久遠の鳥籠

花風花音

久遠の鳥籠

「つがい無き身、遠からずちる。今さら何も望みはしない―――」


 記憶に深く根を張った、甘く歌うような女の声。

 それは、バスの振動しんどうにまどろんでいた瑞葉みずはの夢のまにまに響いた。

 目を開けて、急ぎ降車ボタンを押す。

 ゆるゆると山道を登ってきたバスは、きしみながら停車した。

 辺鄙へんぴな場所で降りる瑞葉を、運転手の怪訝けげんな目が追う。

 気づかぬふりで瑞葉は降車し、重たいエンジン音を引きずりながら空になったバスが去っていくのを見送って、改めて周囲を見回した。

 ここだ、間違いない。

 目にしみるような青空と、存在感のある白い雲は、標高ひょうこうの高さを物語る。

 周囲は鬱蒼うっそうとした木々に囲まれ、せみがやましい。

 古びたバス停の表札を確かめると、うっすらと『加茂かも宅前』と読み取れた。

 目印のない田舎では、個人宅前がバス停に利用されることもあると、教えてくれたのは祖母だった。

 かつて山を背に、年季の入った日本家屋と広い庭のあったそこは更地さらちになり、我が物顔で雑草が茂っている。

 置かれたバリケードフェンスと、黄色と黒のロープで立ち入りを禁じられたそこに、瑞葉はためらわずに入り込んだ。

 確認できる民家は、だいぶ離れた場所に二件しかない。

 夏を乗り越えた雑草は背が高く野太いが、瑞葉みずはは負けじとかき分けていく。

 この先、もっと山深い場所に入るのだ。

 調べて服装もそれなりに整えてきた。

 その後のことを考えれば服などどうでもいいが、たどり着く前に酷い虫刺されや熱中症で倒れたら意味がない。


 『進学でも就職でも、家から通えるところしか許さん』


 高圧的こうあつてきで不快な継父けいふの声が耳奥によみがえり、瑞葉は苛立いらだって足元をみしめた。

 その背後に立ち、自分を見る母のうとまし気な眼差まなざしまで思い出され、瑞葉は唇をかんだ。

 母は、瑞葉に出ていってほしいのだろう。

 だが、いなくなられては夫の暴力を伴う支配の矛先ほこさきが自分だけになる。

 相反した鬱屈うっくつは、瑞葉への冷遇れいぐうとなって吐き出される。

 そんな拷問ごうもんのような状態から抜け出せないのであれば、未来に意味はなかった。

 しかしよくよく考えてみれば、瑞葉には目標も目的もない。

 ただ家を出たいだけで、学びたいこともなければ働きたい場所もない。

 それに行きついた時に自分の中に見えてきたのは、たった一つの『願い』だった。

 この地で――裏山の不思議なやしろで、あの美しい生き物を見た夏の日。


 —―あの場所に帰りたい。

 —―あの美しい生き物に、もう一度会いたい。


御鳥おとりさまに会った以上、もう二度とここに来ちゃなんねぇ。御鳥さまはつがいを探しとる。見初みそめたら、手に入れるまであきらめねぇ。周りに良くねぇことを起こしてでも、おうとなさる』

