雪歌の舌がその勢いを増し、侵攻を始めた。

脚の間に体を滑り込ませるように姿勢を変える彼女。できることなら顔を見たく、どんな表情をしているのか気になるけれど、目を開けても捉えることができるのは瞳と少しの肌だけだ。

漏れ出る吐息がいやらしく、これだけの美貌を備えた人間でもこのような状態に成り下がるのかと思えば、それはさながら天使の堕天のようであり、どこか背徳的な情景を目前、否、ともに描いていることを意識すると、全身が熱を帯びた様にあつく、頭が回らなくなってしまう。

脚の間を強く圧迫されても、捕食するかのごとく唇を貪られようとも、不快感や苦痛として処理されることはなく、むしろ私の脳はどういう仕組みだか、興奮材料として受け入れていた。

こうなることが正常なのだと都合よく思考転換を行い、ただひたすらに供給される愛情と愛欲に応え、唾液が流し込まれるのであれば躊躇なく嚥下し、あの柔らかな舌が唇をくすぐれば、「まって」とばかりに吸い付く。だって、心地いいのだから、誰だってこうなってしまうに違いない。

あの最悪な出来事と、今ここで起きていることは、即物的行動としては何の違いもないというのに、こうまでも夢中になってしまうのは、きっと雪歌が私に毒を盛ったからだろう。いつから仕込まれていたかなんて皆目検討もつかないが、即効性ではない、そんな毒薬。

 時が流れれば流れるほどに中毒性と効力を増し、今夜、ようやくその効果が出てしまった。悪い気持ちになれない、嫌な態度をとることも自らかき消す、危険で魅力的薬効である。

「葉月。はづき。」器用にと評するべきか、彼女は私のことを貪りながらも、時折譫言の様に私の名前を囁き、優しく髪を撫でるその仕草。まさしく愛撫というほかない行為は、ただでさえ許容限界に近い私の理性的一面をさらにさらにと引き剥がし、あるいは舐め溶かすようにも感じられて、もう、もう、いっそのこと正気を手放してしまいたい。

 だが、人とは思いの外頑丈で、あるいはただ私のキャパシティが異常な値を叩き出しているだけかもしれないけれど、とにかく発狂することさえも許されなければ、ただにうめき声を漏らし、襲いくる本能への刺激をそのままに享受する。

髪を撫でていた雪歌の手は、私の興奮が増すにつれて徐々に低い方へと滑らせる。あるいは首筋をくすぐられるように撫でられると、体は想像以上の快感としてキャッチしてしまい、自分でも信じられないような勢いで跳ね起きる様な仕草をしてしまい、これではまるで弄ばれているようではないか。さらにタチの悪いことに、彼女は弄ぶつもりなど毛頭なくて、ただただ愛しい相手の肌をなぞり、より近く、より濃密に接触したいだけだということが、ひしひしと伝わるのだ。

 これほどの幸福と困惑の境で反復横跳びしているかのような感覚を、この女は知ってか知らずか、いずれにせよ、あの日以来たとえ母であっても触れさせることのなかった、服の下の肌。私を求める雪歌は、それほど時間をかけずしてその存在を突き止めて、衣服のボタンをひとつ、またひとつと外してゆく。慣れているのか器用なのか、どちらでも構いはしまい。

下手な男性よりもよほど素早く、静粛に、それでいて滑らかな手つきにかかった私は、あっという間に下着姿にされる。正直なところ、恥ずかしいことこの上ないというのが率直なところだ。

ここで雪歌ははじめて私の唇から離れていき、その顔をあげて、やや見下ろし気味にこちらの方に視線を向け、慈愛を示すかのごとく目を細めて微笑んだ。

『ずるい』これは見つめられた側としての感想である。はっきりいって、これがずるくなければなにをずるいといえるのか、もしも知っている者がいるなら是非とも教えてほしい。

あくまでも喩えではあるのだが、黒い瞳は宝石を彷彿とさせるほどに整い輝きを放ち、やや口角の上がった口は薄く、淡く色づいている様に見てとれる。また、私であれば自慢するであろう白い肌はその名に相応しく、きらりと輝く新雪のようにさえ思える。

