第五章 見せかけの平穏に憩う霊魂
実験室に入る前に、俺は深呼吸を一つして、姿見に映る自分自身を眺めた。
群青色の上下の軍服、糊の利いたシャツ、黒いネクタイ。それらを身につけているやや長身の肉体はよく鍛えられているが、まだ少年らしい線の細さも残している。
黒い髪は短く刈り込まれていて、目つきは鋭い。腰には自動拳銃がさがっている。
どこからどう見てもごく一般的なアカイア軍の兵士だ。何の変哲もない、この世界にありふれているセメイオンの兵隊人形の一体。
それにしても、なぜキルケはあのような役目を俺に頼むのか。戦うこと以外、さして取柄もないこの俺に。
姿見で自分自身をよく見てこいと言ったのは、キルケだった。
彼女が言うには、これから俺が参加することになる術には、自我の在り方を根本から揺るがせる可能性があるらしい。鏡を見ることで自分自身の在り方を今一度確かめなさい、とのことだった。
何しろ、霊魂を分けることになるのだから。
これまで数々の戦いに参加し死線も幾度かくぐり抜けて来たが、そのたびに感じた身震いするような緊張感とはまた別種の戦慄を、俺は今更ながら覚えていた。
キルケは言った。決して俺の損になるようなことはないと。
だが、どこまでその言葉を信用できる?
未知の世界の未知の技術、魔法。機械文明の恩恵に浴し、それ以外を知らずに生きてきた俺にとって、「魔法」という言葉はそれ自体が紛れもない魔法であるかのように、暁闇のように暗い、正体不明な雰囲気を持つものだった。
また深く呼吸をし、意を決して、俺は実験室の中へ入った。
最初に聞こえたのはノイズ混じりの音声だった。それは小型魔石ラジオから流れていた。
「本戦争における未来は航空戦力にあるのでもなく、また怪物部隊にあるのでもありません。それらを複合させることが海の民撃滅の要諦なのです。先般の戦いにおけるアイネイアス将軍の空挺作戦は、所期の目的を達することは出来なかったとは言え、本戦争の新たな戦いの形を予言するものでありました。従って予想される最高戦略会議の方針としては……」
音声は突然途切れた。キルケがそのラジオのスイッチを切ったのだった。
「まったく、コメンテーターというものは視野が狭くて困るわ。彼らができるのは研究ではなく、紹介だけ。しかもスポンサーである党が望む形に限っての紹介よ。新たな戦いの形だなんて、私たちがここでこれからやろうとしていることに比べたら児戯にも等しいわ」
魔女の美しい顔立ちを視界の端に収めつつ、俺は彼女に言った。
「イプシロンは?」
キルケは部屋に二つあるベッドのうち、奥の方の一つを指し示した。
「ほら、そこに。もう寝ているわ。横になったらすぐに眠れるのはこの娘の特技の一つね。まるで赤ちゃんだわ。すぐにでも始められるわよ。あなたさえ良ければね」
俺は静かに頷いた。
「無論だ。始めよう」
拳銃を机に置くと、俺はベッドに横になった。
横を見ると、そこにはイプシロンが目を閉じて、豊かな胸をゆっくりと上下させている。銀糸のごとき流れるような髪。整った、いや整い過ぎていると言えるほどの美しい顔立ち。
これから俺は、俺の霊魂をイプシロンに分けることになる……
魔女は俺の顔に、航空機搭乗員が装着する酸素吸入器によく似たマスクを被せた。その感触はひんやりとしていながらどこか生々しい。
隣のイプシロンも俺と同じものを付けている。マスクから伸びる透明な管は、灰白色に輝く四角い機械に繋がっていた。
「それは、濾過器よ。全世界でもこの実験室にしかない、霊魂を濾過する機材。目玉が飛び出るくらい高かったわ……」
手慣れた手つきで一連の準備を終えると、彼女は厳かに言った。
「それでは、これより霊魂分与の術式を発動します」
続けて、キルケは呪文を口にし始めた。
古典語で、韻律を踏んでいるその呪文は、独特な抑揚も相まってなかなか理解できなかったが、辛うじてこう言っているのは聞こえた。
「……女神プシュケーよ、汝傾聴して我に答えたまえ
願わくは我が霊魂を守り給え
同胞の霊魂を守り給え
我ら汝を敬う者なればなり
汝の被造物たる霊魂を悦ばせたまえ
我らの霊魂は汝を仰ぎ望む……」
魔女の体から紫色の魔力の波動が放出され、それが俺と、イプシロンの二人を包み込む。
すると、俺の口から何かが流れ出し始めた。白く輝く、しかし時折虹色の煌めきを見せる、濃厚な気体のようなものだった。
これが、俺の霊魂か。想像よりも、それは遥かに美しかった。
霊魂は管を通って濾過機へと入り、次にイプシロンの方の管を通って、彼女の口の中へ流れ込んでいく。
俺は、目を見開いてそれを見ていた。恐怖がないわけではない。だが、それ以上に俺は、俺自身の霊魂の色彩の鮮やかさに見惚れていた。
イプシロンの霊魂は、どんな色をしているのだろうか。ふと、そんなことを思った。
次第に、俺の中から出てくる白い気体は少なくなっていった。それに伴って、俺の頭脳もぼんやりとしてきた。
これ以上霊魂を失い続けたらどうなるのだろうかと、うっすらとした不安感を覚えたその時、キルケが言った。
「はい、おしまい。マスクを外しても良いわよ」
剥ぎ取るようにして、俺はマスクを口から取り外した。ベッドから降りると、足が少しばかりふらついた。一方、イプシロンは、まだ眠っているようだった。
キルケは切れ長の目で俺を眺めつつ、口を開いた。
「ご苦労様。何か異常はないかしら? 気分が悪いとか、立ち眩みとかは……ふむ、その様子を見ていると、けっこう体にきているようね」
覚束ない足取りで、俺はキルケに近寄った。彼女は不思議そうな顔をしている。
突然、俺は両手を伸ばして、魔女の大きく膨らんだ胸部を掴み、白衣とスーツ越しに揉みしだきながら叫んだ。
「
最初、俺の行為に呆然としていたキルケも、同じくらい大きな声で叫んだ。
「う、うぎゃああっ! こ、この、へっ、変態!」
頬に鋭い痛みが走り、俺は無様に床へ倒れた。
キルケの顔は真っ赤になっていて、しきりに胸を撫で擦っている。頬を腫らした俺はぼんやりとそれを見ている。イプシロンはまだベッドで寝ていた。
床に倒れつつ、俺は埒もないことを考えた。おそらく後世の人間も、「霊魂戦争」の序幕が、実はこのようなものであったとは誰も思うまい。
物好きにもこの戦争の通史を描こうと考えた者が、魔女の胸を揉みながら大声で「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶような男を書かないといけなくなったら、きっと困惑するだろう。
このキルケの胸を揉むという行為が、歴史的な事実として後の世代の人々に語り継がれることになるかもしれない……
俺は少しばかりげんなりとした気持ちになった。そのことが分かっていれば、断ることはないにせよ、俺も多少は逡巡したかもしれない。
そんなとりとめのないことを考えつつ、次に頭に浮かんだのはただ一つ、女性の胸というものはとても触り心地が良いものなのだな、ということだけだった。
殴られて頬を腫らした俺に、キルケは溜息をつきながら言った。
「言ってなかったけど、これくらい大量の霊魂を他者に分けるのは、実はあなたが全世界で初めてなのよ。だからどんなことが起こるのか私も予想できなかった。まさか胸を鷲掴みにされるとは思ってなかったけど……」
その頃には落ち着きを取り戻していた俺は、素直に彼女に謝った。
「でかメロンごろごろ二つ!」
「はあっ!?」
キルケが驚愕した声を上げた。俺も叫び声を上げそうになった。
俺は単に「すまなかった」とだけ言いたかったのだ。考えていることを正確に言葉に言い表せない、これは一体どういうことなのか。
魔女はしばらく目を見開いて俺を見ていたが、やがて気を取り直したように、いくつかの質問を発し始めた。
「あなたは誰?」
「ぼくは誰でもないのでたぶん誰でもないとおもいます、です!」
「職業は?」
「鉄砲うってバンバンバン! 大砲をドカン! 操縦席で歯ぎしりギシギシです!」
「年齢は?」
「ぼくは生まれたての生みたて卵十八個。オムレツにすると美味しい」
口から出てくるのは自分でも信じがたいほどに支離滅裂な言葉ばかりだった。
魔女は沈黙し、頭に手をやって目を閉じ、しばらく考え込むようだった。
俺は彼女がまた口を開くのを待った。ふと、手にまだ彼女の胸の柔らかさが残っていることに気付いた。
「おっぱいぱい」
俺は泣きたくなった。だが、キルケはそれを意に介する様子もなく、学者らしい知的な光を眼に宿しつつ言葉を続けた。
「霊魂研究はまだ端緒についたばかりと言っても良いんだけど、これまでの研究で分かっているのは、どうやら霊魂は三つの要素から構成されているようなのよ。それは、『
「むむ、むずかしいです。ぼくもっと濃厚個人レッスン必要です」
キルケはげんなりとした顔をした。
「ああ、なんてこと……つまり、あなたの理性が減退したのよ。端的に言うと、アホ化したのね。瞬間的に。確認なんだけど、あなた、今は思考力に問題はない?」
俺は力強く頷いた。次に出てくる言葉がどうせろくでもないことは分かっていたから、それで彼女に分かってもらおうとしたのだった。
「ぼく、たくさん考えます。でも言えません。ぼくの口あっちこっちです」
「そう……どうやら理性はもとに戻ったけど、今度は発声機能に問題が生じたようね。『理性』は『言語』と密接に関わっているから……」
キルケはガックリと肩を落とした。
「安心して、時間が経てば元通りになるわ。でも今日はしばらく、そのままかも」
俺も彼女と同じく、気力が抜けるのを感じた。なんとも、イプシロンを救うためには俺がアホにならないといけないとは……それは一時的なこととは言え、それまで兵隊人形として生きてきた俺からしても、かなり辛いものだった。
それでも彼女は俺にきっぱりと言った。
「でも仕方ないわ。それ以外に方法がないんですもの。あなたが馬鹿になってもアホになっても、私のおっぱ……いえ、胸を揉まれても良いわ。とにかく時間がないの。明後日もよろしくね。今日はちょっと調整に失敗したからこんなことになっちゃったけど、次からは重大な問題が出ないようにするから」
彼女の言葉に俺は首を傾げた。
「悠久の時の流れいつまでもさらさら流れ行くのに時間ない? また明後日ぼくアホになるの大丈夫なのですか? 取り過ぎ食べ過ぎ胃腸薬?」
次第に俺は、自分のものでありながら自分のものではない言葉に慣れてきた。
キルケは煙草を口に咥えた。だんだんと分かってきたことだが、彼女は俺の小隊長と同じく、物事を考えたり説明したりする時には、とりあえず煙草に火をつけるようだった。
「質問は一度に一つに絞ってくれないかしら。学会でもこのマナーを守らない人たちばかりで辟易するのよね、おっさんとかじいさんとかばあさんとか……まあ、いいわ。まず一つ、時間がないというのは、さっさとΕ-2号の霊魂を安定させて設計された当初の能力を発揮できるようにしないと、Ε-2号だけじゃなくてスキュラも、いや私も、それにあなたの生命にも関わるということよ。つまり、死よ」
「死んじゃう? 死ってなに?」
またもや出てきた「死」という不穏な言葉に、思わず俺は訊き返そうとしたが、キルケは軽く手を振って打ち消した。
「それ以上は訊かないでちょうだい。とにかく、時間がないということだけは理解して欲しいわ。それから二つ目、取り過ぎにならないのかという懸念だけど、それについては問題ないわ。さっき言ったわね? 霊魂は三つの要素から構成されていると。理性の部分を分ければ理性が減退し、他の部分もそう。だから、一回目に理性の部分を抽出したなら、二回目は他の部分から取れば良いのよ」
「なるへそごま油オリーブオイル、ということは」
俺の舌下にほろ苦いものが走った。キルケは頷いた。
