久遠の鳥籠
花風花音
久遠の鳥籠
「つがい無き身、遠からず
記憶に深く根を張った、甘く歌うような女の声。
それは、バスの
目を開けて、急ぎ降車ボタンを押す。
ゆるゆると山道を登ってきたバスは、
気づかぬふりで瑞葉は降車し、重たいエンジン音を引きずりながら空になったバスが去っていくのを見送って、改めて周囲を見回した。
ここだ、間違いない。
目にしみるような青空と、存在感のある白い雲は、
周囲は
古びたバス停の表札を確かめると、うっすらと『
目印のない田舎では、個人宅前がバス停に利用されることもあると、教えてくれたのは祖母だった。
かつて山を背に、年季の入った日本家屋と広い庭のあったそこは
置かれたバリケードフェンスと、黄色と黒のロープで立ち入りを禁じられたそこに、瑞葉はためらわずに入り込んだ。
確認できる民家は、だいぶ離れた場所に二件しかない。
夏を乗り越えた雑草は背が高く野太いが、
この先、もっと山深い場所に入るのだ。
調べて服装もそれなりに整えてきた。
その後のことを考えれば服などどうでもいいが、たどり着く前に酷い虫刺されや熱中症で倒れたら意味がない。
『進学でも就職でも、家から通えるところしか許さん』
その背後に立ち、自分を見る母の
母は、瑞葉に出ていってほしいのだろう。
だが、いなくなられては夫の暴力を伴う支配の
相反した
そんな
しかしよくよく考えてみれば、瑞葉には目標も目的もない。
ただ家を出たいだけで、学びたいこともなければ働きたい場所もない。
それに行きついた時に自分の中に見えてきたのは、たった一つの『願い』だった。
この地で――裏山の不思議な
—―あの場所に帰りたい。
—―あの美しい生き物に、もう一度会いたい。
『
祖父母共に涙ながらに強い口調でそう言い聞かせられた時、幼い瑞葉は怯えて泣いた。
そんなことは迷信だと、その年の秋の終わりに内緒で実家を訪ねた父は急死。
健康そのものだったのに、心不全だった。
その時に、母にとって瑞葉は得体の知れない異物になったのだと思う。
その三年後に母は再婚。
それはかまわない。
すぐに弟が生まれ、母の溺愛対象となり、瑞葉はほぼ放置されたことも、かまわない。
父が亡くなった理由は、自分にあるのだから――多分。
だが、継父にすべて従えというのは無理だ。
母はあの男を愛したかもしれないが、瑞葉にとっては他人である。
継父は常に
それを正直に伝えると、母は
「全部お前のせいなのに」とその目は語っていた。
高校卒業時には家を出るつもりだったが、継父は瑞葉を支配したがった。
変えようのない継父の気性を前に、すべて無視して家を出ようと思ったが、未来に対して瑞葉は
そんな自分の中に、一つだけある望み。
気づいたら、もうそのことしか考えられなかった。
—――もう一度会いたい—――。
亡き父の実家の所在地を確かめる—―まず、そこからだった。
隣県だったような気もするし、県内だった気もする。
最後に訪ねた時、瑞葉は
父の運転する車で連れて行かれるだけだったから、
母に聞くことは、ためらわれた。
幼いころの写真は、母がすべて処分している。
瑞葉は似た景色を求め、暇があるとスマホで検索をした。
教室でも専念していたら、クラスメイトで、父方のはとこでもある
「最近ずっとスマホ見てるけど、おもしろいゲームでも見つけた?」
誰とも仲が悪くはないが、特に親しい者のいない瑞葉だが、
はとこではあったが、父亡き後は
瑞葉が正直に、亡き父の生家を探していると話すと、渉はそれならば親に聞いてみると申し出てくれた。
そのまま夏休みに入ってしまったが、バスケ部の渉は引退前のインターハイに集中している時期。
SNSに渉から個人チャットが来たのは、お盆を二日後に控えた、夏休み
だいぶ遅くなったけど、と前置きして、父の生家のあった場所を教えてくれた。
渉の両親も覚えておらず、
自分のルーツを探る学校の課題だとでっち上げ、