 祖父母共に涙ながらに強い口調でそう言い聞かせられた時、幼い瑞葉は怯えて泣いた。

 そんなことは迷信だと、その年の秋の終わりに内緒で実家を訪ねた父は急死。

 健康そのものだったのに、心不全だった。

 その時に、母にとって瑞葉は得体の知れない異物になったのだと思う。

 その三年後に母は再婚。

 それはかまわない。

 すぐに弟が生まれ、母の溺愛対象となり、瑞葉はほぼ放置されたことも、かまわない。

 父が亡くなった理由は、自分にあるのだから――多分。

 だが、継父にすべて従えというのは無理だ。

 母はあの男を愛したかもしれないが、瑞葉にとっては他人である。

 継父は常に居丈高いたけだかで、じっくり信頼関係をきずくこともせず、時に暴力で意見を押し付ける傲慢ごうまんな男だ。

 軽蔑けいべつはできても、好意的に接するのはおろか、うやまううことはできない。

 それを正直に伝えると、母はうらめし気に瑞葉を見た。

「全部お前のせいなのに」とその目は語っていた。

 高校卒業時には家を出るつもりだったが、継父は瑞葉を支配したがった。

 変えようのない継父の気性を前に、すべて無視して家を出ようと思ったが、未来に対して瑞葉は空虚くうきょだった。

 そんな自分の中に、一つだけある望み。

 気づいたら、もうそのことしか考えられなかった。


 —――もう一度会いたい—――。


 亡き父の実家の所在地を確かめる—―まず、そこからだった。

 隣県だったような気もするし、県内だった気もする。

 最後に訪ねた時、瑞葉は就学前しゅうがくまえだった。

 父の運転する車で連れて行かれるだけだったから、道程みちのりはおろか、場所に関しても記憶が曖昧あいまいだ。

 母に聞くことは、ためらわれた。

 幼いころの写真は、母がすべて処分している。

 瑞葉は似た景色を求め、暇があるとスマホで検索をした。

 教室でも専念していたら、クラスメイトで、父方のはとこでもあるわたるに理由をたずねられた。

「最近ずっとスマホ見てるけど、おもしろいゲームでも見つけた?」

 誰とも仲が悪くはないが、特に親しい者のいない瑞葉だが、わたるは誰にでも人当たりが良い。

 はとこではあったが、父亡き後は親戚しんせきづきあいもなく疎遠そえんだったものの、偶然高校が一緒になったえんで、折々に声をかけてくれる存在だった。

 瑞葉が正直に、亡き父の生家を探していると話すと、渉はそれならば親に聞いてみると申し出てくれた。

 そのまま夏休みに入ってしまったが、バスケ部の渉は引退前のインターハイに集中している時期。

 真摯しんしに打ち込んでいるところに、こちらの事情で急かすのは申し訳なく、瑞葉は半ばあきらめて独自に調べ続けた。

 SNSに渉から個人チャットが来たのは、お盆を二日後に控えた、夏休み終盤しゅうばんだった。

 だいぶ遅くなったけど、と前置きして、父の生家のあった場所を教えてくれた。

 渉の両親も覚えておらず、親戚筋しんせきすじにさり気なく聞いても、答えをはぐらかされたり、年寄りに至ってはあからさまに嫌な顔をする者もいたという。

 自分のルーツを探る学校の課題だとでっち上げ、愛嬌あいきょう駆使くしして情報を集めてくれたらしい。

『インターハイもあったから、遅くなってごめんな』の一言に、彼の人柄が読み取れて、瑞葉は心から感謝した。

 亡き父の実家のあった地は、隣県の山深い場所だった。

 メッセージにある地名を見た瞬間、瑞葉の脳裏のうりに羽ばたく大きな青い翼がかすめた。


 やはり、行くべきだ。

 もう、決められたことだったのだ。


 わたるに心からの『ありがとう』を告げると、お礼はファストフード店でおごってくれればいいと返信がきた。

 OKと返したが、内心気まずかった。

 それは守れない約束になるだろうという予感で、苦い思いがわだかまった。

 それでも立ち止まれず、次の日には支度を整え、翌々日に家を出た。

 おぼんといっても、亡き父はいなかったようにあつかわれている。

 手を合わせる位牌いはいもなければ、墓参りもしない。

 母は、亡き夫の記憶ごと、その間に授かった自分のことも心から消し去ったのだと思う。

 そうしないと生きられない、弱い人なのだと許すしかなく、だから家を出ることもためらわなかった。

 何処どこに行くのかとも問われず、瑞葉はいつわりの巣を後にした。

※※※

 雑草をかき分け、額からしたたる汗をぬぐいながら進む足が、大きな丸い石を踏んだ。

 そら豆のような形に置かれた石には、見覚みおぼえがある。

 池の縁の石だ。

 ならば、ここは広い縁側えんがわの前の庭。

 綺麗きれいな色のこいが泳いでいた。

 ニワトリもいて犬もいて、それらを追いかけて遊んだ。