「次は気概の部分から霊魂を分けてもらうわ。それで三回目は欲望の部分。そうやってローテーションを組むことで回復を図るのよ。農業の輪作と同じね」
ここまで話をした時、それまでベッドで静かに眠っていたイプシロンが目を覚まし、むくりと起き上がった。キルケは嬉しそうに声をかけた。
「Ε-2号、お目覚めかしら。どう? 気分は? 何か、違和感を覚えたりしていない?」
しかし、イプシロンは問い掛けられているにもかかわらず、無言だった。いつも通りの無表情のまま、ただ実験室をぼんやりと見回している。
そして俺の姿を認めると、音もなくベッドから降りた。
彼女は何も言わないまま俺に静かに歩み寄って来て、そして突然、俺にひしと抱きついた。
俺は予期せぬ彼女の行動に思わず声を上げていた。
「わあ、イプシロンやわらかい、あったかい」
「ウーティス様……ウーティス様も、あたたかいです……」
イプシロンは力強く俺を抱きしめてくる。狼狽する俺にぴったりとくっついて離れない。おまけに顔まで摺り寄せてくる。
俺が愛おしくてたまらないと、自惚れでなければ、彼女はそう感じているかのようだった。
そんな俺たちを見て、キルケが興味深そうに言った。
「へぇ、情動と意志に乏しいΕ-2号が自分からウーティスに抱きつきにいくなんて……たぶんだけど、あなたの霊魂が注入されたことで一時的な混乱が起きているのかもね。あなたが私の胸を遠慮なしに揉んだようにね。これはちゃんと記録をとっておかないと……」
キルケの言葉は、俺の耳に入ってこなかった。
俺はイプシロンの豹変に戸惑い、そして僅かながらであったが喜んでいた。こうして誰かに抱きしめてもらったことなど、これまで一回しかなかった。ペネロペ、彼女のか弱く細い、温かい体。遠い日の幻影。
気づけば、俺も彼女の背中にそっと手を回していた。おずおずと、壊さないように。こうしていると、イプシロンがアカイア海洋連合を壊滅させる力を秘めた決戦兵器であるとは思えない。俺には、どうしてもイプシロンがただの女の子のようにしか思えなかった。
そんな俺たち二人をキルケが苦笑いをしながら見ているのに気付いた。
「いいわねぇ、若いっていうのは……」
イプシロンが俺を解放してくれるまで、それからなお数十分かかった。
キルケは、今日はもう休んで良い、むしろ霊魂の健康のためによく休めと言ったので、俺はイプシロンと共に彼女の実験室を出ようとした。
その時、実験室の隣の書斎にある電話のベルが鳴った。キルケはゆっくりと歩いて電話の傍に立ち、受話器を上げて耳に当てた。
「
キルケは受話器を置いた。彼女は俺たち二人に言った。
「今晩の夕食後、お客様が来ることになりました。そのつもりでいてね。さあ二人とも、今日はその時までゆっくりと過ごしてちょうだい。Ε-2号、今のウーティスは変なことを言うけど、あまり気にしないで。あとウーティス、さっきも言ったけど、その症状もあと数時間したらたぶん治るはずだから、まあのんびりとすることね」
キルケと別れ、二人で廊下を歩いている時、俺はふと思いつくことがあった。
「イプシロン、君のピカピカボディ『アイギス』を見てみたいですます。案内してちょ」
少しばかりイプシロンは目を見開いたが、素直に頷いてくれた。
「はい、格納庫に行きましょう」
話によれば、あの機体「アイギス」もイプシロンを兵器たらしめるのに必要不可欠なものであるらしい。
あれは、既存のあらゆる歩行兵器を過去のものにするほどの性能を秘めていると言っても過言ではない。特に、ΝΣにとって最重要な要素である瞬発力と運動性に優れている。
それがどのような設計によって生み出されているのか、俺は知りたかった。
たとえあの機体が未知の構造を有していても、直接つぶさに見ることで何らかの知見が得られるのではないかと俺は期待した。
それに、俺はまだ、あの白い化け物を忘れてはいない。奴とは必ず、いつか再戦することになるだろう。そのためには、非常に酷似した機体であるアイギスを見るのは役に立つはずだ。
しばらく屋敷の中を進み、俺たちは正面エントランスから外へ出た。その日もよく晴れていた。太陽の光が眩しい。
「晴れハレ腫れはれ、天気良いね!」
「はい、ウーティス様。良いお天気ですね」
俺は、今日になって初めて屋敷の外に出たことに気付いた。
魔女の屋敷であるにもかかわらず、建物の外観におどろおどろしいところはなく、少し古風であることを除けばむしろ至って普通だった。イタケーの第一居住区の高級住宅街にも建っていそうな印象すらある。
正面エントランスのすぐ外は広い庭園になっていて、数体の人形が静かに掃除や植木の手入れをしていた。
燦々と降り注ぐ日光、小鳥の鳴き声、飛び交う虫たち、慎ましくも色彩豊かなバラの数々。
しかし、人間の声はしない。広さに見合わぬその静寂さに、俺は改めてここが魔女の屋敷なのだと思った。
ふっと風が吹き抜ける。それを受けてイプシロンのドレスの裾が揺れた。明るい日差しの下にあっても、彼女の美しさは変わらなかった。
「イプシロン、きれい、きれい。かわいい」
「ありがとうございます、ウーティス様」
思わず出た言葉にも、イプシロンは答えてくれた。俺は何だか申し訳ない気持ちになった。
俺とイプシロンは小路を歩き、途中細い水路にかかった橋を越えて、屋敷本館の西側にある格納庫へ向かった。
十数分後にはそこに着いた。格納庫はいかにも格納庫然としていた。
半地下式になっていて、構造物には緑色を基調とした細かな迷彩塗装が施されている。野戦飛行場の掩体壕にもどこか似ていた。今まで穏やかな庭園風景を見ていた俺の目には、それは明らかに異質なものとして映った。
イプシロンが口を開いた。
「今、中でお姉様がお人形遊びをしているはずです」
彼女がそう言ったその時、向こうから誰かが走ってくるのが見えた。短い青い髪に、聳え立つ二つの黒い犬耳。それはスキュラだった。
「やっほー、イーちゃん! においで分かりましたわ、よく来てくれたね!……って、なんだ、人間もいるのですか」
「こんちはスキュラ、今日もお耳がぴこぴこ、かわいいね」
「はぁ? 何言ってやがりますのコイツは? ついに狂ったの?」
「お姉さま、ウーティス様は私に霊魂を分けて下さった影響で、今は言葉が乱れています」
イプシロンが手短に、俺がどうしてこうなってしまったのか説明すると、スキュラは大笑いをした。
「アッハッハハハハ!! なにそれ傑作ですわ……あ、でもイーちゃんのためにそうなったのだから……まあ、その点は感謝してあげますわ! ハハハハ……!」
「ねえねえスキュラ、ぴかぴかの『アイギス』見せてちょ」
俺から来訪の意図について告げられると、露骨に嫌そうな顔をした。
「えー? 普通に軍事機密なんですけど……敵国の人間に秘密兵器のヒミツを開陳するとかあり得ないですわ……でもまあ、イーちゃんが良いと言うなら見せてあげますわ。イーちゃん、イーちゃんの『アイギス』を見せてやっても良い?」
イプシロンが頷くと、スキュラは愕然とした。
「マジかよですわ……」
彼女はブツブツと文句を言いながらも、俺を格納庫へ案内してくれた。
それに彼女自身、自分の主たる活動分野について身内以外の誰かに話したがっていたようで、そのうち俺が訊いてもいないのに様々なことを語り始めた。
「この格納庫はね、お母様が特に注文して建てさせた特別なものなのですわ! 見た目こそ普通ですが、屋根には航空機関砲を耐えるだけの装甲板が仕込んでありますし、建物それ自体も生半可な魔法や爆薬では吹っ飛ばないよう頑丈に作ってありますの! それに中には戦車砲の直撃にも耐える弾薬庫がありますし……」
格納庫の通用口の分厚い扉を開きながら、スキュラはなお喋り続けた。
「開戦時、海の民のΝΣはまさに脅威でしたわ。防御力に乏しいながらも俊敏な機動性と高い火力。それに直面した時の共和国の対応は大きく二つに分かれました。一つは怪物の開発と投入。これはお母様から既に説明があったのではないかしら。もう一つは、鹵獲したΝΣのリバースエンジニアリング。野蛮な海の民の兵器から学ぶというのは少しばかり屈辱でしたが、しかし大いに意味のあることでしたわ……」
中に入ると、そこは鉄一色だった。俺は故郷のイタケーの艦内を連想した。あれよりは格段に清潔だが、しかし雰囲気は酷似している。
格納庫の壁際には、俺が見知ったものが多く並んでいた。旧式のΝΣ24型、工兵用のΝΣΜ34型、それから現在の主力機であるΝΣ124型が数機。
「戦場でΝΣを放棄しなければならなくなった時、あなた方は爆破処分を心掛けていたようですが、でも舐めてもらっては困りますわ。知りたいという執念は何ものにも勝るものですの。バラバラになった部品をかき集めて機体を再建するのに時間はかかりませんでしたわ。それに、密かな協力者もいますし」
それを聞いて、俺は思わずスキュラに問いを投げかけていた。
「お手伝いさん? だれそれ?」
スキュラは平然と答えた。
「あなた方の中には、敵国人と通じて商売をしようという人間もいるということですわ。いえ、商人だけではありません。海の民の政治家も貴族も、平民たちを戦争と死に追いやっておきながら、その裏で敵と取引をして私腹を肥やしているのですわ……」
その時、鮮やかな金属の照り映えが目に飛び込んできた。それこそ俺が見ようと思ってやってきた、イプシロンの乗機である『アイギス』だった。
スキュラは自慢の色も隠さずに言った。
「どう? 素晴らしい機体でしょう? これまでに何回か戦ったことのあるあなたにはもうお分かりでしょうが、このアイギスはあなた方のΝΣを元にしながら、それを超える性能を持つべく作り出された機体。セミモノコック、オリハルコン合金装甲、新型魔力炉に人工筋肉。霊魂接続操縦システムに人工霊魂を使用した姿勢制御システム、新型兵装管制装置、連続稼働時間五十六時間、最大時速三百七十五スタディオン……」
「でもそれってただのすごいΝΣなだけ。なんでこれにイプシロン乗り込まないといけないですか」
「ちょっと! 人の話に割り込むんじゃねーですわ! お行儀が悪い!」
話を中断されて額に青筋を浮かべていたスキュラだったが、俺の問いに答えてくれた。
「……ごほん。これにはある兵装が積んでありますの。トロイア第三都市設計局の手による、新開発の魔力増幅装置ですわ。それがイーちゃんの使う魔法をアシストして、戦略兵器としての本領を発揮することになっていますわ」
「魔法を、アシストしやがることになりますです?」
イプシロンが魔法を使うことになるとは知らなかった。そういえば、キルケもそんなことをちらっと言っていたかもしれない……
考える俺に、スキュラはここに至ってついに憤然として言った。
「そのためにあなたがいるのでしょうが! イーちゃんの霊魂が安定して、魔法が使えるようにならないとこの兵装は意味をなさないのですわ! せっかくわたくしが完成にまで漕ぎつけた機体ですもの、あなたには死ぬ気でイーちゃんに霊魂を分けていただかなければ困ります! むしろ死ね!」
俺は驚きの念に打たれた。
「スキュラがこれを作った? まじすごい」
俺の言葉に純粋な称賛の気持ちが含まれていることを悟ったのか、スキュラはやや機嫌を直したようだった。
「そうですわ! 未完成のまま放棄されそうになっていたところを密かにここに運んできて、色々と遣り繰りしながらコツコツと作り上げたのですわ! お母様が人工霊魂の研究ならばわたくしは機体開発の面から協力しようという熱意があってこそ……」
話し続けるスキュラを余所に、俺は違和感を覚えていた。
機体が未完成? どうして彼女だけがこの機体を扱っているのだろうか? どうして彼女は一人だけでこの機体を完成させねばならなかったのだろうか?
