第二章 『記憶の中の知恵』
春の日差しが、チセの天窓から差し込んでいた。煙出しの隙間から漏れる光が、まるで天からの祝福のように、フレペの手元を優しく照らしている。母の横で、初めての織物に取り組む少女の表情には、緊張と期待が入り混じっていた。
「フレペ、その調子よ。でも、もう少しゆっくりと」
母の声は優しく、しかし確かな厳しさも含んでいた。小さな手が、不器用に緯糸を通していく。研究者としての記憶が、その技法の持つ意味を理解していた。だが実際に行うことは、想像以上に難しい。
織機の前に座り、経糸の張り具合を確かめる。その感触が、不思議と懐かしい。まるで、何度も触れたことがあるような。しかし、それは研究者としての記憶ではない。もっと深い、魂の記憶のようなものだった。
「モレウ(渦巻き)の文様は、私たちの命の源。水の流れ、風の動き、すべての始まりを表しているの」
母の説明に、フレペは深く頷く。研究者として、その象徴的意味は知っていた。しかし、実際に糸を通しながらその形を作り出すことで、新しい理解が生まれていく。指先に伝わる糸の感触、織り目が生まれていく瞬間の高揚感。それは、文献からは決して学べないものだった。
「見て、フレペ。この糸の交わり方が、私たちの命のあり方を表しているの」
母が織り機の前で、一本一本の糸の動きを丁寧に説明する。経糸と緯糸の交差。その一つ一つが、物語を紡ぎ出していく。
「強すぎず、弱すぎず。ちょうど良い力加減で」
母の言葉に、フレペは全神経を集中させる。力の入れ具合一つで、文様の表情が変わってくる。それは、まるで生き物のようだった。
昼過ぎ、小休憩の時間。母がシト(団子)と、香ばしい焙煎したハマナスの葉のお茶を用意してくれた。
「今日は、よく頑張ったわね」
母の笑顔に、フレペの心が温かくなる。文様は単なる装飾ではない。それは自然との対話であり、カムイへの祈りでもあった。研究者としての知識が、実体験と結びつき、より深い理解へと変わっていく。
その日の夕暮れ、チセの外で一人の老人が話しかけてきた。
「フレペ、今日は織物を習い始めたそうだな」
エカシ(長老)のレラだった。村で最も尊敬される古老の一人である。その眼差しには、何か特別なものを見抜くような鋭さがあった。
「はい、エカシ」
「よく覚えておきなさい。私たちの文様には、すべての物語が込められている。それは、カムイたちとの約束の記録でもあるのだから」
レラの言葉に、研究者としての記憶が反応する。文様の持つ意味については、数多くの論文を書いてきた。しかし、実際に作り手となって初めて気づく真実がある。
「織物は、目に見えない世界への扉」
レラは続けた。
「お前の手から生まれる文様は、きっと特別なものになるだろう」
その言葉に、フレペは不思議な予感を覚えた。自分の中の二つの記憶が、何か新しいものを生み出そうとしているような。
夜が更けていく。囲炉裏の火を見つめながら、フレペは今日一日を振り返る。研究者としての知識と、少女としての感覚。その二つが少しずつ溶け合い、新しい理解を生み出していく。
アペフチカムイ(火の神)の炎が、ゆらゆらと揺れている。その光が、今日織り始めた布に映える。まだ形にならない文様だが、そこには確かな可能性が宿っていた。
母が寝床を用意する音が聞こえる。チセの中に、心地よい静けさが広がっていく。外からは、フクロウの鳴き声が聞こえてきた。
「チカプカムイの声ね」
母が、懐かしそうに言う。
「きっと、お前の織物を見守っていてくれるのよ」
フレペは静かに頷いた。明日からも、一針一針、物語を紡いでいこう。そう心に誓いながら、柔らかな眠りに落ちていった。
チセの外では、春の風が、新芽の香りを運んでいた。
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