 そんな瑞葉の姿をながめ、祖父母も父母も、笑っていた。

 あの日はどこにいったのだろう。

 瑞葉が遠い日を求めるように目を上げると、山から風が降りてきた。

 濃い緑の枝葉がいっせいに揺れ、さそうようにざわめく。

 日差しにあぶられた獰猛どうもうなほど濃い緑の匂いに呼ばれるように、瑞葉は足を進めた。

 迷うことはない、知っている。

 人が造った建物が消え、人そのものが消えても、身体からだが、心が覚えている。

 やがて、人ひとりがくぐれる程度ていどの小さな鳥居とりいが見えた。

 ちかけて、少しななめに身をかたむけた鳥居は、朱にられていない。

 決して入ってはいけない、ここから先は家の神様の住まいだからと祖父母によくよく言われていたのに、幼い瑞葉はこの鳥居をくぐった。

 お化けをこわがるような、特に聞き分けの悪い子どもでもなかったのに、呼ばれるように入ってしまった。

 今また、瑞葉はその鳥居をくぐって山に踏み入る。

 昔は丸太で造られていた階段も、雑草とこけにまみれて今は見る影もない。

 以前、鳥居の意味を調べたところ、『とりの止まり木』であるとする説が強いとあった。

 天照大神あまてらすおおみかみが閉じこもった天岩戸あまのいわとから誘い出すために鳴かせた、『常世とこよ長鳴鳥ながなきどり』にちなんでいると。

 しかしこの地の鳥居が俗世ぞくせへだてるのは、神の斎庭ゆにわではない。

 鳥そのものを閉じ込めるための目印。

 日本古来よりまつられる八百万やおよろずの神と違い、その先に祀られていたのは、『御鳥おとりさま』と呼ばれたモノ。

 個人宅で祀るそうした存在は、屋敷神やしきがみと呼ばれるのだということも調べた。


 遠い昔、瑞葉の先祖はこの土地一帯を仕切る名主なぬしだったという。

 一家の繁栄はんえいが長く続いたのは、『御鳥さま』が後ろだてにいたからだ。

 遠く海の向こうから風に乗り、流れ流れてこの島国にたどり着いたそれは、当初は群れだった。

 異国でも山にんでいたという異形の彼らを、先祖は山ひとつ棲家すみかとして与え、庇護ひごした。

 それらは特殊とくしゅな能力を持っており、言語も即時そくじ理解して使いこなし、また心のみでの意思疎通いしそつうもできる。

 病、怪我をいやし、未来も視とおす。

 先祖が『神通力じんつうりき』と呼んだその力を用いて、彼らは礼として先祖たちを守り立てた。

 ただ、彼らはつがいを持たねば成人後ほどなく死んでしまう。

 長い年月の中で繁殖は先細りになり、数は減少していった。

 彼らがつがいとして求めるのは同族でなくてもかまわず、人間でも気に入れげる。

 彼らを確保するために、先祖は一族の者を差し出し始めた。

 名目上はかんなぎ巫女みこであっても、人身御供ひとみごくうと違いはない。

 しかし、それを継続しようとする派と、取りやめようとする派で意見が割れ、家系は分裂していった。

 一族の守り神が数を失っていくのに比例して、祀る人間の側も衰退すいたいしていったのだ。

 それらは、全て美しい異形の鳥が語った、祖父母に至るまでの歴史だった。 


 —――私は最後の一羽—―—……


 その一羽が消えるのを、祖父母は見届けるためにこの地にとどまったのだろう。

 本家最後の役目だと覚悟を決めて。

 その一羽に、瑞葉は会ってしまった。

 彼らは、自分たちが気に入った者の前にしか姿を見せないという。

 瑞葉は最後の一羽に、見初められ、そして—―魅入みいられたのだった。


「さすがに…方向感覚なくなるな……」

 鬱蒼うっそうと草木の生いしげ斜面しゃめんを、瑞葉は無心むしんで登った。

 山の日暮れは早く、みるみる日差しは弱まる。

 汗ばんだ身体からだが、衣服に張り付いて気持ちが悪い。

 湿った土と植物の匂いに少し酔って、近くの木に瑞葉は立ち止まってもたれた。

 おとずれればすぐに会えると思っていたのに、なかなかたどり着けない。

 もうすでに、ひとりはかなく消えてしまったのだろうか。

 ならば自分もここで眠るしかない。

 心決めた以上、家には戻らないと瑞葉はまなじりに力を込めた。

 瞬間、頭上の枝が揺さぶられる音が降ってくる。

 もしやと期待して顔を上げると、さるの群れがいた。

 しまった、と思った時には目がしっかり合っていた。

 歯をむき出し威嚇いかくする猿たちに、驚いた瑞葉は、思わず声を上げてしまう。

 大失敗だ。

 猿たちは耳障みみざわりな声を上げながら、瑞葉に向かってきた。

 急いで木々の間に逃げ込むが、足場が悪い。

 野生動物相手には、分が悪すぎる。

『エテ公らは凶暴きょうぼうでな。しかも何でも食う。可愛いなんてのは、動物園のおりん中だけの話だ。昔は子どもがとんでもねぇ目にあわされて、亡くなったこともあるもんよ』