イプシロンと同じく、このアイギスが戦略兵器となるのならば、他に開発スタッフがいても良いはずなのだが……屋敷の中や庭園と同じく、どうにもここには人がいなさすぎる気がしてならない。
なぜ、三人を除いてこの屋敷には生きた人間が他にいないのか? その疑問は小さくないしこりとなって俺の心の中に残った。
俺はもう一つ、スキュラに尋ねたいことがあった。
「スキュラ、白いオバケ知ってたり知らなかったりする? 白いΝΣ、おばけ、剣と盾」
問いに対し、スキュラは「白いオバケ?」と言い、しばらく唸っていたが、やがて判明したのか、手をポンと打った。
「ああ、それはたぶん、アイギスと同時期に開発された近接格闘戦向けのΝΣですわね。ΝΣを撃破するためのΝΣとして設計されましたの。基本的な機体構成はアイギスと同じながらも、霊魂接続操縦システムが当時まだ開発できなかったために、操縦系統が複雑になり過ぎて誰も扱えなかったという失敗作ですわ。たぶん、まだ首都の格納庫の片隅で埃でも被っているんじゃないでしょうか。でも人間、どうしてそんなことを訊くのかしら?」
「ぼく、それとたたかった。引き分けだった。アカイアのみんなもうわさしてた」
スキュラは俺の言葉を聞いて、顎に手を当てて考え込んだ。
「……あの機体は誰にも乗りこなせないはず、よっぽどの天才でもない限り……それに、最後に見た時にはまだ全工程の三割ほどだったはず。誰かが大急ぎで完成させた……? なんだか癇に障りますわ、私以外にそれだけのメカニックが……」
スキュラはブツブツと呟き続け、俺たちに関心を向けなくなった。イプシロンが俺の手を引いたので、俺たちは格納庫を出た。
俺としては、あの白い機体がアイギスと同程度の性能を持ち、接近戦を挑むのが自殺行為ということが分かっただけでも収穫だった。
しかし、それでは実際に再戦した時に、どうやったら勝つことができるだろうか。
俺は様々な戦法を考慮して、ある一つのことに行きついた。
通常の方法では不可能だろう、それならば……俺は、あえてその先を考えるのをやめた。
既に正午を回っていて、何か腹に入れるべき時間が来ていた。屋敷に戻ろうとイプシロンと一緒に歩いていると、ふと俺の視界に異様なものが入ってきた。
それはトーチカだった。分厚いコンクリートで固められていて、周囲には有刺鉄線が巡らされている。銃眼からは長砲身の大砲のマズルブレーキが突き出ていた。共和国軍の重対戦車砲だ。俺は、驚きの念を抑えられなかった。
思わず、俺は隣のイプシロンに話しかけていた。
「どうしてこんな所にトーチカがあるんだ? これはいったい?」
あ、言葉が元通りになった。そう思っている間に、イプシロンはふるふると無言で首を左右に振って、言葉を返していた。
「分かりません。お母様が言うには、『備えあれば憂いなし』と」
それにしては度が過ぎているように思われた。ただの防犯というわけではないだろう。戦車でも相手にするというのだろうか?
「アカイア軍の侵攻に備えているのか?」
しかし、彼女は可愛らしく首を傾げた。俺も首を傾げた。
ここはスカマンドロス川からさほど遠くない。もしアカイア軍が突破するようなことがあれば、一週間もかけずに到達できる距離だ。だから自衛の設備を備えるというのは一見理に適っている。
だが、そんなことをするくらいならばキルケはここを脱出するなり、あるいは共和国軍に防衛を要請するなりすれば良い話ではないか。
そうだ、ここが共和国の切り札たる人工霊魂と最新鋭兵器の研究の拠点であるならば、なぜ警備部隊の一人もいないのか? 今まで注意を向けていなかったが、俺はまだ一人として敵国の兵隊を目にしていない。
黙り込んだ俺に、イプシロンが遠くを指差した。そこは何の変哲もない平原で、木がまばらに生えている。
「あそこがどうかしたのか?」
「……あの平原には、入ってはならないとお母様から言われています」
「どうして?」
「地雷原になっているからです」
「……他にも、そういう場所があるのか?」
「この屋敷の周りはすべてそうです。お姉様が狩りをする森にも地雷が仕掛けられています。お姉さまは匂いで地雷の位置が分かるそうです」
もし彼女の言葉が本当なら、この屋敷はまるで要塞である。ありとあらゆる侵入者を拒むような数々の仕掛け。
最初にスキュラと話した時、彼女は確か「ここの規模は屋敷というよりは要塞」と言っていたが、その意味がようやく分かってきた。
いや、外だけではない。中もそうだった。あの、屋敷内部を入り組んだ迷路のようにする魔法。あれは果たして、俺ごときたった一人の捕虜を逃さないためだけのものだったのだろうか? あれも、そもそもは外敵の侵入を拒むためのものだとしたら?
俺は他にもそういう場所があれば見せて欲しいとイプシロンに頼んだ。彼女は俺を案内してくれた。
食事もせず午後いっぱいをかけて屋敷の敷地をすべて回り、俺はいずれもよく隠蔽された鉄筋コンクリート掩蓋の機関銃座が二十に、対戦車砲が十に、対空砲陣地が六つあることを確認した。
そのどれにも人形たちが配置についていて、武器を整備したり弾薬を手入れしたりと、無駄のない、機械的な動きでもって働いていた。
特に、対空砲の入念さには目をみはった。それは、射撃時にだけ地上に出るようになっていて、普段は地下へ格納されるようになっていた。
爆撃を怖れているのだろうか? しかし、どこの軍による爆撃を?
