第四章 魔女からの奇妙な提案
「ほら! きりきりと歩くのですわ!」
俺の背後にぴったりとついて歩いているスキュラが急き立ててくる。
彼女はもう半人半魚類の怪物の姿をしておらず、頭に犬耳こそ生えているが普通の少女に戻っている。身に纏っているのは白いバスタオル一枚だけだが。
俺の前をイプシロンがしずしずと歩いている。
彼女も着ているものはバスローブだけだ。ふと俺の目に彼女の大きなお尻の膨らみが映った。
揺れている。浴場で彼女の生まれたままの姿を見てしまったからか、はじめこそ遠慮して視線を逸らしていたものの、次第に目は釘付けとなってしまった。
そんな俺の浮ついた精神状態を察知したのか、スキュラが後ろで大きな声を張り上げた。
「良いですこと!? お母様はわたくしたちと違ってとても厳しく、容赦のないお方でございますわ! 今イーちゃんのかわいいお尻をデレデレと眺めているようなだらしない心のままで対面したら、きっと酷い目に遭いますわよ!」
そう言うなり彼女は俺の臀部に強く蹴りを放った。俺はよろめいて壁に手をついたが、文句は言わなかった。
スキュラの言うとおり、ここからは気を引き締めなければならない。俺がこれから会うのは魔女なのだ。
機械文明のアカイア海洋連合においては、神々や妖精と同じように空想上の存在だと思われている魔女。魔法を自由自在に操り、心を狂わせる毒薬を調合し、醜悪な笑い声を上げて夜空を飛び回る老婆。
いったい俺はどのような目に遭うのだろうか?
先ほど「誰もあなたを傷つけたりはしない」と姿なき声は言っていたが、しかしそんなことを額面通りに受け取れるわけもない。
俺がしでかしたことは重大だ。この屋敷の主である魔女ならば、何らかの罰を俺に下してもおかしくはない。スキュラに殴られて頭にできた瘤一つよりも、遥かに重い罰が。
そう考えている間にも、俺たち三人は暗い廊下を抜け、人一人だけが通れるような幅の狭い階段を昇った。
そして、それを昇り切った先にある鉄の扉をイプシロンが開けると、俺の目に強い光が飛び込んできた。
そこは屋敷の屋上だった。抜けるような青空に、白い雲が千切れたように飛んでいる。吹く風は穏やかで、爽やかな空気を肺に吸い込んだ俺は思わず軽く身震いをした。
一瞬の間、呆けたようになっていた俺の耳に、女性の落ち着いた声が聞こえてきた。
「いらっしゃい。よく来たわね」
最初は逆光になっていてよく見えなかったが、ちょうど雲が太陽にかかったことで、俺は声の主をはっきりと見ることができた。
それは意外の一言に尽きた。俺は魔女というからにはきっと大きな鉤鼻をした老婆で、薬品がしみ込んだ黒いローブを身に纏い、大きな杖を持っているものだとイメージしていた。
しかし俺の目の前の女性は、それとはまるで正反対だった。
美しく艶のある長い黒髪は風に靡いていて、深い知性を感じさせる切れ長の目は俺を観察するように見つめている。
年の頃は二十代後半だろうか? 黒いスーツの上にアイロンがしっかりとかけられた白衣を着ていて、長く優美な脚を組んで椅子に座っている。
これが魔女キルケか。魔女にしてはあまりにも美しい。
事前のイメージと現実の姿との乖離に驚いている俺をよそに、彼女は声を発した。
「Ε-2号、スキュラ、ご苦労様……って、あなたたちなんて格好をしているの。それじゃ風邪をひくでしょう、下に戻ってちゃんと服を着てきなさい」
イプシロンとスキュラが頭を下げた。同時に、二人は可愛らしいくしゃみを一つした。
「寒い……」
「やっぱり外は風が冷たいわね……イーちゃん、また一緒にお風呂に入り直しましょう。今度はあの人間抜きでね。それではお母様、わたくしたちはこれで失礼いたしますわ。おい、人間! お母様に舐めた態度を取りやがったら今度こそぶち殺しますわ!」
二人はまた鉄の扉を開けて去って行った。音を立ててそれが閉じた後、魔女は俺に一脚の椅子を指して言った。
「さあ、お掛けなさい」
俺は言われるままに椅子に腰かけた。俺と魔女は一対一で、テーブルを挟んで対面した。
俺が見据えると、彼女は呟くように言った。
「……澄んだ瞳ね。意外だわ。もっと濁っているものかと思った」
その言葉を俺が理解する間もなく、魔女は言葉を続けた。
