出してくれ

ナイカナ・S・ガシャンナ

ある巻貝の話

 巻貝を耳に当てると波の音が聞こえるって話があるじゃないですか。貝の中からサァァ、サァァ、ザザーン、ザザーンって音が聞こえてくるんです。

 私、あれにちょっとしたトラウマがあるんです。

 え? 巻貝の中から多足類でも出てきたのかって? いえ、それくらいだったら可愛いものだったんですけどね。


 私は砂浜に行くと必ず巻貝を探すのが趣味でした。貝を耳に当てて波の音を聞くのが好きだったんです。だから、その日も私はいつもと同じように貝を探していました。


 見つけた貝は見慣れないものでした。私の掌よりも大きくて、色はせた灰色。確かに巻貝ではある筈なのに、どこか廃墟を思わせるような不思議な印象を持つ貝でした。それでいて、あちこちにヒビが入っているのに割れたり欠けたりしている箇所はありませんでした。


 とはいえ、貝は貝です。そう思って私は無警戒にそれを耳に当てました。

 聞こえてきたのは波の音ではありませんでした。


 最初はよく聞こえませんでした。周囲の波の音に簡単に掻き消されそうなほど小さい音でした。どうにか聞き取ろうと私はより強く貝を耳に当てました。



「……出して……出して……」



 そうして貝の中から聞こえてきたのは子供の声でした。男の子か女の子かまだ区別が付かない、声変わりの前のような声でした。そんな声が壊れた音声機器みたいに掠れた音で、繰り返し「出して」、「出して」と言っていたんです。



「出してくれ、出してくれ」、「お願いここから」、「私を出して」、「僕を助けて」、「ここから出してください」、「逃がして」、「あはははは。あははははははははは」、「暗い暗い暗い暗い」、「殺して」、「えーん、うぇーん」、「怖いよ」、「遊ぼう」、「出してよ、ねえ出してよ」、「おぎゃあ! おぎゃあ!」、「狭い狭い狭い狭い」、「死にたい」、「黙れ喋るな」、

「出して」、

「出して」、

「出して」、

「出して出して出して」、

「出して出して出して」、

「出して出して出して」、

「出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して出して」


 不気味に思う暇もなく、次から次へと貝の中から声がしました。男の人の声、女の人の声、老人の声、赤ん坊の声。色んな人の声が鼓膜の中に入ってきました。何人、何十人、ひょっとしたら百人以上いたかもしれません。とにかく沢山の声が貝の中から溢れ出してきたんです。

 怖くて、それ以上に混乱と困惑が強くて、私は頭の中が真っ白になっていました。貝を手放す事を忘れて声の奔流を耳にしていました。でも、次の一言が私の身体を動かしました。



「お前も……こっちに……来い……!」



 その言葉に凄まじい寒気を感じました。脊髄に氷柱つららが突き刺さったかのような悪寒でした。


 私は短い悲鳴を上げ、思わず手から貝を落としました。その直後、貝の中からヤドカリのようなものが現れ、砂浜を這いずってそそくさと波打ち際へと向かい、そのまま海の中へと消えていきました。


 そのヤドカリがどう見ても人間の指を束ねたものにしか見えなかったのは……きっと私の気のせいだったのでしょう。気のせいだったと思いたいです。



 その日以来、あの奇妙な巻貝を見る事はありませんでした。あれは一体何だったのか、怖くとも気になって探してみたんですけど、今日まで見つかる事はなかったです。


 あの時、貝を早く手放していなかったら私はどうなっていたのでしょう。あの「こっちに来い」という声は他の声とは何だか違う気がしました。力があるというか、明確に私に向かって言っていたというか。

 これは妄想ですけど、もしあの貝を手放していなかったら、私もあの貝の中に引きずり込まれて、声達の一員に加わっていたかもしれませんね。

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