☆☆☆
日が暮れて夕食を楽しんだ後、俺はまた魔女の書斎に呼ばれていた。イプシロンはなぜか自室に戻るようにキルケに言われた。
キルケはソファーにゆったりと腰を掛けている。彼女の眼差しは優しかった。
「すっかり調子が元に戻ったみたいで良かったわ」
「おかげさまで貴重な体験をすることができた」
「皮肉を言えるようならもう問題はないわね」
それから彼女は霊魂研究について概説的なことを話したり、誇大な文飾が施された共和国の新聞記事を読み上げたりした。
「首都でアイネイアス将軍が凱旋パレードをしたそうよ。配下の巨人を先頭に立てて、兵士たちを分列行進させて。将軍は海の民をスカマンドロス川の向こうへ追い返した英雄として、また空挺作戦のパイオニアとして、国家特別功労賞を授与されるのだとか。これでしばらく戦況は動かないわね。共和国軍はまだ川を越えて進撃するための力を蓄えていないし、海の民は新陣地に入ってほっと一息つけるというところかしら……」
そこでキルケは、腕時計に目をやった。
「おっと、そろそろ来る頃ね。さて、ウーティス。これからここに来るのは、ちょっと政治的に微妙な関係にある人物なの。あなたにも傍で話を聞いていてもらいたいんだけど、アカイア軍の兵士が平然とそこにいるようじゃ少し話が拗れるかもしれない。だからね……」
彼女は、指導者の像が被っていたブタの仮面を俺に差し出した。
「これを被ってちょうだい。大丈夫、それ以外にはなにもしないで良いから」
俺は仮面を受け取った。断れば、きっとキルケは部屋に帰るように言うだろう。だが俺は、これからここに来る人物が気になった。
この閉鎖的な環境へわざわざ足を運ぶ者とは、いったいどのような奴なのか。そのためなら、ブタに扮するのは安いものだと思えた。
無言で頷き、ブタの仮面を被ると、俺はどのような感じか彼女に尋ねようとした。
「ブウブウブウ、ブヒッヒ」
「そう、その仮面をつけている時は出る言葉が全部ブタの鳴き声に変換されるから。これであなたが思わず不用意なことを口走っても安全というわけよ……って、来たわね」
誰かが歩いてくる音がした。そして扉が開いた。
まず入って来たのは神妙な面持ちをしたスキュラだった。彼女はいつもの作業つなぎではなく、フリルが多くあしらわれた可憐な黒いドレスを身に纏っていた。
彼女はいつもとは打って変わって、澄んだ美しい声で言った。
「アスカニオス様、ご到着になりました」
「けっこう、お通ししなさい」
アスカニオス、という名を聞いて、俺の胸がかすかにざわめいた。
俺の顔を見て、スキュラは一瞬だけ吹き出しそうになったが、すぐに表情を引き締めると、部屋から出て来客を迎え入れた。
「どうぞお入りくださいませ、アスカニオス様」
「ありがとう、スキュラさん」
その言葉に続き、入口からその人物は悠然と歩を進めてきた。
「星々と月が美しい、まことに麗しい夜でございます。こんばんは、魔女殿」
どこかで聞いたことがある気のする爽やかな声と共に、その男は現れた。
最初に俺が受けた印象は、黄金だった。
真昼の太陽のように燃えたつ金髪。男は若かった。すらりとした長身で、俺よりも一回り背が高い。色白の肌で、唇の血色も良い。赤い裏地の黒いマントを羽織っており、身に纏う軍服は特別誂えの純白のものだった。
まるで、白磁の兵隊人形だと、俺は思った。
彫刻芸術を思わせる端整な顔立ちをした男は、微笑みを浮かべている。それに作為は見受けられず、純粋な親しみを示しているように感じられた。
年の頃は、おそらく俺と同じくらいだろう。十七か、それとも十八か。その割には落ち着いている。俺が初めて見る種類の人間だった。
「お招きいただき、まことに感謝申し上げます。魔女殿は気位が高く、俗人をまったく寄せ付けぬとのこと。ようやく得ることが叶いましたこの機会こそ、まことに貴重と言うべきものです。私ごとき者では話し相手として不足であるやもしれませんが、どうかこれからの時間が楽しいものでありますように……」
そう言うと、男は恭しく礼をした。その後ろで、スキュラが舌を出していた。彼女は去っていった。
キルケはソファーに腰かけたままだった。彼女は不機嫌そうな声を出した。
「なにが『お招きいただき』よ。来るって言ったのはそっちじゃない。自分から押し掛けてきておいて、こっちが招いたことにされたんじゃたまったもんじゃないわ。それに、その畏まった口調をやめて。聞いていると体がむずむずしてくるわ、アスカニオス」
アスカニオスと呼ばれた男は、それを聞いて気分を害した様子もなく、明るい笑い声を上げた。それは、まったくその年頃の男に相応しい陽気さだった。
「ははは……もう、キルケ姉さんは相変わらずだなぁ。分かりました、いつもの通り、砕けた感じでお話をしましょう。それに、慣れない敬語を喋るのは肩が凝りますしね。それにしても、お元気そうで何より。あの時から随分色々とありましたから、こちらとしてはかなり心配していたのですが……」
キルケはその言葉を聞き流すようにして戸棚に行くと酒とグラスを取り出した。彼女はアスカニオスに押し付けるように酒を勧めた。
「あんた、随分と如才なさを身につけたわね。まるで外交官とか大使のようじゃない」
男はグラスを受け取ると、一気に中身を飲み干した。顔色はまったく変わらない。
「ええ、そうですよ。なにせここは魔女の屋敷、いえ、『島』ですから。国の中に国があるようなものですから、私も大使のように振舞わなければならないというわけです」
「なに、『島』? それってどういうことよ?」
キルケが酒を注ごうとするのを手で制して、男は自分でボトルを持った。二杯目をグラスに注ぐとまたすぐに飲み干し、今度はキルケのグラスに酒を注いで、彼は答えた。
「姉さん、あなたが首都でどのように言われているか知っていますか? 『魔女は自分の国である島に引きこもった。魔女は島で毒薬を調合し、陰謀を巡らせ、人を怪物に変えている』と。随分と悪評が立っていますよ……それはそうと、そこに立っているのもあなたが生み出した怪物ですか? このブタさんは」
キルケはにやりと笑みを浮かべた。
「いいえ、怪物ではないわ。人形よ。ちょっと研究の息抜きとして作ってみたの」
アスカニオスは怪訝な顔した。
「人形ですか? その割には体格が良いし、筋肉も鍛えられているようですが。軍服もアカイア軍兵士のものだ。もしかして新手の再生兵ですか?」
キルケは微笑み続けている。
「まあ、そういう人形なのよ。特別な能力は何もないけど、人語をちゃんと解するし、詩の朗読もできるのよ。ほら、ブタさん、何か言ってみなさい」
突然話を振られた俺は心の中でうろたえた。黙っているわけにもいかないので、俺は思いつくままに軍歌を歌ってみた。
「ブブブウブウ、ブウブブブウ(走れ、機体よ。主砲よ、唸れ)。
ブウブウブウ、ブゴブゴブウ(我らは速く、強く、勇猛だ)。
ブッギギブウ、ブウブウブブブ(トロイア勢に思い知らせよ、我らアカイアの民の力)。
ブッギブギブウ、ブウブウ(敵首都の城頭に旗を打ち立てよ、我らの燦然たる軍旗を)」
キルケはぱちぱちと手を叩いた。
「うーん、流石は私の作品ね。すごいでしょ、見事な歌だったじゃない? 『女神デメテルは光り輝く
男は酒を口に含みつつ、首を傾げた。
「うーん、私には『謹厳なるヘリオスはその輝く馬車を操り、大地に日差しと暑熱をもたらす』としか聞こえなかったのですが」
「はぁ? 何を言っているの? この人形、ブウブウブウとしか言ってなかったじゃない」
「そうですか。気が合いますね。私ものたうつブタが上げる鳴き声みたいなものしか聞こえませんでした。それにしてもなんでこんな意味のないものをわざわざ……まあいいか。姉さんが変なものを作るのは前からだし……」
「変なものって何よ。人のことをバカにしてるの? 偉くなったものじゃない、『勉強が分からないから教えて~』なんて言っていたお坊ちゃんが」
キルケがやり返すと、アスカニオスは首を振って降参だという仕種を見せた。
「昔のことを持ち出されると敵いませんね。それと、確かに語弊がありました。姉さんは変なものも作りますが、それよりもたくさん非常に素晴らしいものを生み出しておられます。再生兵にしても、怪物にしても、あれらがなければ我が軍はスカマンドロス川での決戦で敵を打ち破れたかどうか分からなかった」
「それは私にとっては褒め言葉にはならないわ。祖国に仕える一研究者として、当然のことを為したまでよ」
アスカニオスはそれを一種の慎みと受け取ったようだった。
「ご謙遜が過ぎます。父も、あなたには感謝しておりました。怪物がいなければ、わけてもポリュペモスのような巨人がいなければ、敵のΝΣには対抗できなかっただろうと。まったく、彼らは本当に手強い、称賛すべき相手でした。私も過去に何度か戦いをしたことがありますが、どの敵も勇敢で、技量が高く、死を怖れなかった。一度などはかなり苦戦を強いられましたが……そういえば、あの時、森に逃げ込んだΝΣ乗りはどうなりましたか?」
キルケは素っ気なく答えた。
「死んだわ。手当はしたんだけど」
「そうですか、残念です。彼とは是非手合わせをしてみたかった。とても勇敢で優秀なΝΣ乗りだったのに」
「屋敷の裏手に墓を掘ったわ。見ていく?」
「いえ、それは遠慮しておきましょう」
そう言うと、なぜかアスカニオスは俺を横目でちらりと見た。
俺は彼の言葉に、ある匂いを感じ取っていた。彼の言葉は、実際にΝΣと正面から一対一で戦ったことのある者にしか言えない。
この男は、ΝΣ操縦者なのでは……? そう思っている間にも、話は続いていた。
「しかしながら、姉さん。聞くところによると、姉さんは怪物や再生兵など比較にならないほどの、超強力な兵器を開発されているらしいですね。それは人形のように美しい女の子で、この上もなく清純な霊魂を持ち、戦局を変えるほどの大魔法を、それこそ神々が使うような魔法を使うことができるとか。私も今日ここに来れば、その麗しの姫君にお会いできるかと密かに楽しみにしていたのですが」
男の言葉に、キルケは気のない様子で返事をした。
「そんなのはただの噂よ。あのプロジェクトがどうなったのかについて、あんたも知っているでしょう? 私は現在、この屋敷で悠々自適な研究生活を送る、ただの隠遁者よ」
キルケの自嘲めいた言葉を聞いて、アスカニオスは首を振った。
「それはどうでしょうか。私は確かに戦場で、薄紅色に光り輝く機体を見ました。あれを操っていたのが、その麗しの姫君なのではないでしょうか?」
「あの機体? あれは人工霊魂を使用した自動操縦システムで駆動していたのよ」
「そうですか。アカイアのΝΣ乗りを、自動操縦で倒せるとは思いませんが、まあそういう『噂』だということで納得しておきましょう」
そこまで言うと、アスカニオスは居ずまいを正した。
「ですが姉さん、噂というものは生き物でして、ほっておくと成長したり増えたり、怪物のように姿を変えたりするものです。何か手を打った方が良いのでは?」
「……どういうことよ」
どうやら、アスカニオスの本題はここからのようだった。
「指導者様は最近疑い深くなっておられましてね。これまで我が国は海の民に押されっぱなしで、その対処に精一杯だったわけですが、いざ戦線が落ち着いてみると、あの禿げ……いえ、失敬。あの『偉大なる頭部の持ち主』は、国内の状況が気になりだしたのだそうです。それはそうでしょう。あの人は過敏なまでに頭が回りますし、そのせいで要らぬ粛正を乱発したりしましたが、その性格のおかげで旧王家の支配を打倒して一党独裁体制を確立するに至ったのですから。ですから、彼にとっては、それがどんなに些細な噂であっても、やはり気になるものは気になる、ということのようです」