「はじめまして、なんて改まった言葉遣いをするのは私の好みじゃないけど、まあ何事も出だしが肝心だしね。だからはじめまして、O-38-22-2043号。私の名はキルケ。あなたたち海の民の一般通念ではどうなっているか知らないけど、この国ではいちおう、魔女と呼ばれているわ」
魔女が俺のセメイオンとしての正式名を知っているのに驚いて、俺は不躾にも思わず問いを返していた。
「なぜ? なぜ俺の名前を知っている?」
彼女はそう訊かれることを予想していたようで、妖艶な笑みを浮かべると、豊満な胸の谷間から鎖で繋がれた小さな真鍮のプレートを取り出した。それは俺の認識票だった。
「これにバッチリ書いてあったのよ、O-38-22-2043号って。イタケー出身、セメイオン、血液型はA型。それにしても呼びづらい名前ね。これじゃ円滑な会話ができないわ。私はこれからあなたのことをなんて呼べば良いのかしら?」
キルケは微笑んでいる。からかわれているようだが少なくとも敵意はない。俺は答えた。
「ウーティス。俺のことはウーティスと呼べば良い」
そう名乗る俺に、彼女は一瞬だけ驚いたような表情を見せた。
「……案外素直に答えるじゃない。敵である私に名乗る名はないとか言って、憎しみの感情を隠さずにぶつけてくるかも、なんて私は思っていたんだけど」
「今まで敵を憎んだことはない。敵だからと言って憎む道理がどこにある」
「あら……なるほど、そうね」
魔女は驚いたように目を見開いた。日の光を浴びたその目が妖しく輝いたかと思ったその瞬間に、彼女はもう取り繕って、次の言葉を発していた。
「それにしてもウーティスって言うのね。これまた意外だわ。もしかしたら……いえ、それはまた後で明らかになるでしょうね。ああ、ごめんなさい、ただの独り言よ」
魔女というのは人前で独り言を言うのか。そう言ってやろうと思った俺の機先を制するように、彼女は続けて言った。
「ところでウーティス、まずは無事のご回復おめでとう、と言っておくわ。私たちがあなたをあの森で捕らえた時、あなたは瀕死で、その上クサントス原虫感染症にも罹患していたから、正直なところ治療してあげたとはいえ、生き延びるか死ぬか微妙なところだったのよ。それに私はすぐに首都へ発たないといけなかったし……でも、この大暴れを見るとすっかり元気になったようね。もしかして、神様のご加護でもあったのかしら」
「クサントス原虫感染症?」
俺が尋ねると、彼女はコツコツと繊細な指でテーブルを叩きつつ、よどみなく答えた。
「スカマンドロス川流域特有の感染症よ。一種の風土病ね。症状については、あなたはもうよくご存じのはずよ。共和国には特効薬があるから問題ないけど、海の民には大変だったでしょうね……」
そこまで話してから、彼女は一旦言葉を切った。
「そうだ。お茶でも飲んでとか言っていたのに、私としたことが用意するのを忘れていたわ。これからたくさん話すことがあるのに、お茶もないんじゃ喉が渇いちゃうじゃない」
キルケは得意げな顔をして、指をパチンと軽く鳴らした。
しかし何も起こらない。どういうことだ、という意図を込めて俺が見つめると、彼女は少しバツの悪そうな顔をした。
「……何を期待しているのかしら。いくら私が魔女とはいっても、そんなすぐには来ないわよ。海の民は知らないだろうけど、魔法は万能じゃないの。そうね、あと五分はかかるわ。その間にお話を続けましょう……それにしてもあなた、この数日で随分と私の娘たちと仲良くなったようね」
「……イプシロンには感謝している。だが、スキュラには殺されかけた」
非難めいた俺の返事に、キルケはまたもや微笑んだ。
「それはそうでしょう。あの娘は自分の体を見られるのが大嫌いなのだから。ましてや男に見られるなんて、大変な屈辱だったでしょうね。真の姿になって理性が弱まったあの娘に殺されなくて幸運だったわ……」
彼女は言葉をいったん切ると、思いついたように言った。
「そうだ、ここで一つ、ΝΣ乗りとしての感想を聞いてみたいわね。どうだった? あの『アイギス』は。すごく良いものでしょう?」
アイギス、イプシロンが操っていた機体だ。ぶっきらぼうに、俺は短く答えた。
「あの森でも、中庭でも、苦労させられた」
俺が強がっているのが分かったのだろう、キルケは笑った。