 山の動物について語る、祖父の言葉が脳裏のうりをよぎる。

 祖母も隣でうんうんと頷いていたから、過去にあった実話なのだろう。

 いずれにせよ、どんな野生動物にも瑞葉がかなうはずはない。

 背中に飛びかられた衝撃しょうげきで、瑞葉は前にのめった。

 帽子をはぎ取られ、まとがみを引っ張られて首筋が恐怖でざわつく。

 獣臭さとえた口臭に、鼻が曲がりそうだ。

 猿たちは瑞葉のリュックに飛びつき、引きずり降ろそうとしてきた。

 入れていた軽食の匂いをぎつけたのだろう。

 瑞葉は急ぎリュックを捨て、まとわりつく猿を手ではらった。

 ギーッとひときわ大きい声を上げ、肩にみつかれた。

 いで、手を噛まれて激痛が走る。

 恐ろしさに声にならない悲鳴を上げた時、大きな影が降りてきた。

 バサリ、と羽音が空気を震わせる。

 刹那せつな、長い耳鳴りが意識を震わせた。

 猿たちが、一斉いっせいに動きを止める—―否、時間が停止していた。

 木から木へと枝を伝い移動していた猿も、おそかろうと跳躍ちょうやくしていた猿も、一時停止した映像のようにそのままの状態で固まっている。

 瑞葉以外のすべての時間が、止まっていた。

 薄暗かったが確かにいろどりりあった景色は、古びて黄ばんだ写真のように色がかすんでいる。

 呆然とする瑞葉の背後から、細い腕が腰に回された。

 バサリ、とまた羽音が続く。

 どんどん景色が下になっていき、瑞葉は眩暈めまいと共に一瞬意識を手放した。


 —―—やっと…その時が来たのだとわかった。


 再び強い耳鳴りがして、意識がはっきりした。

 いつの間にやら、異様いように大きく育ったかえでの下にへたり込んでいた。

 世界には色彩が戻っていた。

 薄墨うすずみひたっていくように暗くなる山中には、そこここに大きな燐光りんこうを放つ球体が浮いて、辺りを照らしていた。

 瑞葉は首をめぐらせて景色を見回す。

 山中に不意に現れた、開けた地。

 木々に囲まれた、神社の社殿しゃでんした建物。

 そのわきを流れる、耳に心地よいせせらぎを奏でる小川。

 あの日のままだった。

「なぜ戻って来たの?」

 上から降ってきた声の方に、はじかれるように顔を向ける。

「どこにいるの?」

 瑞葉の声に応え、それはまだ緑のかえでの葉を散らしながら舞い降りた。

 日本人とは異なる、りの深い美貌びぼう

 くせのないけるプラチナブロンドに、しなやかな肢体にまとう異国の衣装。

 その背には青い鳥の羽根—――幼い頃に瑞葉が出会った時のままの姿で、それは居た。

「私が…わかる?」

 震える声で尋ねる。

「ミズハ」

 歌うような声音に胸がしびれた。

 覚えていてくれたことが嬉しくて、同時に自分だけ変わってしまったことが悲しくて、泣きそうになった。

「そうよ…オルドゥーズ」

 それは故郷こきょうの言葉で『星』を意味するのだと、彼女は語った。

「あなたは変わらないのね」

「変われないのよ」

 答えてオルドゥーズは、瑞葉の手を取った。

 たじろぐ瑞葉に、紺碧こんぺき双眸そうぼうがじっとしていろとくぎす。

 オルドゥーズは、猿に噛まれた瑞葉の手に唇を寄せた。

 柔らかな舌が傷口をなぞる。

 痛くはないが、甘やかなうずきがそこから瑞葉の全身を巡った。

 身を強張こわばらせる瑞葉の上着をずらし、オルドゥーズは肩の傷にも舌をすべらせた。

 れた葡萄ぶどうのような甘い香りが鼻腔びこうに入り込み、瑞葉は眩暈めまいおぼえる。

 オルドゥーズが身をはなすと、傷も痛みも消えていた。

「……ありがとう」

「さっさと帰りなさい」

 思いがけないオルドゥーズの言葉に、瑞葉はたれたように顔を上げた。