キルケは無言で聞いていた。煙草に火を点け、煙を吐き出すと、そっけなく答えた。
「……へぇ、あの禿げ頭も生きづらい性格をしているのね。で、私にどうしろと?」
「弁明(アポロギア)をなさっては?」
「弁明? 何についてよ」
「簡単なことです。『屋敷に引きこもり、武器弾薬を集め、要塞化を施しているのは、アカイア軍の侵攻に備えるためです。また、私が密かに国家の財産を横領し、研究開発を進めていると噂されている兵器についてですが、事実無根です。それを証明するためならば、すべての研究資料と資材を提出いたします』と言えば良いのです。あなた自身が首都に行って、指導者様の前に立って弁明をするのですよ」
キルケは深々と一服をし、呆れたような顔をしてアスカニオスを見つめた。
「なんでありもしないことについて、カサリダのように這いつくばって許しを請うように弁明をしなければならないのかしら。そんなこと私はしないわよ」
「なぜです? 簡単なことではありませんか。向こうはそれで納得すると言ってますよ」
「私の霊魂の問題よ。私は、私の霊魂を自分で損なうような真似をしたくない」
会話が途切れた。時刻は既に深夜に入っている。しばらく、沈黙が部屋を満たした。
先に口を開いたのは、アスカニオスだった。
「……大志あるものは、たとえどれだけ耐え難いことであっても敢然と耐え、いつか大望を成し遂げようと生き抜くものです。我が王家も、そうやってこれまであの禿げ男の追及から逃れてきました。父も、本来ならば何人に対しても下げるべきではない高貴な頭を、あの男の前で何度も下げたのです。それはひとえに、王家の血脈を絶やさないため。そして、またトロイア国民に、王家の威光と恩恵をもたらさんがためなのです。姉さんも、何か心に思うところがあるのでしょう? でなければ、この屋敷を噂のように要塞化するわけがない」
どうやらアスカニオスは、俺が昼間イプシロンと見て回った防衛施設について、なにがしかのことを把握しているようだった。
キルケは真剣な面持ちで、その言葉を聞いていた。やがて彼女は、もう何本目になるか分からない煙草に火を点けて、言った。
「……あんたに一つ神話を教えてあげましょう。大昔の、トロイア勢とアカイア勢の戦争よ。実はあの戦争、もう少しで勝敗が決まりそうになった瞬間があったのよ」
キルケは、その澄み渡った紫水晶の瞳で、どこか遠くを見ている。彼女自身、語りながらその光景を思い浮かべているように。
「アカイア勢は英雄たちの活躍もあって野戦でトロイアの軍隊を撃破した。多くの戦士を討ち取り、屍の山を築いたわ。でも、城壁高きトロイアの市に攻め込む手段がなかったの。彼らは考えた。どうにかして市内へ入り込む方法はないか、と」
彼女は煙草を灰皿に押し付けて火を揉み消した。
「アカイア勢は巨大な木馬を作り、その中に戦士たちを潜ませて、トロイア勢自らがそれを市内へ運び込ませるように策略を巡らせた。紆余曲折を経て木馬は作られて、トロイア勢はそれを終戦の証と信じて市内へ運び込んだ」
アスカニオスは黙ってその話を聞いている。俺は、なぜキルケがそんな話をするのか掴みかねていた。彼女はまた酒をグラスに注ぐと、続きを話し始めた。
「ここに一人の女が登場するわ。彼女にはある呪いがかけられていたの。未来を正確に見通す予言の能力を持っていながら、その予言を誰にも信じてもらえない、という呪いがね。彼女は、木馬がトロイアを滅亡させる未来を見て、即座に燃やすべきだと叫んだわ。でも、呪いのせいで誰も信じない。さて、それでは彼女はどうしたでしょう?」
アスカニオスは静かに答えた。
「……自分で木馬に火をつけた、のでしょうか?」
キルケは苦笑いをしながら首を横に振った。
「いいえ、そんなことはしなかったわ。というよりも、できなかったでしょうね。なぜなら、その木馬は長い戦乱の終わりをもたらすものだとトロイアの人々は固く信じていたから。火をつけるような真似をすれば殺されてしまったでしょう……そうではなくてね、彼女は他人に燃やさせたのよ。兵士を率いる将の一人を篭絡して、そいつに木馬を破壊させた。かくしてトロイアの一大危機は去り、また戦争終結の可能性も去ってしまった」
興味深い昔話ではあったが、それがこの屋敷の重武装とどのように関係しているのか? アスカニオスを見ると、彼も疑問の色を浮かべている。
そんな様子を見て、キルケは微笑みながら言った。
「この話の教訓はね、どんなに正しいことを言っても人に聞き入れてもらえない時は、力づくでもその正しさを実行しないといけないということなのよ。さもなければ、その正しさゆえに人から憎まれて、最後は殺されてしまう。もし彼女が『木馬を壊さないといけない!』と叫ぶだけで結局何もしなかったら、たぶんトロイアの人々は敵よりも彼女を憎んだはずよ。『なぜ分かっていたのに行動をしなかったのだ』とね。正しいことというのは我が身を亡ぼすきっかけともなり得るのよ」
そう語る彼女の表情には、そこはかとない後悔と、僅かな疲労の色が見えた。アスカニオスは、グラスに残った酒を飲むと、口を開いた。
「姉さんは『あの時』、指導者様に正しいことを言った。それゆえ憎まれている。噂はただの口実に過ぎず、あの方は最初から自分に不信感を抱いている。だから今更弁明してもしょうがない。そのように考えているのですか?」
いつの間にかキルケは新しい煙草に火を点けていた。
「……この世の中はね、正しくて、霊魂が綺麗な人が支配しているわけではないの。自分が正しいのだと人々に思わせることができる人が支配しているのよ。どんなに後ろ暗い手段を使ってでも、自分の言うことは絶対に正しいと人々に信じ込ませることができる人、そういう人が世界を我がものにするわ。そういう点では、あの禿げ男は偉大ね。汚い手段だけではなく、確かな計画に基づいて重工業を発展させ、国民の福祉と生活水準を向上させたのだから。それは王家がどうしても成し遂げられなかったことよ。党による支配がどれほど犠牲を生んでも、あいつはそれが正しいと国民に思い込ませることができた……」
そう言うと彼女は少しばかり咳き込んだ。
「……いけないわね、ちょっと煙草を吸い過ぎているのかしら。最近ちょっとストレスが多いのよね。まあとにかく、私はその教訓を得たのが遅すぎて、それで今は大急ぎで力をつけようとしているのよ。せめて身を守るだけの力でも、とね」
アスカニオスは微笑んだ。
「なるほど、お話は分かりました。父には、そのように伝えておきましょう。まったく、姉さんは誇り高い人だ。指導者様に正面から盾突こうというのですから」
キルケは首を振った。
「誇りの問題ではないわ、霊魂の問題よ。それに、盾突いているわけではないわ。ただの自衛措置よ。それ以上でもそれ以下でもない。そこらへん、あんたから上手く説明してあげてちょうだい。アイネイアス将軍は話の分かる人だから」
「分かりました。時間も遅いので、これにて失礼いたします。ですが、これだけは心得ておいてください。こんなことは、時間稼ぎにしかならないことを。いつか、決断が迫られる時が来ますよ。究極的な決断を迫られる時が」
アスカニオスは立ち上がった。扉にはいつの間にかドレス姿のスキュラが待っていた。どうやら彼を送っていくらしい。
去り際、彼は柔和な笑みを浮かべて言った。
「それから、煙草は控えた方が良いですよ。美容に良くない。せっかくの美貌が台無しになる。姉さんは綺麗なんだから。父をはじめ、みんながあなたのことを心配しています。みんな、あなたが平穏無事に生きられることを望んでいるのですよ……」
彼が去っていったのを確認すると、俺は仮面を脱ぎ、ソファーで猫のように脱力しているキルケに向かって言った。
「あのアスカニオスという男、何者なんだ。随分あなたと親しいようだが」
キルケはぐっと全身で伸びをした。どうやら彼女なりに緊張していたらしい。
「三十年前に党によって政権から引きずりおろされた、旧王家の末裔よ。世が世なら王子様と言ったところね。真っ直ぐで明るくて、でもちょっと頭でっかちなところがある。端的に言えば、若いのね。十八歳だから仕方ないけど。昔、彼の父のアイネイアス将軍に頼まれて、少しだけ家庭教師をしてあげたことがあるの。それ以来姉さんなんて呼ばれてね……」
そうか、あのアイネイアス将軍の息子なのか。俺はキルケに質問を続けた。
「彼はなんのためにここに来たんだ。あなたたちの会話からすると、どうやらあなたは指導者アデルフォスに嫌われているようだが」
キルケは煙草に火を点けようとしたが、時計を見て止めた。
「なんてことはないのよ。私が指導者様と政権にちゃんと忠誠を誓っているか確認しに来ただけ。この国ではこういうのってよくあることなのよ。でも大丈夫、これで嫌疑は晴れたはずよ。さあ、もう遅いわ。あなたももう寝なさい。麗しの姫君がベッドで待っているわ」
俺は部屋に下がった。イプシロンは俺が戻ってくるまでずっと機織り機の前に座っていたようで、俺がベッドに横になると、彼女も灯りを消して隣に寝そべった。
もう俺を監視する必要もないのに、彼女は相変わらず下着姿になって俺にぴったりと身を寄せて添い寝をしてくれる。
「おやすみなさい、ウーティス様」
だが、なぜそんなことをするのかとは訊けなかった。彼女が望んでいるからそうしているのだろうし、なにより俺は、そう訊くことで彼女が添い寝を止めてしまうのを恐れていた。
彼女の温もりが消えてしまうのが怖かったというよりも、彼女が俺への関心を失って離れていってしまうのではないかと恐れていた。
「おやすみ、イプシロン」
いつの間にかそんな感情を抱いていることに自身で驚きつつ、俺は、穏やかな寝息を立てている彼女を起こさないようにそっと抱き寄せた。
彼女の体は、相変わらず温もりに満ちていて、柔らかかった。
俺は、アスカニオスについて考えていた。あの工場での戦いの時、白い化け物は確かに自分の名を「アスなんとか」と名乗った。
アスから始まる名前は多い。アステュアナクス、アステロパイオス、アスカラポス……
そして、アスカニオス。
その瞬間、俺はほとんど、彼が白い化け物であることを確信した。
彼が味方の多くのΝΣを仕留め、小隊長をも倒した敵なのか。しかしそのことについては、怒りや憎しみの念は不思議と湧かなかった。
兵士として、戦う者として戦場に出たならば、そこにあるのは厳粛な生命のやり取りだけであって、感情を交えることは許されない。そのことを俺は、実際にこの大地で戦い始めてから理解している。
彼も、戦いを喜んでいる様子はなかった。その点だけで見れば、彼もまた敵ながら称賛に値する存在だろう。
だがしかし、それよりも……彼がイプシロンのことを「麗しの姫君」と呼んだことに対して、急に俺は腹が立ってきた。
アスカニオス。やっぱり
☆☆☆
翌日は丸一日休養にあてた。
さらにその次の日の早朝から、また俺の霊魂をイプシロンに分ける術式が行われた。
一連の術式工程が終了すると、キルケはにこやかに俺へ声を掛けた。
「どうかしら、ご気分は? このバカ、間抜け。あと、えーっと……アホ」
その時の俺は、妙な気怠さを感じていた。罵倒文句に対して何か反応してやろうという気持ちにまったくなれない。
いや、自分はアホと言われても当然だという、諦めのような気持ちもあった。
「……うん、俺はアホだ、生まれてからずっとアホだった……」
ブツブツと呟く俺に、彼女は頷いた。