「それは確かに苦労させられたでしょうね。『アイギス』はあなたたちのΝΣを凌駕するために開発されたのですから。それに、スキュラが手ずから調整したものですしね」
スキュラが、あの機体を? そのことに俺は驚いたが、それよりも気になることがあった。
「……俺はこれまでに、『アイギス』と似た機体と戦ったことがある。俺たちはそれを、白い化け物と呼んでいる。純白の装甲に身を包み、盾と長剣を持った俊敏な機体だ。何か知らないか?」
真剣な俺を余所に、彼女は「あら」とごく軽い反応を返した。
「そう、あれを『白い化け物』と海の民は呼んでいるのね。もちろん、私はそれについて少しは知っています。でも、話すとちょっと長くなるし……」
その口ぶりから、俺は魔女が少なくともこの場でその話を続ける気がないのを悟った。黙ってしまった俺に向かって、魔女はふうと溜息を一つついた。
「それにしてもスキュラには困ったものね。せっかく私が強靭な肉体と強い能力を与えてあげたのに、あの娘はそれを嫌って、ほうぼうから集めた鹵獲兵器を使っていつも人形遊びばかりしている……そのおかげで私はとても助かっているから、あまり文句も言えないんだけど」
俺は彼女の話に割り込んだ。
「肉体と能力を、与えた? どういうことだ?」
「それは文字通りの意味で、私が与えたのよ。私がスキュラという娘を創造したの。このお腹から産んだわけではないけど、あの娘をあのような存在としてこの世に産み出したのは私よ。いえ、産み直したといったところかしら」
俺は彼女の言葉が今一つ理解できなかった。
「しかし怪物というのは、冥界だの地の底だの辺境だのから連れてくるものだろう? 人間が怪物を産み出すだなんて……」
キルケは声を立てて笑った。
「あらまあ、超巨大艦船を一つの国家として生活している割に、海の民というのは随分と空想がたくましいのね。でも、その考えは違うわ。いくらこのトロイア共和国が魔法文明を誇っているとは言っても、この国土のどこをひっくり返したって怪物だの魔物だのを見つけることはできない。あれらは作り出されたものなの。人工的にね」
怪物を、人工的に? 驚いて言葉も出ない俺に、彼女は続けて語る。
「ちょっと考えればあなたたちにも分かるはずよ。あなたたちがこれまでに占領した地域で、怪物の類は見つかったかしら? どこかに住処の痕跡はあった? なかったでしょう?」
その通りだ。軍は敵の怪物と初遭遇した後、弱点を探るためにそれらの生態調査を行おうと研究者を占領した各地へと派遣したが、結局何も見つけられなかったらしい。
「共和国は兵器として怪物を開発し、生産し、実戦投入した。あなたたち海の民の機械力に対抗するためにね。そして実際にかなりの戦果を挙げている。開発者の一人として私も鼻が高いわ……癪でもあるけど」
開発者だと? この女性が戦場で数多のアカイア軍兵士の命を奪い去った、恐るべき怪物共の生みの親だと言うのか?
睨む俺に、彼女は平然として言った。
「あら、せっかく可愛い顔をしているのに、そんなに怖い目をしないでちょうだい。なにも私だって、あなたたちを殺してやりたいから怪物を開発したわけじゃないのよ。というより、その程度の目的に限りある知力を傾けて研究をするほど、私の精神性は矮小ではないわ。あれは、そうね。言うなれば、余禄といったところよ。私の本当の研究のついでね……あら、やっと来たようだわ」
キルケがそう言うと、鉄の扉が音を立てて開いた。俺が振り向くと、これまでに何度も見た木製の人形が何体もやってくるところだった。
盆にティーセットを載せて、人形たちは次から次へとこちらへ歩いてくる。人形たちはてきぱきとした動きで茶の用意をし、それが終わると、一体だけを残して後は去っていった。
魔女はカップを手に取ると、艶めかしい笑みを浮かべて、湯気の立つ琥珀色の茶を一口だけ口に含んだ。
「うふふ……って、あちっ! あつ、あっち! ちょっと熱すぎじゃないこれ! また調整しないと……あっ」
俺はそんな彼女を呆れたように見ていた。
最初は妖艶な美女だと感じ、その外見通りのミステリアスな性格をしているのだろうかと思っていたが、どうやらけっこう迂闊な性格をしているらしい。
俺の視線の意味を理解したのか、彼女は取り繕うように咳払いをした。
