【TS転生アイヌ短編小説】時を紡ぐ少女 ~アイヌの心を受け継いだ魂の記録~(9,955字)
藍埜佑(あいのたすく)
プロローグ 『雪解けを待つ魂』
札幌市内の総合病院、その最上階の個室に、早春の光が差し込んでいた。窓際のベッドで、一人の老人が微かに目を開けた。
「佐藤先生、お目覚めですか?」
看護師の清々しい声に、佐藤雅彦は小さく頷いた。その表情には、終末期がん患者とは思えない穏やかな光があった。
ベッドサイドの机の上には、乱雑に広げられた古い文献の山。その傍らには、一冊の手帳が置かれている。表紙には『イオマンテの本質的理解 ―アイヌ民族における神々との対話―』と記されていた。
「シゲさんが、また来られるそうですよ」
看護師の言葉に、佐藤の目が一瞬輝いた。貝澤シゲ。二風谷に住む92歳のアイヌ古老である。長年の研究協力者であり、佐藤にとって、最も信頼できる「生きた歴史」の証人でもあった。
窓の外では、まだ春の訪れを待つ札幌の街並みが静かに横たわっている。その向こうに、手稲山の雪を被った峰が、朝日に輝いていた。
「あと、どれくらい……」
佐藤は独り言のように呟いた。残された時間は、医師の言葉を借りれば「長くて数週間」。しかし、彼の関心は自身の余命ではなく、最後の研究をまとめ上げることにあった。
その時、部屋の空気が微かに震えた。
窓の外で、一羽の大きな鳥が羽ばたいている。シマフクロウだった。札幌の市街地で見かけることなど、まずありえない鳥だ。しかし確かにそこにいた。
「チカプカムイ……」
佐藤は思わずアイヌ語で呟いた。フクロウの神。アイヌの世界では、最も重要な神の一柱とされる存在だ。シマフクロウは、ゆっくりと輪を描くように飛び、やがて朝もやの中に消えていった。
その日の午後、シゲが訪れた。杖を突きながらも、その背筋は驚くほど真っ直ぐだった。
「先生、お元気ですか?」
「ああ、シゲさん。今日は遠いところを」
シゲは佐藤のベッドサイドの椅子に腰かけ、手帳を手に取った。
「まだ、書き続けているのですね」
「ええ。でも、どうしても掴めない何かがある。イオマンテの本当の意味が……」
シゲは静かに微笑んだ。その目は、何か深い思いを湛えているようだった。
「先生。あなたはまだ、本当の理解への道半ばです」
「どういう意味でしょう?」
「文献を読み、話を聞き、考えを重ねる。それは大切なこと。でも、私たちの文化は、そうやって外から理解できるものではありません」
シゲの言葉は、優しくも厳しかった。
「生きることでしか分からない。感じることでしか理解できない。それが、私たちの道なのです」
佐藤は黙って頷いた。85年の人生の大半を、アイヌ文化研究に捧げてきた。特に「カムイとの対話」をテーマに、数え切れないほどの論文を書き、講演を行ってきた。しかし今、シゲの言葉に、これまでの研究者人生が、まるで砂の城のように崩れていくような感覚を覚えた。
面会時間が終わり、シゲが帰った後も、その言葉は佐藤の心に残り続けた。夕暮れが近づき、病室に紫色の光が差し込んできた。
その時、再びシマフクロウが現れた。
今度は窓のすぐ外に止まり、琥珀色の目で佐藤を見つめている。その瞳の奥に、佐藤は不思議な光を見た。まるで、深い森の中で、無数の物語が織りなされているかのような。
意識が遠のいていく。
最後に見たものは、シマフクロウの瞳に映る、自分自身の姿だった。
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