「どうして?あなたに会いに来たのに」

 オルドゥーズは顔をそむけ、ややいらただしげに短い息を吐いた。

「ここにいても、何にもならない」

 見て、とオルドゥーズは屋敷やしきの方を指さした。

 瑞葉は目をみはる。

 そこにはオルドゥーズたち一族の他、神社に仕える装束しょうぞくの人間の姿もあり、その誰もが仲睦なかむつまじいやり取りをしている。

 全員が淡い燐光りんこうを放つ半透明の姿で、彼らが先程さきほど辺りを照らしていた球体の正体だったのだと瑞葉は知った。

「幼いミズハには理解できないから、話さなかったことよ」

 オルドゥーズは語り始めた。

「私は最後の生き残りとして、一族すべての記憶を受けいでいる。シームルグと呼ばれていた私たちは、長い寿命を持ち知恵も高く、力もあり、どの生き物に対しても友好的だったから、故郷こきょうでもあがめられていたわ。

 私たちは成人するとつがいを得て、卵を産む。死ぬ時は炎が体の内から上がって、つがいと共にはいになる。

 つがいは繁殖はんしょくのためにも必要だけれど、力の安定に不可欠なの。私たちはつがいと認めたら、生涯しょうがい相手を変えない。性別も関係ない。愛し合ったら卵は必ずできるから」

 性別が無関係ということは、人間の生殖とは仕組みが違うのだろう。

「私たちは、強い風に巻き込まれてこの島国に流れ着いた。どこであろうと、私たちは山であれば暮らせる。人間の都合や取り決めは、私たちには関係ない。

 どんどん減っていく群れに、ミズハの先祖側は親族から生贄いけにえを差し出したって思っていたけれど、内情ないじょうは違う。

 意に沿わない相手を差し出されたところで、私たちはつがいとは認めない。あそこに魂が留まっている人間たちは皆、自分の意思で来たのよ。私たちの仲間に見初みそめられて、自分も愛したから」

 瑞葉の腹に、その言葉は深く落ちていった。

 うたが余地よちはなかった。

「……あなたたちのもとへ、身内を送り出す家族の方が、嫌がったのね……」

 オルドゥーズは、色とりどりの石を連ねた首飾りを手でもてあそびながらうなずいた。

 本人が望んだとしても、親兄弟としては、異国の妖と身内が婚姻こんいんを結ぶことには抵抗があっただろう。

 大切な家族であれば。

「私は最後の一羽。とても強い力を持って生まれた。けれど、卵を生む能力がない」

 言ってオルドゥーズは、遠くへ目を泳がせた。

繁殖能力はんしょくのうりょくを持たない私は、つがいを得ても意味がない。一族としての、種の限界なのでしょう。だから、あなたを逃がした。追うこともしなかった」

 瑞葉はいったん唇を引き結び、オルドゥーズの正面に回った。

 ずっと聞きたくて聞けなかったこと。

「…お父さんが死んだのは、あなたのせいじゃない…のね?」

命数めいすうよ」

 信じるかどうかはわからないけれど、とオルドゥーズはげんぐ。

「ミズハのじいばあも、孫を連れて行かないでくれと私に懇願こんがんしたわ。だから、あの子を家族共々、二度とこの地にむかえてはいけないと、強く釘を刺した。

 あなたの父親が、この地で死ぬ未来はえていたから」 

 瑞葉は顔を両手でおおった。

 祖父母は見初みそめた瑞葉を手に入れるため、御鳥おとりさまは家族に不幸をもたらすと言っていた。

 だが、逆だった。

 オルドゥーズは、けられない未来を、引き延ばそうとしてくれたのだ。

「私が来ることも、えていたでしょう?」

おろかだわ」

 オルドゥーズはすねたように顔を背けた。

「あれをごらんなさい。どの魂も、この地から離れられない。あなたたちは、死んだら神の守る黄泉よみの国や、仏の示す輪廻りんねの輪とやらに戻るのでしょう?