「ごほん、ごほん……さあ、あなたも遠慮せずにどうぞ。この通り、毒は入っていないわ」
それでも俺がなかなか手をつけずにいると、彼女は溜息をついた。
「いったい海の民の中で魔女というのはどんなイメージになっているのかしら。『お茶や食事に毒を仕込んでいて、客人をブタに変えてしまう』とか? まあ安心して。毒なんて盛るわけがないわ」
「どうして?」
俺が問うと、彼女は四角い焼き菓子に手を伸ばしながら言った。
「なぜなら、私が魔女だからよ。魔女はその類まれなる知力と卓越する魔力で人に恵みをもたらし、人間社会を幸福へと導く存在。だから客人に毒なんて盛るわけがないわ。あ、もしかしてお酒のほうが良かったかしら?」
「酒は飲まない」
俺はカップを手に取って、恐る恐る口へ運んだ。
茶の種類など詳しくないが、それがかなり上等なものであることは香りと味で分かった。別段そこまで熱くはなかったが。
キルケはようやく俺がお茶を飲んだことに満足したようだった。
「少し温度が高すぎるけど、なかなか良く淹れられているでしょう? これは全部、私の人形たちがやったのよ……って、あらあら、全部飲んじゃった。お代わりはいるかしら?」
こういう場合、茶は少しずつ飲むものらしい。そういえば、ペネロペは茶の飲み方までは教えてくれなかった。俺は、空になったカップに茶を注ぐ人形を見ながら言った。
「これはいったい、何なんだ。人形が勝手に動くとは、これも魔法の一種なのか? トロイア共和国ではこういう人形を使うのは一般的なことなのか?」
俺の問いに、キルケは得意げな顔をした。
「うふふ。答えてあげましょう。人形が勝手に動くのは魔法によるものだわ。でも、共和国においても自律式人形は一般的ではありません。これは、私の天才性の発露の一端、私の研究の成果の一部、私独自の魔法の一つよ」
「独自の魔法?」
彼女はその紫水晶のような瞳で、俺の目をじっと見つめながら答えた。
「私の専門は
俺はその言葉を信じられない思いで聞いていた。
「霊魂だと?」
霊魂を思い通りに操る? 生み出す? いや、そもそも霊魂というものが本当に存在するのか?
「信じられない、というような顔をしているわね。まあ機械文明国家たる海の民にとってはそうでしょう。霊魂が形而上学的存在ではなく、形而下のものとして現象的に把握可能であるとは到底考えられないのではないかしら? あ、ちょっと言葉が難しかったかしら……まあ、とにかく、あなたたちが巨大な艦船を建造したり新型のΝΣを開発したりするのと同じように、私は霊魂を物質的に捉えて手を加えることができるのよ」
嘘だ、とは思えなかった。霊魂についてはペネロペがよく俺に話してくれていた。
「あなたは輝く霊魂を持つ人間なのだから……」
ペネロペの優しい言葉が俺の頭の中に懐かしく響く。だが、それを打ち消すように、一つの醜悪なイメージが浮上した。
そうだ、俺はその実例を既に見ている。俺の口は自然と動いていた。
「それは……あの死霊兵もそうなのか。奴らも人工霊魂によるものか」
キルケは頷いた。
「死霊兵、あなたたちはそう呼んでいるのね。共和国軍での正式名称は『再生兵』よ。あなたの言う通り、あれにも人工霊魂が込められているわ。敵に突っ込む、近づいたら銃を撃つなどの単純な動きしかできないけどね。私の人形たちと一緒よ」
俺の脳裏にΓ-43号の最期がまざまざと蘇る。そんな俺を見て彼女は少し表情を改めた。
「どうやら、あなたも相当あれに苦しめられたようね。そうよ、共和国軍は再生兵を自爆攻撃専門の兵器として運用しているわ。敵に心理的動揺を与えるために、アカイア軍の兵士の死体を利用してね。それは私の本来の意図ではなかったけれども……」
不思議なことに、俺は彼女を非難する気にはなれなかった。言葉を綴る彼女からどことなく後悔の色が見られたからだった。
つくづく、ここに来てから俺が出会う「敵」は敵らしくないと思う。敵である俺に対して茶でもてなし、心情の一端をのぞかせるトロイア人に対して、俺はどうしても反感を抱くことができなかった。好感というにはまだ程遠いが、少なくとも俺の中での警戒心は薄れた。
俺はさらに問いを投げかけた。
「スキュラもあなたが産み出したと言ったな。彼女も人工霊魂を持っているのか? いや、彼女だけではない。怪物も、人工霊魂を有しているのか?」