「うん、名誉欲の著しい減退が確認できるわね。今日はあなたの霊魂の『気概』の要素から抽出してみたのよ。学説によれば『気概』は『理性』を助け、勝利や名誉を求める働きを持っているとされているわ。例えば、理性によって何が正しいかを判断して、それを実行するのに痛みが伴うことが分かった時、痛みを顧みずに行動に移る力を与えてくれるのが気概よ。でも安心して、『理性』の時よりもすぐに回復するはずだから」
ほどなくして、イプシロンが起き上がった。そして、また俺にひしと抱きついた。
「ウーティス様……」
「イプシロン、気分は悪かったりしないか? 大丈夫か?」
「はい、大丈夫です……ウーティス様、もう少しこのままにしていて良いですか」
「……かまわない」
あまり自分から物事を要求しない彼女がそのように言うのに、俺は驚いた。同時に、それを嬉しく思った。何かをしたい、何かを得たいという欲求こそ、人間に固有のものだ。
どうやら、イプシロンは着々と人間になりつつあるらしい。俺の霊魂によって。気恥ずかしさと共に、奇妙な心地よさを俺は覚えた。
抱き合う俺たちを観察していたキルケが、首をかしげて言った。
「うーん、それにしてもΕ-2号はなんでウーティスに抱きつくのかしら? この子があなたを好んでいるのは分かるけど、どうして霊魂を分与された後にこんな行動を……何か、心当たりはないの?」
俺は、キルケの口からイプシロンが俺を好んでいると言われて、少し赤くなった。しかし、イプシロンがなぜ俺を好いてくれるのか、思い当たるところはまったくなかった。
「分からない。思えばイプシロンは、初めて会った時から俺のことを避けなかった。それどころか俺を見つめて手まで取ってくれて……ああ、そう言えば」
キルケはメモを取りながら俺に言った。
「何? 何かあるの?」
イプシロンのさらさらとした銀髪を撫でながら俺は答えた。
「イプシロンのことを『ペネロペ』と呼んだ」
キルケの目が一瞬怪しく輝いた気がした。
「そう……なるほどね。なぜ、ペネロペと呼んだの?」
彼女の澄んだ真紅の瞳の輝きが、かつて俺が愛した人をなぜか連想させた。そう言うのは、何となく気恥ずかしかった。俺は言葉を濁した。
「なんとなく、そう呼んでみただけだ。それよりも、なぜあなたはイプシロンのことをΕ-2号と呼んでいるんだ。名前をつけてやらないのか。イプシロンを人間化すると言っているのに、名前をつけてあげないのは片手落ちではないか」
キルケは少しムッとしたようだった。
「私が人をどういう名で呼ぼうと勝手じゃない。あなたもイプシロンなんて記号的な名前で呼んでいるし。それに、この子にちゃんとした名前をつける時は決めてあるのよ。もっと大事な、決定的な瞬間に名前をつけようと思っているの。さあ、今日はもう良いわ。二人で外にでも行ってデートしてきなさい。私はデータを纏めないといけないから」
その日も良く晴れていた。俺とイプシロンは庭園を散策することにした。
人形たちの作業ぶりを観察し、それが機械というよりはかなり人間的な動きもすることに驚いたりしつつ、ぐるりと一周してからエントランスの前へ戻ってくると、そこにはスキュラがいた。
彼女はなぜか迷彩服に身を包み、手には猟銃と山刀を持っている。俺たち二人を見て、彼女は声を上げた。
「あ、イーちゃん! 今日はいつもの森へ行って狩猟をしてこようと思っているんだけど、イーちゃんも来ない? あ、人間は来ていただかなくて結構ですわ」
ここでスキュラは少し語気を弱めて、顔をやや俯かせて言った。
「ま、まあ是非にもとおっしゃるなら、ご一緒するのもやぶさかではありませんが……」
「良いのか?」
そう言う俺に、彼女はニヤリと笑みを浮かべて言った。
「かかりましたわね! 良いわけないでしょう、このアホが! ちょっとしおらしい態度を見せてやったらつけあがるとは、やはり海の民ですわね。そうやってこの共和国にも攻め込んで来たんでしょう」
俺は途端に気分が落ち込んだ。
「そうだ、俺はアホだ……厚かましい半魚人だ……」
急に自虐的なことを言い始めた俺に、スキュラは目を丸くした。
「はあ? どうしましたの、急に落ち込んで。変なものでも食べましたの?」
「お姉さま、これはまた、霊魂を私に分けてくださったことによる副反応で……」
「ああ、またですか。これほどまでに影響が出るとは、やはりお母様の研究は恐ろしいですわね……」
そこで突然スキュラは、イプシロンが俺にぴったりと寄り添っていることに気付いたようだった。犬耳をピンと立てて、途端に文句を並べ始める。
「ちょっと、ちょっと。あなたたち、最近ちょっとくっつきすぎじゃない? 何? 何なのかしら? 二人は付き合っているのかしら? イーちゃんはわたくしだけのものなのに」
俺の気分はもう復調していた。彼女に付き合うのもいい加減慣れてきた俺は、少しばかり軽口を叩いた。
「イプシロンはキルケのものでもあるだろう。というよりも、イプシロンはイプシロンだけのものだ。誰のものでもない」
スキュラはあからさまに眉をしかめ、そして大きな声を出した。
「まあ、生意気な口ぶりですこと! 何かしらそれ、いっぱしの彼氏気取りという奴かしら! クールな彼氏気取りか! ああムカつきますわ! ムカつく!」
「お姉様、お姉様」
いつぞや見たような光景が繰り返される。イプシロンに宥められて機嫌を直したスキュラは、腕を組みつつ何故か自慢気な表情を浮かべた。
「まあ良いですわ。今日は一人だけで狩りに行ってきます。イーちゃんなら大丈夫だとは思いますが、万が一ということがあっては困りますし。なにせあの森にはそこら中に対人地雷が仕掛けられておりますから。つい先日も人間の死体が一つありましたし……」
俺は彼女の口から不穏な言葉が漏れたのを聞き逃さなかった。
「人間の死体?」
スキュラは面倒くさそうな顔をしつつも説明してくれた。
「地雷にやられたのでしょう、片足を失った成人男性の死体が木の梢に引っかかっておりました。見つけた時にはもう虫がたかっていて、目も当てられない状態でしたわ。以前はそういうことはなかったのですが、今回で死体が見つかるのは二人目で……」
俺はさらに話が聞きたかった。
「それは、どういう人間だった? アカイア軍の兵士か、それともトロイアの兵士か」
スキュラは俺の問いに鼻で笑った。耳がぴこぴこと動いている。
「海の民の兵士のわけがないでしょう! ここから最前線までは五百スタディオンも離れているのですから! そんなことも分からないなんて、さてはあなたアホですわね?」
「そうだ、俺はアホだ、アホだった……」
「ああ、もう良いですからそれ……でも、トロイアの兵士でもありませんでしたわ。真っ黒な全身スーツを着ておりましたけど、ああいったものを我が国の兵士は装備しませんもの……あっ」
彼女は腕時計を見た。随分と話し込んでいることに気付いたようだった。
「いけない、いけない! こんなところで駄弁っていたら日が暮れてしまいますわ。それじゃ、イーちゃん。お姉ちゃんは出かけて来ますわ。今晩の料理も新鮮な鹿肉が出るように頑張りますわね」
慌ただしくその場を去っていく彼女を見送ってから、俺たちは遅めの昼食をとるべく大広間へ向かった。
俺たちが席につくと、人形たちが軽食と飲み物を運んできてくれた。パンにハムとチーズを挟み、玉ねぎをベースとしたソースをかけたものだった。
まるで大富豪のような生活だと、俺は改めて思った。この人形が商業的に実用化されれば、キルケは大金持ちになれるだろうに……だが、その当人の姿はなかった。どうやらまだ書斎にこもっているようだった。
「イプシロン、この人形たちは、全部で何人くらいいるんだ?」
俺が問うと、イプシロンは食事の手を止めて、すぐに答えてくれた。
「総数四百五十二体です。仕事がない人形は、地下の待機室で休んでいます」
「そんなにいるのか。驚いたな」
およそ歩兵二個中隊ほども人形がいる。それだけの数がいてこそ、この屋敷の防衛施設を活かすことができるのだろう。
やはりキルケは、何かを恐れて、それに備えているようだ。俺はパンを飲み込んだ。
午後、また二人で庭園を歩くことにした。
俺はイプシロンと花壇の近くを歩いていた。花壇にはバラが植えられていた。よく手入れされ整然と植えられているその様を見て、心が洗われる思いがした。
何より、イプシロンが可愛らしかった。
彼女は腰を屈め、赤いバラに顔を近づけて、目を瞑って香りを楽しんでいる。
大きな羽虫が立てるブーンという低い羽音。さっと庭園に吹き渡る涼しい風。風に靡くイプシロンの銀髪。静寂によって浮かび上がる彼女の美しさ。
麗しの姫君。そうではないだろう。彼女の美しさを表すのに、そんなありきたりな言葉では不充分なのも良いところだ。
それにしても、こんなにも穏やかな日常があるとは、俺は知らなかった。これまでの俺の日常は、叫喚と騒音に満ちていて、このような静寂とは無縁だった。
ましてや、女の子と共に過ごすなど。
俺にとって、かつてペネロペと過ごした記憶は一種の幻影と化していた。望んでも望み得ない幻影。ふとした瞬間心の中に浮かび上がり、確かに見ることはできるが手に触れることはできず、そしていつか目が覚めてしまう。
だが、イプシロンは確かにここにいる。ここで彼女は花と戯れている。彼女と共にいると、ペネロペが俺にくれたあの温もりと同じものが感じられる。
俺は、いつしか彼女に話しかけていた。
「バラが好きなのかい、イプシロン」
彼女は顔を上げた。彼女がかぶっているティアラの宝石が日光を反射した。
「……分かりません。でも、バラの香りは私をとても良い気持ちにしてくれます」
俺は微笑みながら彼女に言った。
「君は、ほかに何か好きなものはあるのかい」
俺の問いに、彼女は小首を傾げた。ふわりと髪が揺れる。
そして、数瞬の間を置いてから、その紅い目で俺をじっと見つめながら言った。
「……私は、ウーティス様が好きです」
どうしようもなく、俺は自分の顔が赤くなるのを感じた。
これは、いわゆる告白というものだろうか。なるほど、イプシロンは随分と人間らしくなってきている……埒もないことを俺は考えた。
それにしても、彼女になんと答えたものか。
思案し始めた、その時だった。戦場で俺が何度も耳にした、あの忌まわしい爆音が上空から聞こえてきた。
はっと顔を上げると、その音の主は共和国軍の戦術偵察機だった。双胴と双発の特徴的なシルエットを虚空に浮かべ、午後の日光を受けてジュラルミンの鈍い輝きを放っている。
「敵機だ!」
俺は叫ぶやいなや、イプシロンの手をとって走り出し、近くの大きな植木の陰に隠れた。
あの偵察機はいつも、飛び回って写真撮影を終えた後は面白半分に地上を銃撃し、それどころか小型爆弾を投下していったりもする。こちらの姿を見せるのは危険だった。
しばらく頭上の敵機の挙動を観察してから、ふとイプシロンの方を見ると、彼女はきょとんとした顔をしていた。
「ウーティス様……?」
ようやく俺は我に返った。そうだ、ここは戦場ではない。魔女の屋敷だった。ここではあの偵察機も敵機ではない。姿を隠す必要もないのだ。
だが、身に沁みついた習慣というものは消えないもので、俺はあの「敵機」が無害であるとは知りつつも、植木の陰から出ていこうという気にはなれなかった。
俺はイプシロンの小さな手を握りつつ、密かに偵察機の様子を窺い続けた。
「……妙だな」
そのうち、俺は不可解なことに気付いた。てっきり、あの偵察機はこの屋敷の上空を通過していくものだと思っていたが、しかし数分経っても空に留まっている。
それどころかピカピカと銀翼を煌めかせて、旋回を何度も繰り返し、円を描くようにして飛んでいる。
俺はその動きから、あの偵察機がこの魔女の屋敷を写真撮影していることに気付いた。もしや、この屋敷の防御設備を見ているのでは?
