第一章 『目覚めの朝 ~アペフチカムイの炎~』

 最初に感じたのは、煙の香りだった。


 樹木の芳香を含んだ、懐かしくも初めての匂い。目を開けると、そこには円形の天窓から差し込む光と、立ち上る煙が交差する光景が広がっていた。


「フレペ、起きたか?」


 優しい声が耳に届く。見上げると、長い黒髪を藍色の布で結った女性が、微笑みながら立っていた。


「ハポ(母)……」


 言葉が自然と口をついて出た。しかし、その瞬間、強い違和感が全身を襲う。自分は確かに……。


(佐藤、雅彦。85歳。札幌の病院で……)


 しかし目の前の光景は、紛れもない現実だった。チセ(家)の中。アペフチカムイ(火の神)が宿る囲炉裏。編み上げられた萱葺きの屋根。そして、イタオマチ(織り子)として名高い、母ピリカマッ。


 自分の手を見る。小さく、柔らかな七歳の少女の手だった。しかし、その手の感覚と共に、85年分の記憶も確かに存在している。


「具合でも悪いのか?」


 母が心配そうに覗き込んできた。その目には、純粋な愛情が満ちていた。


「大丈夫です」


 声に出してみて、また違和感を覚える。自分の中に、二つの意識が同居しているような感覚。しかし不思議と、それは苦痛ではなかった。


 囲炉裏の火を見つめる。揺らめく炎の中に、アペフチカムイの姿を感じる。研究者としての知識が、今の感覚と重なり、新しい理解となって広がっていく。


「今日から、お前にも少しずつ織物を教えていこう」


 母の言葉に、心が躍った。これまで文献でしか見ることのできなかったアイヌ文様の世界。その製作の現場に、自分が立ち会えるのだ。


 チセの外からは、鳥のさえずりと、せせらぎの音が聞こえてくる。時は1823年。ここは胆振の地。自分の名は、フレペ。


 研究者としての記憶は、確かに残っている。しかし今は、この小さな体で、この時代を生きることが自分の使命のように感じられた。


 母が、織機の前に座る。その姿は、まるで一幅の絵のように美しかった。


「さあ、始めようか」


 母の声に導かれるように、フレペは織機の前に進み出た。これが、新しい人生の始まりだった。

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