彼女ははっきりと驚きの色を浮かべた。
「あら、『あなた』なんて呼んでくれるなんて。てっきり『アンタ』とかって呼ばれるものかと思ったわ。それはともかく、あなたの考えは『部分的には』合っています。共和国軍が運用する怪物はすべて霊魂の研究によって開発されたものなの。スキュラもその通り、私が彼女の霊魂を作り変えたことで産み出された存在よ」
思った通りだった。だが、まだ肝心なことを訊いていない。
俺は問いを発する前に、茶をぐっと飲み干した。いつの間にかそれは冷めていたが、渇きかけた喉にしっかりと潤いを与えてくれた。
「……イプシロンも、彼女もそうなのか」
キルケはにっこりと笑顔を浮かべた。
「そう。Ε-2号は私の最高傑作にして、現在の私の専らの研究対象よ」
それを聞いても俺の心の中にはまだ疑問が残っていた。
「しかし、彼女は怪物ではない」
彼女は軽く首を左右に振った。
「確かに、見た目は怪物ではないわ。でも、秘められた力は怪物以上のものになる、はずよ」
「はずとは?」
しばらくの間、沈黙が俺たちの間を満たした。
気付けば既に日は傾いており、アプロス山脈の山の端は蜜柑色と紫色に彩られている。
俺はキルケから視線を外して遠くを眺めた。夕陽が降り注ぐ平原には一本の道が走っていて、そこを行く者は誰もいない。右手に見える森に鳥の群れが音もなく舞い降りるのが見えた。
ややあって、キルケは言葉を発した。
「一つ提案があるのよ。とても大事な提案よ。というか、そもそもあなたをお茶に呼んだのもそのことについて話そうと思ったからなんだけど……いつの間にかけっこう時間が経ってしまったわね」
「提案とは妙なことを言う。俺は捕虜で、しかも協定によって身分を保証されていない。スキュラが俺に言ったが、俺をどうこうしようとあなたの勝手ではないのか」
魔女はテーブルを指先で軽く叩きながら答えた。
「無論、あなたは私が獲得した捕虜なのだから、有無を言わさず私の要求に従わせることはできるわ。でもね、私は私の研究に暗さを残したくないの。たとえ私の研究の成果が戦場で数多くの人間を傷つけ命を奪うことになっても、私は研究の過程において恥ずべき行いを絶対にしたくはないわ。今の共和国の研究者たちにはそういう倫理観が欠如しているんだけど、私はそういう連中の一人になりたくない。私は、私の霊魂を大事にしたいから。だから、あなたを私の研究で利用するとしても、できる限りあなたの同意を得ておきたいの」
研究における倫理観、ということについては半分も分からない。それでも、俺という人間を最大限に尊重しようとしている姿勢だけは感じられた。
「ならば、その提案とはなんだ? 内容も聞かずに同意することはできない」
キルケはすっくと椅子から立ち上がった。そして、白衣のポケットから銀製のシガレットケースを取り出すと、一本の紙巻煙草を指に挟み、火を点けた。
無造作に、彼女は言った。
「あなた、霊魂をくれないかしら」
強い驚きと疑問が、俺の中を高速で駆け巡った。
そんな俺の反応を彼女は予期していたようで、ふっと紫煙を虚空へ吐き出すと、呼吸を二つほど挟んでから語り始めた。
「理由について知りたい、という顔をしているわね。まあ当然よね。霊魂っていうのがどういうものかは分からなくても、それがすごく大事なものっていうのはあなたにもなんとなく分かるでしょうし。でもそれを充分に説明するには人工霊魂の研究史から話さないといけないんだけど、あなたにそういうのを話してもあまり興味を持ってくれなさそうだわ。軍人っていうのは結論から先に話せってよく言うし……だから、あなたが一番納得してくれそうな理由を言ってあげるわね」
人形が差し出したクリスタルの灰皿に、彼女は吸い殻をぐしぐしと押し付けた。吸い口に口紅がついているのが見えた。
深呼吸を一つしてから、彼女は口を開いた。
「端的に言うと、Ε-2号のためなのよ。あなたが霊魂をくれないと、彼女は、いえ、彼女に限らず私たちも、とてもマズいことになるわ」
キルケの深刻な口ぶりに、俺は思わず息を呑んだ。
「……マズいこととは?」
もう沈みかかっている夕陽を背負って、彼女はきっぱりと言った。
「死よ」
その瞬間、鉄の扉が開いた。