 それらを信じない私たちは、延々えんえんとこの地にとどまる。そして、日々記憶をなぞる。

 ここは過去に向かっている。未来に向かって年を重ねるというのは、得難えがたいことよ。当り前じゃないわ。それをなげうつのは、おろか者のすることよ」

 瑞葉は先祖たちの、日々の残像を見遣みやる。

 リピートする動画のような彼らだが、その顔に悲哀ひあいはない。

 黄泉の国に行けなくても、輪廻の輪から外れても、彼らは尽きることなく嬉々ききとして過去に向かっていくのだろう。

「利口な選択が、幸福ってわけじゃないわ」

 言って瑞葉は、オルドゥーズにしがみついた。

「私は貴女あなたに会うためにここに来た。それ以外、望む未来が私にはないの」

「人としての未来を捨てるというの?」

「そうよ」

「魂になっても解放されることがないのよ」

「かまわないわ」

 ほんとうに?と、おびえる幼女のように問い返すオルドゥーズの声が耳をくすぐる。

 強く頷いて、瑞葉はオルドゥーズを見つめた。

 幼い夏の日、魅入みいられた紺碧こんぺきの瞳。

 星がきらめく夜空のように美しいこの瞳と出会った時、もう運命は決まっていたのだ。

「ならば」

 オルドゥーズの唇が、妖艶ようえんな笑みをえがいた。

 背中の青い羽根が、瑞葉を抱き込もうとするかのように大きく広げられる。

 周囲の木々が、風もないのに枝葉を揺らしてざわめいた。

 まるでよろこびを歌っているように。

「いらっしゃい」

 瑞葉の頬を、細く冷たい指がなぞる。

「この命、尽きても共に…」

 やわらかな、けれど冷たい唇が瑞葉のそれに重なる。

 甘い陶酔とうすいに身をおどらせ、瑞葉は人の世に別れを告げた。

 甘美な香りを放つしなやかな身体を抱きしめながら、瑞葉はひそやかなオルドゥーズの笑い声を聞いた。

 きっと今、美しい鳥のあやかしは、くらく満ち足りた笑みを浮かべている。

 人の世からへだてられたこの山で、オルドゥーズのすべてを受け入れ、同化しじり合い、やがて自分も人ならぬものになっていく。

 辿たどり着いたそこは、オルドゥーズの思惑おもわくみちびかれた先に用意された鳥籠とりかごなのだろう。

 しかし、それこそが瑞葉の本望ほんもうなのだった。

※※※

「もう紅葉が始まっているところがあるわ。綺麗きれいねぇ、お父さん」

 隣を歩く妻の指さす方を見ると、かえでくれないが緑のまにまに見えた。

「早いなぁ」

 わたるはより良く見ようと、足を止める。

 50歳を過ぎ、二人の子供たちは共に進学で家を出た。

 結婚し、子どもを授かって以来の夫婦の生活は、週末の山歩きという趣味で充実していた。

 大学でアウトドアサークルに所属していた妻が、主に行き先を決める。

 今日おとずれたハイキングコースは、開通して間もない。

 コース沿いに道の駅も新設されたというテレビ放送を見て、妻が行きたがった。

 同意したものの、渉の中にはほんの少しだけ、ためらいがあった。

 そこは、30年以上前に高校の同級生が失踪しっそうした山。

 遠い親戚にあたるその少女—―瑞葉は、家族にさえ何も告げず、夏の終わりに姿を消した。

 彼女が最後に乗車したバス運転手の証言しょうげんから、瑞葉は亡き父の実家跡を訪ねたことまではわかった。

 自分も関りがあったため、さんざん警察に話を聞かれたことには辟易へきえきしたが、それ以上に事件と共に見えてきた瑞葉を取り巻く環境のいびつさが渉にはショックだった。

 瑞葉の両親は、そろって面倒だと言わんばかりの態度を隠そうともしない。

 警察、学校関係者、マスコミに対しても平気で見せる娘へのじょうを感じさせない対応に、渉は瑞葉の孤独を見た。

 いつもどこか遠くを見ているような、群れに交わらない雰囲気を持っていた瑞葉。