『インターハイもあったから、遅くなってごめんな』の一言に、彼の人柄が読み取れて、瑞葉は心から感謝した。
亡き父の実家のあった地は、隣県の山深い場所だった。
メッセージにある地名を見た瞬間、瑞葉の
やはり、行くべきだ。
もう、決められたことだったのだ。
OKと返したが、内心気まずかった。
それは守れない約束になるだろうという予感で、苦い思いがわだかまった。
それでも立ち止まれず、次の日には支度を整え、翌々日に家を出た。
お
手を合わせる
母は、亡き夫の記憶ごと、その間に授かった自分のことも心から消し去ったのだと思う。
そうしないと生きられない、弱い人なのだと許すしかなく、だから家を出ることもためらわなかった。
※※※
雑草をかき分け、額から
そら豆のような形に置かれた石には、
池の縁の石だ。
ならば、ここは広い
ニワトリもいて犬もいて、それらを追いかけて遊んだ。
そんな瑞葉の姿を
あの日はどこにいったのだろう。
瑞葉が遠い日を求めるように目を上げると、山から風が降りてきた。
濃い緑の枝葉がいっせいに揺れ、
日差しに
迷うことはない、知っている。
人が造った建物が消え、人そのものが消えても、
やがて、人ひとりがくぐれる
決して入ってはいけない、ここから先は家の神様の住まいだからと祖父母によくよく言われていたのに、幼い瑞葉はこの鳥居をくぐった。
お化けを
今また、瑞葉はその鳥居をくぐって山に踏み入る。
昔は丸太で造られていた階段も、雑草と
以前、鳥居の意味を調べたところ、『
しかしこの地の鳥居が
鳥そのものを閉じ込めるための目印。
日本古来より
個人宅で祀るそうした存在は、
遠い昔、瑞葉の先祖はこの土地一帯を仕切る
一家の
遠く海の向こうから風に乗り、流れ流れてこの島国にたどり着いたそれは、当初は群れだった。
異国でも山に
それらは
病、怪我を
先祖が『
ただ、彼らはつがいを持たねば成人後ほどなく死んでしまう。
長い年月の中で繁殖は先細りになり、数は減少していった。
彼らがつがいとして求めるのは同族でなくてもかまわず、人間でも気に入れ
彼らを確保するために、先祖は一族の者を差し出し始めた。
名目上は
しかし、それを継続しようとする派と、取りやめようとする派で意見が割れ、家系は分裂していった。
一族の守り神が数を失っていくのに比例して、祀る人間の側も
それらは、全て美しい異形の鳥が語った、祖父母に至るまでの歴史だった。
—――私は最後の一羽—―—……
その一羽が消えるのを、祖父母は見届けるためにこの地に
本家最後の役目だと覚悟を決めて。
その一羽に、瑞葉は会ってしまった。
彼らは、自分たちが気に入った者の前にしか姿を見せないという。
瑞葉は最後の一羽に、見初められ、そして—―
「さすがに…方向感覚なくなるな……」
山の日暮れは早く、みるみる日差しは弱まる。
汗ばんだ
湿った土と植物の匂いに少し酔って、近くの木に瑞葉は立ち止まってもたれた。
もうすでに、ひとり
ならば自分もここで眠るしかない。
心決めた以上、家には戻らないと瑞葉は
瞬間、頭上の枝が揺さぶられる音が降ってくる。
もしやと期待して顔を上げると、
しまった、と思った時には目がしっかり合っていた。
歯をむき出し
大失敗だ。
猿たちは
急いで木々の間に逃げ込むが、足場が悪い。
野生動物相手には、分が悪すぎる。
『エテ公らは
山の動物について語る、祖父の言葉が
祖母も隣でうんうんと頷いていたから、過去にあった実話なのだろう。
いずれにせよ、どんな野生動物にも瑞葉が
背中に飛び
帽子をはぎ取られ、
獣臭さと
猿たちは瑞葉のリュックに飛びつき、引きずり降ろそうとしてきた。
入れていた軽食の匂いを
瑞葉は急ぎリュックを捨て、まとわりつく猿を手で
ギーッとひときわ大きい声を上げ、肩に
恐ろしさに声にならない悲鳴を上げた時、大きな影が降りてきた。
バサリ、と羽音が空気を震わせる。
猿たちが、