俺がそう思い至ったその時、敵機はそれまでの飛び方をぱったりと止めて、機首をぐっと下げて真っ直ぐにこちらへ降下してきた。俺は、その動きを良く知っていた。
あれは、爆弾を投下しようとする動きだ。
「イプシロン、伏せろ!」
ギューンという耳をつんざく爆音がどんどん高まってくる。俺はイプシロンに覆い被さって、地面に伏せた。
先鋭なシルエットが頭上を通り抜けたと感じた、その瞬間だった。
爆発音の代わりに、何か大きな、鈍い音がした。巨大で重たい何かが地面に突き刺さったようだった。大爆発と衝撃波に襲われると思っていた俺は、呆気にとられた。
爆音が遠ざかっていく。もう戻ってくることもなさそうだ。俺はその時になって初めて、イプシロンが俺の下敷きになりながら不思議そうな表情を向けているのに気付いた。
「すまない」
一言謝ってからすぐに起き上がり、俺は顔を背けた。さっき彼女が言った「好き」という言葉も合わさって、俺は気恥ずかしさを抑えるのに懸命だった。
そんな俺に対して、イプシロンはいつも通りだった。
彼女はすっくと地面から起き上がると、ゆっくりと視線を周囲に巡らせて、それからある一点を指さした。
「あれを見てください」
そこには牡鹿を模した背の高い植木があったのだが、今や頭から真っ二つに裂けていた。その足元に広がっていた花壇が直線を描くように滅茶苦茶になっていて、その先には黒々とした大きな円筒形の物体が横たわっている。
間違いなく、それは航空爆弾だった。重量百五十キロの爆発物。幸いなことに不発だったようだ。だが決して油断はできない。
「すぐにこの場を離れよう。それから、キルケに報告だ」
イプシロンの手を取って、俺はその場を走り去った。今はまだ爆発していないが、時限信管が仕込まれていないとも限らない。
それにしても、と俺は思わざるを得なかった。このようなことがあり得るのだろうか。自国の民の、それも魔女という社会的に高い地位にあると思われる人間の屋敷の庭に爆弾を投下するなど、考えられないことだ。
機体にトラブルが起きて、重量物を投下しなければならなかったのか? いや、それはあり得ない。
あの敵機は、最初からこの屋敷を偵察して爆撃する意図を持っていたのだ。
俺の中で、ここ数日間に感じた数々の疑問がぐるぐると駆け巡った。
魔女とスキュラとイプシロンしかいない、人のいなさすぎる屋敷と庭園。厳重な防備体制、周囲の地雷原。アスカニオスの来訪と、「弁明をすべき」だというメッセージ。偵察兵と思しき森の死体。そして、この偵察機。
もしかしたら、この屋敷は見えない何者かに囲まれているのでは? 俺はふと、そんなことを思った。
そして、その見えない何者かは、屋敷に攻め込もうとしているのでは? 俺が思ってもみない何らかの秘密を抱えた、この屋敷に。
しかし、キルケは言ったはずだ。「これでもう嫌疑は晴れた」と。
ならば、なぜ?
「ただちに人形たちを動かして土嚢で爆弾の周りを囲んだわ」
俺たちが報告するまでもなくキルケは状況を把握していたようで、不発弾に対する処置を既に終えていた。
俺が口を開こうとすると彼女はそれを片手で制して、深く溜息をついた。
「あーあー、言いたいことは分かっているわ。でも今は何も訊かないでちょうだい。どうせ真相を聞いたところであなたにはどうしようもないでしょうし、それに今のあなたには霊魂を分けるという重大な任務があるのだから、余計なことに気を遣わないで欲しいのよ」
それでも俺は言わないわけにはいかなかった。
「……あなたは何者かに、何か大きな存在に命を狙われている。それは間違いないと思う。アスカニオスもそれを婉曲的に伝えに来たのだろう。だが、どうして逃げない?」
キルケは煙草に火をつけた。今更ながら気付いたが、彼女は指先から小さな炎を出して、それで火をつけていた。
彼女は深々と一服した後に答えた。
「そりゃ逃げられるものならば逃げたいのよ。でも、その前にΕ-2号の霊魂を何としてでも安定させないといけない。こそこそと逃亡生活を送りながらそれを達成するのは不可能だわ。第一、逃げたとしたら、それは『自分には罪があります』と自分から認めたことになってしまう。やってもいないことで犯罪者扱いされるのなんて最低よ」
彼女は言葉を続けた。
「それに、占いでも可能な限りここから離れるなと出ているし……」
「占いだって?」
火の点いた煙草を指に挟んだまま、彼女は答えた。
「あなたも良く知っているあの占いよ。銀貨を六枚投げる、あれ。すごく良く当たるのよ。言ったでしょ、あなたを森で捕まえることができたのも占いのおかげだって……」
彼女はまた煙を吸い込んで、長々と吐き出した。
「でも、もう四の五の言っていられる場合ではないのかもね。アスカニオスはたぶん、上手いこと向こう側に伝えてくれたんでしょうけど、やっぱりダメだったのかしら……それに、逃げるということなら今でも逃げ続けているようなものだし……明後日、また霊魂を分けてもらうわ。今度は『欲望』の要素からね」
俺はまた問いを発した。
「それで、イプシロンが魔法を使えるようになるには、あとどれくらいかかるんだ?」
彼女は驚いた目をして、ふっと煙を吐き出した。煙が書斎の天井へと昇っていく。
「あら、気づいたのね? そうよ、Ε-2号の霊魂を安定させて出力を向上させるのは、魔法を使えるようにするため。そしてそれは……そうね、これで全工程の二十パーセントといったところかしら。だから最短でも三週間はかかるわね」
「まだそれだけなのか」
驚き呆れる俺に、彼女はやれやれといったふうに頭を振りながら言った。
「だって、あなたの霊魂を損なわないようにゆっくりとやっているのですもの。前にも言ったけど、あなたは稀に見るほどの上質で立派な霊魂を持っているわ。おまけに、これが何より大事なんだけど、今までどんなに他の人工霊魂を分け与えてもΕ-2号の霊魂には何も効果がなかったのに、あなたの霊魂はまさにぴったりなの。まるで『霊魂で繋がれた伴侶』のようにね。おかげで彼女の安定度と出力は飛躍的に高まった。驚異的なスピードでね。でも、一度に分けられる量はこれが限界なのよ」
「他に方法はないのか?」
そう問う俺の目を、キルケは見つめ返した。
「あるわ。あなたの霊魂の半分以上を一度に与えれば、彼女はすぐにでも本来の設計通りの力を発揮するでしょうね。でも、そんなことをしたらあなたは死ぬか、良くても寿命が大幅に減るわ」
「大幅に、とは?」
彼女はやや俯きながら答えた。
「……そうね、例えば八十歳まで生きられるところが、三十歳までになるわね。半分以上減っちゃうのよ、寿命が。そんなの嫌でしょ?……」
☆☆☆
翌日は休養日だった。俺は部屋にやってきたスキュラから話を聞いていた。
「あの航空爆弾ですが、不可解なことに全部で三つあるはずの信管が、どれ一つとして装着されておりませんでした。爆撃そのものが目的ではなく、なにかこう、爆弾を落とすことによって何かを伝えようとしているような、そんな印象を受けましたわ」
「爆弾はどうするんだ?」
スキュラは腰のラチェットレンチを持ち、それでもう片方の手をぽんぽんと叩いた。
「爆破処分したいところですけど、そんなことをしたら庭園がめちゃくちゃになります。信管はないのですから、あとは平原にでも運びましょう。でも、百五十キロもあるから運ぶには大きな起重機が必要ですわ。わたくしのコレクションの一機である工兵用のΝΣならば運べるでしょうけど、手荒なことをして爆発でもしてもらったら困りますし。わたくしは明日の朝早くにここから一番近いトロイア第二十七都市へ行って、起重機の手配をしてきます。ああ、こんなことなら自前のものを用意しておくのでしたわ……」
翌早朝、また霊魂の分与が行われた。一連の施術にはもう慣れてきたが、しかし霊魂が抜けた後の唐突な変化にはまだ戸惑いを覚える俺だった。
その日は欲望の部分から霊魂が抽出された。術が終わった後、キルケは俺に話しかけた。
「どうかしら、気分は? これを見て何か思わない?」
彼女はいきなり白衣を脱いだ。
その下には露出度の高い水着しか着ていなかった。
大きな胸が布面積の小さな水着に包まれていて、窮屈そうに存在感を主張している。目に毒なほどの白い肌の色が俺の視覚を圧倒した。
だが、俺はそれを見てもまったく思うところがなかった。
「さあ……なんでそんなものを着たんだ」
彼女は俺の返答に頷き、またメモを取った。
「よろしい、欲望の著しい減退が見られるわね。今は食欲もないはずよ」
俺は水着姿の彼女をぼんやりと眺めていた。
イプシロンとは異なるが、彼女の肉体も間違いなく美の範疇に含まれるだろう。豊かな胸に、細い腰と白い肌。水着のせいでそれが際立っている。だが何も感じない。
彼女がメモを終えたのを見計らって、俺は今日感じた一つの疑問をぶつけることにした。
「そういえば、なぜわざわざこの濾過機のような機材を使う必要があるんだ。魔法というものは杖と呪文と魔力があれば行使できるのではないのか」
俺の問いを聞きながら、キルケは白衣を身に纏った。そして答えた。
「もちろん、魔法を使うだけならこんなマスクや濾過器は必要ではないわ。でも、私たちが扱っているのは霊魂なのよ。マスクを使って一度に吸い出される量を制限しないと危険だし、それに濾過器を通さないと記憶の混濁が起こる可能性がある」
「記憶の混濁?」
彼女は小さなくしゃみをして、体をブルブルと震わせた。
「うう、やっぱり白衣に水着とかこの季節でもちょっと寒かったわ……今までの医学的な常識では記憶というものは人間の脳が司っているとされていたのだけど、霊魂の研究が進展するにつれて、記憶は霊魂にも宿るということが分かってきたのよ。ほら、たまに『私には前世の記憶がある』なんて言う人がいるでしょ? これまでそう言う人は変人扱いされただけだったけど、でも本当に霊魂が前世の記憶を保持している可能性があるの」