 嫌われているわけではなかったが、遠巻とおまきにされていた。

 綺麗な少女だったから目をつける男子も多くいたが、誰も近づけなかった。

 そういう自分も、瑞葉に心惹こころひかれていた。

 いつも思い切って声をかけていた彼女から、頼まれごとを引き受けた時は嬉しくて張り切った。

 それが、失踪という結果になるとは思いもよらずに—―。


魅入みいられちまったんだろうなぁ、御鳥おとりさまに」


 彼女が失踪した翌年の正月、親戚宅へ挨拶に行った時。

 集まった親族の賑やかな席に疲れ、ひとり縁側で日向ぼっこをしていたその家の曾祖母そうそぼに声をかけた。

 だいぶ耳が遠いから問題ないかと、渉は心にわだかまっていたものを独り言のように吐き出して聞かせた。

 遠い親戚の少女が、先祖の山で失踪したことを。

 それに対しての言葉が、それだった。

 老女はそれきり何も言わなかったので、意味は今でもわからない。

「水のせせらぎが聞こえるね。あ、あれ!キノコがあるわ。ちょっと採ってくる」

 アウトドアに親しんだ妻は、自然の恵みにも目がく。

傾斜けいしゃになってるから、やめておけよ。若い時とはちがうんだから」

「まあ、失礼しちゃう。大丈夫よ!」

 止めるのも聞かず、ハイキングコースから外れて妻は木立の傾斜にみ入った。

 意気揚々いきようようとした背中は、しかし少し行った先でずるりとすべって草と木々の隙間すきまに消えていく。

 妻は、短い悲鳴と共に転がり落ちていった。

「言わんこっちゃない」

 わたるも急ぎ、足元に気を付けつつ後を追う。

 数日前に降った雨の影響で、土がやわらかくぬめりをびて、足場が悪い。

 へっぴり腰で下って行くにつれてせせらぎが近くなり、視界が開け、倒れこんだ妻の姿が見えた。

 木に捕まりながら近づこうとして、渉は立ち止まる。

 妻のかたわらに、巫女装束の少女がいた。

 妻の足に手を当てている。

 まさか、と渉は息をのむ。

 少女が顔を上げた。

 30年以上の時をてなお変わらない、瑞葉がそこにいた。

 瑞葉はかすかに微笑ほほえんだ。

 渉の脳裏のうりに、声なき声が響く。

『約束、守れなかったから』

 瞬間しゅんかん、大きな鳥の羽ばたきが影と共に頭上から降ってきて、渉はおどろいて目をつぶった。

 まぶたの裏に、あざやかな青の残像がよぎった。

 そして、目を開けた時には瑞葉の姿はなかった。

「お父さん、足をくじいちゃったみたい。立てないの」

 のろのろと半身を起こした妻に、あわてて近寄る。

「右の足首が…え、あら?痛くないわ」

 妻はきょとんとした顔で足首をさすり、ゆっくり立ち上がった。

「骨にヒビまで入ったかなと思ったのに…大丈夫みたい」

 ごめんなさい、とどろで汚れた顔で消え入りそうに言う妻に、渉は苦笑くしょうした。

 瑞葉が消えたあの夏、情報収集の礼にファーストフードをご馳走ちそうしてもらう約束をしていた。

 瑞葉は、それを覚えていたのだ。

 きっともう、人ではないのだろうが、不思議と恐怖はない。

 御鳥おとりさまとやらに魅入みいられた果ての姿なのだろうと、なぜか得心とくしんが行った。

「大事にならなくて良かった。戻ろう」

 渉は妻の手を取り、もと来た道に引き返す。


 自分は年を重ね、やがて、この世に別れを告げる。

 それは貴重で、かけがえのない未来だ。

 瑞葉は少女のまま、ここにあり続けるのだろう。

 久遠くおん鳥籠とりかごに住まうように。

 彼女にとってはそれがかけがえのない幸福なのだと、渉は今一度振り向いて、なつかしい気配に別れを告げた。

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