木から木へと枝を伝い移動していた猿も、
瑞葉以外のすべての時間が、止まっていた。
薄暗かったが確かに
呆然とする瑞葉の背後から、細い腕が腰に回された。
バサリ、とまた羽音が続く。
どんどん景色が下になっていき、瑞葉は
—―—やっと…その時が来たのだとわかった。
再び強い耳鳴りがして、意識がはっきりした。
いつの間にやら、
世界には色彩が戻っていた。
瑞葉は首を
山中に不意に現れた、開けた地。
木々に囲まれた、神社の
その
あの日のままだった。
「なぜ戻って来たの?」
上から降ってきた声の方に、
「どこにいるの?」
瑞葉の声に応え、それはまだ緑の
日本人とは異なる、
その背には青い鳥の羽根—――幼い頃に瑞葉が出会った時のままの姿で、それは居た。
「私が…わかる?」
震える声で尋ねる。
「ミズハ」
歌うような声音に胸が
覚えていてくれたことが嬉しくて、同時に自分だけ変わってしまったことが悲しくて、泣きそうになった。
「そうよ…オルドゥーズ」
それは
「あなたは変わらないのね」
「変われないのよ」
答えてオルドゥーズは、瑞葉の手を取った。
たじろぐ瑞葉に、
オルドゥーズは、猿に噛まれた瑞葉の手に唇を寄せた。
柔らかな舌が傷口をなぞる。
痛くはないが、甘やかな
身を
オルドゥーズが身を
「……ありがとう」
「さっさと帰りなさい」
思いがけないオルドゥーズの言葉に、瑞葉は
「どうして?あなたに会いに来たのに」
オルドゥーズは顔を
「ここにいても、何にもならない」
見て、とオルドゥーズは
瑞葉は目を
そこにはオルドゥーズたち一族の他、神社に仕える
全員が淡い
「幼いミズハには理解できないから、話さなかったことよ」
オルドゥーズは語り始めた。
「私は最後の生き残りとして、一族すべての記憶を受け
私たちは成人するとつがいを得て、卵を産む。死ぬ時は炎が体の内から上がって、つがいと共に
つがいは
性別が無関係ということは、人間の生殖とは仕組みが違うのだろう。
「私たちは、強い風に巻き込まれてこの島国に流れ着いた。どこであろうと、私たちは山であれば暮らせる。人間の都合や取り決めは、私たちには関係ない。
どんどん減っていく群れに、ミズハの先祖側は親族から
意に
瑞葉の腹に、その言葉は深く落ちていった。
「……あなたたちのもとへ、身内を送り出す家族の方が、嫌がったのね……」
オルドゥーズは、色とりどりの石を連ねた首飾りを手で
本人が望んだとしても、親兄弟としては、異国の妖と身内が
大切な家族であれば。
「私は最後の一羽。とても強い力を持って生まれた。けれど、卵を生む能力がない」
言ってオルドゥーズは、遠くへ目を泳がせた。
「
瑞葉はいったん唇を引き結び、オルドゥーズの正面に回った。
ずっと聞きたくて聞けなかったこと。
「…お父さんが死んだのは、あなたのせいじゃない…のね?」
「
信じるかどうかはわからないけれど、とオルドゥーズは
「ミズハの
あなたの父親が、この地で死ぬ未来は
瑞葉は顔を両手で
祖父母は
だが、逆だった。
オルドゥーズは、
「私が来ることも、
「
オルドゥーズはすねたように顔を背けた。
「あれをごらんなさい。どの魂も、この地から離れられない。あなたたちは、死んだら神の守る
それらを信じない私たちは、
ここは過去に向かっている。未来に向かって年を重ねるというのは、
瑞葉は先祖たちの、日々の残像を
リピートする動画のような彼らだが、その顔に
黄泉の国に行けなくても、輪廻の輪から外れても、彼らは尽きることなく
「利口な選択が、幸福ってわけじゃないわ」
言って瑞葉は、オルドゥーズにしがみついた。
「私は
「人としての未来を捨てるというの?」
「そうよ」
「魂になっても解放されることがないのよ」
「かまわないわ」
ほんとうに?と、
強く頷いて、瑞葉はオルドゥーズを見つめた。
幼い夏の日、
星がきらめく夜空のように美しいこの瞳と出会った時、もう運命は決まっていたのだ。