「濾過器を通さないと、記憶が相手へ混入するということか」
俺の言葉にキルケは頷いた。
「その通り。記憶はその者の人格を保つ上で非常に重要な意味を持っているわ。人間というものは意識しているにせよしていないにせよ、『私は私である』と信じている。私という存在が地底の奥底に眠る巨大なミミズの見ている夢だとして、私たちがそれに何らかのきっかけで気付いたとしても、『私は私である』と信じている限り自我を保つことはできるわ。そして、記憶は現在の私がなぜこうなっているのかを説明してくれる。なぜ『私は私である』のか、その理由を教えてくれるのよ。それが入り混じってしまったらどうなるかしら?」
彼女は白衣を脱いで厚手のセーターを着てから、最後に言葉を付け足した。
「まあ私はあまり記憶そのものについては詳しくないからこの説明があっているかは分からないけど、でも記憶の混入を防がないといけないのは確かね。さあ、今日はこれでおしまいよ。明後日は最初に戻って、理性からまた抽出するわ。Ε-2号とまたデートでもしてきなさい。仲良しカップルさん」
キルケはまた、小さなくしゃみをした。
「いけない、本格的に寒くなってきたわ。ちょっと着替えてくるわ」
そう言うと、彼女は寝室へと向かった。彼女が部屋から出たその時に、電話が鳴った。
「あら、電話だわ。ウーティス、あなたが代わりに出てちょうだい。大丈夫、ブヒブヒ言っていれば勝手に切って、また折り返し電話し直すでしょうから」
また厄介なことを言うな、と思いつつ、俺は受話器を手にして耳に当てた。
「ブヒブヒ」
「
アスカニオスだ。俺の心臓は早鐘を打った。
「君がそこにいるということは……姉さんはまだ逃げてないのか。参ったな。ここ数日、電話をしようと努力はしたんだが、政治委員の監視が厳しくてね。そうだ、君は人語を解するらしいね。君から姉さんに伝えてくれないか。先日、君の屋敷に偵察機が爆弾を落としただろう。あれは私からの最終警告だったんだ。爆撃をされれば、流石の姉さんでもきっと逃げてくれるだろうと思ったんだが……申し訳ない。こちらとしてはなるべく穏便な報告を上げたんだが、指導者様の決意は固かったらしい。こちらが何を言っても、もう聞く耳を持たないんだ……」
「ブヒブヒ」
何か非常に重大なことをアスカニオスは伝えようとしているようだ。それにブタの鳴き真似で答えるのがもどかしい。
しかも、突然通話の調子がおかしくなった。
「もう時間……い。この回線も傍受されて……すぐにでも……不通に……作戦が決まったんだ。すぐにでもそちらへ……麗しの姫君がいるのな……伝えてほし……すぐに逃げてくれと。さもなければ……彼女は……連れ去られる……もしそうなら、その時は私の手で……」
俺はその時、思わず声を出していた。
「彼女は、イプシロンは、何があっても俺が守る」
そう言うと、俺は受話器を置いた。施術後で欲望が弱まっているはずなのに、「イプシロンを守る」という言葉がすんなり出てきたことに俺は驚いた。
だが、電話を切って数秒経つと、そこはかとなく後悔の念が湧いてきた。
しばらく俯いて、キルケにどのようにして伝えるか迷っていると、彼女が笑いながら部屋に入ってきた。手には小さな受話器を持っている。
「なかなか良い啖呵を切ったじゃない。カッコよかったわよ。さっきの通話については、この子機から全部聞いていたわ。それにしても警告だなんて、あの子も随分と私のことを気にかけてくれているのね。少し感動したわ。さて……」
「逃げないのか? あの様子だと、すぐにでも切迫した事態が起きそうな気がするが」
俺がそう言うと、キルケは力なく首を左右に振った。その瞳には、これまで見たことがないほどの悲しみと憂愁の色が湛えられていた。
「言ったでしょう。逃げるわけにはいかないって。私はアイネイアス将軍や、アスカニオスみたいに器用に、辛抱強く生きられない。一度逃げ出したら、後はもう逃げ続けるだけの人生になってしまいそうだから……」
キルケは声の調子を上げた。そうやって自分を励ましているようだった。
「さあ、今日も二人でデートをしていらっしゃい。大丈夫、アスカニオスは昔から心配性だから。今回も大げさに物事を捉えているだけでしょう。きっとね。そう、きっと……」
それからはまたイプシロンと過ごすことになった。彼女はしずしずと廊下を歩いている。俺はその隣にいる。
俺は立ち止まった。彼女も同じく歩みを止め、俺を見つめてくる。
どうしても気になっていたことを、俺はイプシロンに尋ねることにした。ただし、その言葉は明瞭さを欠いていた。
「あの、その、イプシロン……」
「はい、ウーティス様」
澄んだ目で俺を見てくれるイプシロンに、俺は気おくれのようなものを感じていたが、それでも問いを止めることはなかった。
「その、なんだ。イプシロン。君は、その……俺のことが……好き、なのか?」
イプシロンは無表情のまま、静かに頷いた。
「はい。私はウーティス様が好きです」
やはり、あの時の彼女の言葉は聞き間違いではなかったようだ。だが、予期していた言葉とはいえ、どうしても顔が赤くなってしまう。
そんな俺に、珍しいことにイプシロンは、自分から言葉を発した。
「私はウーティス様が好きです。ウーティス様は、私のことは好きですか?」
それに答えることはできなかった。代わりに、俺は無言で彼女の手を握り、また廊下を歩きだした。イプシロンは不満の色もなく、ついてきてくれた。
本当に、イプシロンは随分と人間らしくなってきている。
歩きつつ、俺は自分の表情が緩んでいるのを感じた。同時に、いつの間にかこの日常に満足感を覚えている自分に気付いた。
最初は何としてでもここから脱出し、アカイア軍の前線に辿り着いて、原隊へ小隊長やΓ-43号たちの最期を伝えなければならないと固く決意していたが、それが今ではだいぶ薄れてきている。
今日の施術で霊魂の「欲望」の要素を抜かれたからではないだろう。いつか必ず帰りたいとは思っている。だが、別にそれは今すぐでなくても良いとも感じているのだ。
ここでキルケに協力し、スキュラのお喋りに付き合いつつ、イプシロンと毎日庭園を散策する。それは何ともささやかで、しかし得難いもののように思われた。
今この時でも前線では死者が出ているだろう。友軍の誰かが、いや敵軍の兵士も、もっと生きたいと切望しながら命を失っているだろう。
一方で俺は戦いから離れて、安穏と毎日を過ごしている。俺はそれを恥とも思えなくなっていた。
むしろ、この平穏を乱すものが出現するのなら、全力をもってその者を排除してやろうという気持ちにさえなっている。アスカニオスからの電話は、その気持ちをさらに強めた。
今、この屋敷を取り巻いている見えない敵たち。機会が来れば、俺は断固として戦うだろう。その時は、もう間近に迫っているかもしれないが、怖くはない。
それだけではない。俺は、イプシロンを思うことが多くなった。
寝ても覚めて彼女は近くにいて、俺にぴったりと寄り添っている。彼女は俺の霊魂を得て日々強くなり、いつかアカイア海洋連合にとっての一大脅威となるべく完成度を高めているにもかかわらず、いつしか俺は彼女のことを守るべき対象として認識するようになっていた。
なぜか? それは間違いなく、日々人間らしさを深めていく彼女と共に、これからも生きていきたいと、俺が望んでいるからだ。
きっと、あの時が良くなかったのだ。
あの時、初めてイプシロンと会った時、彼女のことを「ペネロペ」と呼んだのが良くなかった。
イプシロンをそう呼んだことで、ペネロペという名の鍵が外れ、俺の心の棺桶の中から、また人間的な感情が這い出てきてしまったようだ。
ただの人形になろうと誓ったはずなのに。臆面もなくそれを口にできるなら、俺は言っていただろう。「イプシロンが愛しい」と。
あいにくその日は雨だった。ぶ厚い雲が大空を覆い、大粒の雨が大地へ降り注いでいる。二日前のように偵察機が飛んでくることもないだろう。
しかし、傘を差しながら庭園を歩くというのも悪くないのではないか。雨の中のイプシロンは、いったいどういう姿を見せてくれるのだろう……
「イプシロン、外に行こうか。傘を差して、散歩をしよう」
俺の提案に、イプシロンは頷いてくれた。
俺たちは一つの傘に一緒に入って、身を寄せ合いながら庭園を歩いた。雨の日には人形たちも外には出ていなかった。
彼女がそっと手を重ねてきた。雨風を受けたせいか、その手は冷たかった。俺は温めるように手を握り返した。
呼吸だけで、俺たちは会話をしていた。
このような穏やかな時間も、果たしていつまで続くのだろうか。そんな不安な気持ちも、イプシロンと隣り合っているだけで溶けて消えてしまう。
しばらく庭園を行くと、離れたところに土嚢の山が見えた。あの下には無力化された百五十キロの爆弾が横たわっている。
「あっ」
突然イプシロンが声を上げた。遠くの方を指さしている。
「あれを」
見ると、雨が降りしきる平原を通る一本道を、何かが猛スピードでこちらへ走ってくる。視力に優れるイプシロンはそれが何であるかすぐに分かったようだが、俺にはしばらく時間がかかった。
「あれは、車か? こちらへ来る」
「お姉様の車です。何かあったのでしょうか」
十数分後、車は盛大に水飛沫を撒き散らして、ブレーキ音も物凄く、庭園の入口に大慌てといったふうに停車した。
「大変ですわ! 大変です!」
俺はギョッとした。車の後部は弾痕だらけになっていて、窓ガラスは一つとして無事なものがない。
そんな車の運転席から出たスキュラは、被っていた黒いニット帽を乱雑に脱ぎ捨てながら叫んだ。帽子の下から出て来た犬耳は緊張したように逆立っている。
「どうしたんだ? 何があったんだ?」
俺が静かに問うと、スキュラは顔を紅潮させて大きな声で言った。
「ついに奴らが攻め込んできますわ!」
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