第14話
濃紺のスーツは上質な生地の光沢を帯び、白いシャツの襟元はきちんと整えられている。ネクタイの結び目も乱れず、長時間の移動や仕事の疲れを感じさせない身なりだ。しかし、日本酒のグラスを持つ指先にわずかに力がこもり、時折視線を落としては、何か考え込むような仕草を見せる。
東京のサラリーマンらしい、節度のある佇まい。だが、ここ高知の空気の中では、その端正な姿がどこか異質にも見えた。
思わずしばらく立ち止まってしまったが、店員さんに声をかけられ、はっと我に返る。数席しかないカウンターの「東京」から一席空けた場所に案内され、腰掛け、注文を済ませる。
常連客たちが交わすゆるやかな会話が心地よく響き、店の空気はどこまでも穏やかだった。
そんな中、ふと隣から声がかかった。
「ここ、よく来るんですか?」
低めの、けれどはっきりとした声だった。声の方を見ると「東京」がこちらを見ていた。
「いえ初めてなんです。」
「地元の方ですか?」
「いえ、出身は東京で。仕事で高知に」
「いいですね、こっちは飯も酒もうまいし、のんびりしていて」
そう言いながら、男はグラスを傾け、軽く息をついた。
「でも、やっぱり東京のほうが落ち着きますね。地方に来ると、余計にそう思うんですよ」
「東京」がいい終わるのと同時に、迷って選んだトマトスライス、だし巻き卵が運ばれてきた。
だし巻き卵からはとてもいい香りがして、数日ちゃんとしたものを食べていなかった私に安らぎを与える。
「東京」と「東京人」の話すこの空間だけは、きっと周りからは異質に見えているだろう。
見ていますか常連客の皆さん、これが"東京"ですよ。
注がれた白ワインに少しだけ口をつけて、話を続けた。
「東京のほうが?」
「ええ、こっちは居心地がいい。でも、それってたぶん"非日常"だからなんですよね。結局、戻る場所はあっちなんです。あの慌ただしさも、人の多さも、たまに嫌になるけど、結局ないと落ち着かない」
「東京」の言葉を聞きながら、私はカウンターの奥にかかる小さな時計をぼんやりと見つめた。東京。あの雑踏の中で、東京らしさを求めて生きていた頃。電車の振動、街灯に照らされた石畳、美しくスーツを着こなした人。
そう、そうなんだ。結局戻る場所はあっちなんだ。そう思いながらも、この「東京」にも地元の人と間違われたこと、由梨枝に言われたことがぐるぐると頭を巡る。
私は高知に染まる前に、東京に戻らなければ。1秒でも早く。
ゆっくりとうなづき、肯定した自分の声が、思った以上に遠くに聞こえた。
翌日も朝が早いから、ということで「東京」とはその店で解散し、タクシーに乗り込み帰路に着く。
目の前に広がるのは、温かく静かな高知の夜。
馴染みたい東京のきらびやかな夜と、馴染みたくない高知の静かな星空。時間は私の思った3倍の速度で進んでいた。
週明け、出社した私は、会社に辞表を提出した。
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