「ならば」
オルドゥーズの唇が、
背中の青い羽根が、瑞葉を抱き込もうとするかのように大きく広げられる。
周囲の木々が、風もないのに枝葉を揺らしてざわめいた。
まるで
「いらっしゃい」
瑞葉の頬を、細く冷たい指がなぞる。
「この命、尽きても共に…」
甘い
甘美な香りを放つしなやかな身体を抱きしめながら、瑞葉は
きっと今、美しい鳥の
人の世から
しかし、それこそが瑞葉の
※※※
「もう紅葉が始まっているところがあるわ。
隣を歩く妻の指さす方を見ると、
「早いなぁ」
50歳を過ぎ、二人の子供たちは共に進学で家を出た。
結婚し、子どもを授かって以来の夫婦の生活は、週末の山歩きという趣味で充実していた。
大学でアウトドアサークルに所属していた妻が、主に行き先を決める。
今日
コース
同意したものの、渉の中にはほんの少しだけ、ためらいがあった。
そこは、30年以上前に高校の同級生が
遠い親戚にあたるその少女—―瑞葉は、家族にさえ何も告げず、夏の終わりに姿を消した。
彼女が最後に乗車したバス運転手の
自分も関りがあったため、さんざん警察に話を聞かれたことには
瑞葉の両親は、そろって面倒だと言わんばかりの態度を隠そうともしない。
警察、学校関係者、マスコミに対しても平気で見せる娘への
いつもどこか遠くを見ているような、群れに交わらない雰囲気を持っていた瑞葉。
嫌われているわけではなかったが、
綺麗な少女だったから目をつける男子も多くいたが、誰も近づけなかった。
そういう自分も、瑞葉に
いつも思い切って声をかけていた彼女から、頼まれごとを引き受けた時は嬉しくて張り切った。
それが、失踪という結果になるとは思いもよらずに—―。
「
彼女が失踪した翌年の正月、親戚宅へ挨拶に行った時。
集まった親族の賑やかな席に疲れ、ひとり縁側で日向ぼっこをしていたその家の
だいぶ耳が遠いから問題ないかと、渉は心にわだかまっていたものを独り言のように吐き出して聞かせた。
遠い親戚の少女が、先祖の山で失踪したことを。
それに対しての言葉が、それだった。
老女はそれきり何も言わなかったので、意味は今でもわからない。
「水のせせらぎが聞こえるね。あ、あれ!キノコがあるわ。ちょっと採ってくる」
アウトドアに親しんだ妻は、自然の恵みにも目が
「
「まあ、失礼しちゃう。大丈夫よ!」
止めるのも聞かず、ハイキングコースから外れて妻は木立の傾斜に
妻は、短い悲鳴と共に転がり落ちていった。
「言わんこっちゃない」
数日前に降った雨の影響で、土が
へっぴり腰で下って行くにつれてせせらぎが近くなり、視界が開け、倒れこんだ妻の姿が見えた。
木に捕まりながら近づこうとして、渉は立ち止まる。
妻の
妻の足に手を当てている。
まさか、と渉は息をのむ。
少女が顔を上げた。
30年以上の時を
瑞葉は
渉の
『約束、守れなかったから』
そして、目を開けた時には瑞葉の姿はなかった。
「お父さん、足を
のろのろと半身を起こした妻に、
「右の足首が…え、あら?痛くないわ」
妻はきょとんとした顔で足首をさすり、ゆっくり立ち上がった。
「骨にヒビまで入ったかなと思ったのに…大丈夫みたい」
ごめんなさい、と
瑞葉が消えたあの夏、情報収集の礼にファーストフードをご
瑞葉は、それを覚えていたのだ。
きっともう、人ではないのだろうが、不思議と恐怖はない。
「大事にならなくて良かった。戻ろう」
渉は妻の手を取り、もと来た道に引き返す。
自分は年を重ね、やがて、この世に別れを告げる。
それは貴重で、かけがえのない未来だ。
瑞葉は少女のまま、ここにあり続けるのだろう。
彼女にとってはそれがかけがえのない幸福なのだと、渉は今一度振り向いて、
久遠の鳥籠 花風花音 @rosalie0201
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