雪歌は立ち位置はそのままに、前屈み気味に私に覆い被さって言葉を発した。

「やっと答えが知れた。どっちでもよかったのに、生殺しだったよ。」

彼女の感覚では、私は非難されて然るべき態度を取り続けていたということなのだろう。どこか恨めしそうに、だけど憑き物が落ちたような声色で「もう待てないから」と続け、こちらの返事を待とうなどという考えは毛頭なかった様子で、押さえつけるといった方が正確な勢いと力で、この体を組み敷く。本当のところは確かめようもないが、その手つきはやはり同性が悦ぶ箇所を知っているのか、あるいは相応の経験を積んできた可能性もあると思うと、微弱な快楽とともに、嫉妬心とも悲しみとも捉えられる、なんとも複雑な気持ちに呑み込まれてしまうようだ。

 私は雪歌がもたらす快感を身に受け、時折体をくねらせる。その度に彼女は体ごと動きを制限し、その雰囲気とか仕草を喩えるならば、まるで巣に落ちた獲物を絶対に逃さない、蜘蛛のようにも、四肢を絡み付けるようにしていることを考慮するなら、蛇とも言えるだろうか。

いずれにしてもそれは些細な問題で、どちらの生物も苦手でない私にとっては悪い気はしない。

むしろ、どこでそうなったのかは知り得ないけれど、雪歌の手中に罠に堕ちていく感覚は、被支配的なマゾヒズムを擽り、どうしようもなく興奮してしまう。

多分雪歌はこのことを理解していて、否、言葉で説明できるようなものではなさそうなので、本能的に知っていたというほうが相応しい。いまいち納得しがた言い草ではあるのだけれど、なにより私自身が説明できないのだ。ならば、性質というものがあって、知識といった類のものではなく、直感で感じることのできるものとして認識した方がまだ納得できるというものだ。自分自身にそう言い訳をして、あの手この手で責めたてる彼女を受け入れる。

否定することは、もうしなくてもいい。私は雪歌の気持ちを受け入れ、応えた。

であれば、これはもはや単なる快楽を得るための行為ではなく、愛情を確かめ伝えあい、胸に秘めた気持ちを言葉を使わずして交わす儀式だといってもいいだろう。あの時の様な独善的快感に耽溺するための下卑た真似ではなく、もっと有意で優しいもの。

乳房を掴まれるなら仰け反って膨らみを強調し、内腿を撫でられたなら、そっと脚を開いて迎え入れる。

 ずっと思ってくれていた。こんなふうになった私を、待ち続けてくれていた。ただそれだけのことがどれほど困難であるかは想像もできないが、案外大変なことだというのは知っている。

だから私は彼女を—雪歌を受け入れたい。過ぎた時間が取り戻せないのであれば、雪歌が恋焦がれてくれていた私という生きた存在を強く主張することで、愉悦に浸らせてあげてもいいではないか。根負け、もしくは降伏。けれどこれは酷なことではなくて、むしろ幸福なこと。

生まれたままの姿になった二人は、時折声を漏らしながらも静かに、されど情緒的に貪り、貪られ、未だ経験したことのない世界へと沈み込んでいく。

 唾液か、汗か、あるいはその他の体液か、その全てか。いつの間にか私たちはひどく濡れてしまって、生乾きのような布団の上で、それでもなお行為をやめられない。

白状してしまうと、私はもう雪歌のことしか考えることができなくなってしまっていた。

何度も何度も震え、呻いていたと思う。暴力的とさえいえるほどの幸福感を与え続けられてしまったことで、理性なんて毛ほども残っていない。

はしたなく脚を広げ、雪歌の指が侵入してくることも、あるいは性器を擦りつけられることも、嬉々として受け入れる。もう、いっそのこと死んでしまいたい。

涙が溢れてしまうほどの幸福感の中で、私は死を乞う。だって、この先これほどの幸せはきっと訪れないと思えてしまうのだから、仕方がないではないか。

もう苦痛はごめんだ。未だ止まらない行為の最中、私は必死で「ころして、ころして」と媚びる。

けれど雪歌は、あの笑顔で、慈愛に満ちた瞳で私を見据えるのみで、ただただこの時間を私に刻みつけるだけだった。

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