そこにいたのは、イプシロンだった。いつもの薄紅色のドレスを身に纏っていて、無表情のまま俺とキルケの二人を見ている。
「あら、Ε-2号。ちょうど良い時に来てくれたわ。今あなたのことについてとても大事な話を……なんだったかしら、えーと、そう! ウーティス! ウーティスとしていたところなのよ」
キルケの言葉を聞いて、イプシロンは俺とキルケに向かって静かに頭を下げた。
「お母様、ウーティス様、お食事の用意ができました」
「あら、もうそんな時間? まったく、まだたくさん話したいことがあるのに。ウーティス、続きは夕食の後で話しましょう。それよりも……」
キルケは俺をじっくりと眺め回した。
「包帯にパンツ一枚じゃ晩餐の席にふさわしくないわね。あなたの快気祝いを兼ねていることですし、まともな服を着てもらいたいわ。Ε-2号、ウーティスにちゃんとしたものを着せてあげて。それから夕食にしましょう。ところで今日のメニューは何かしら?」
「お姉様が獲ってきた小鹿の肉のローストです」
「ああ、またお肉料理なのね……じゃあΕ-2号、後は頼んだわよ」
キルケが人形と共に去って行った後、俺とイプシロンの二人だけがそこに残された。
俺は改めて彼女を見つめた。残光に照らされる彼女は殊更に美しく、そして儚く感じられた。
死。魔女は確かにそう言った。
俺はにわかにそれを信じることができなかった。ベッドで添い寝をしてくれるイプシロンは温かく柔らかで、俺が戦場で多く見聞きしてきたあの忌まわしく無惨な死とは、まるで無縁であるかのように感じられる。
それに浴場でだって……あの時の事を思い出して、俺は顔が赤らむのを感じた。
そんな俺を見て、イプシロンは僅かに心配そうな調子を含ませて声をかけてくれた。
「ウーティス様、いかがなさいましたか」
俺は疑念を振り払うように首を振った。
「何でもない。さあ、行こうか」
部屋に戻った後、イプシロンが用意してくれた服は、驚いたことにアカイア海洋連合軍の兵士の軍服だった。それも一度も袖を通したことのない新品で、しっかりと折り目がつけられている。
もう見飽きるほど見ているはずなのに、血にも汗にも汚れていないそれは、俺にはまったくの別物のように思われた。
俺はそれをイプシロンに手伝ってもらいながら着た。別に手伝ってもらう必要はなかったのだが、彼女は自発的に手を貸してくれた。
包帯を取った時など彼女がそっと傷跡を指先で撫でたので、俺は変な声をあげそうになるのを抑えなければならなかった。
「い、イプシロン、大丈夫だ。別に君の手を借りなくても服は着られる……」
「いけないのですか?」
「い、いや、いけないことはない……」
「ではお手伝いします」
軍服を身に纏うと、俺とイプシロンは部屋を出た。
屋敷の中は、もう入り組んでいなかった。イプシロンが説明をしてくれる。
「これまではウーティス様がお外に迷い出ることがないように、お母様が特別な魔法をかけていました」
それを解いたということは、俺はキルケに客人として認められたということだろうか。夕食の席を共にするというのも、そうであることを匂わせる。
あるいは、俺の歓心を買って、要求に従いやすくするように仕向ける一策だろうか。
ふと、今ならば脱走が容易なのではないかと思われた。だが、隣にいるイプシロンの顔を見て、その考えは薄氷が溶けるように消えてしまった。
「ウーティス様?」
「……なんでもない。さあ、夕食の場に案内してくれないか」
「わかりました」
夕食の場は、あの大広間だった。
スキュラが大暴れして叩き割ったはずのテーブルは何事もなかったように元通りになっていて、真っ白なテーブルクロスが掛けられている。天井には、落下したはずのシャンデリアが下がっていた。
不思議そうにあたりを見渡す俺にキルケが言った。
「……別に魔法で修復したとか、そんなのじゃないわ。さっきも言ったけど、そこまで魔法は万能じゃないの。これは人形たちに大急ぎでなんとかさせたのよ。あと、スキュラにもね」
既に席について頬杖をついていたスキュラが口を尖らせた。
「悪いのはわたくしではありませんわ。お風呂に侵入してわたくしたちの裸を見たこの人間が諸悪の根源ですの。でもまあ、怒りに任せて大暴れしたのはわたくしですから、このとおり頑張りましたわ。物を直すのはけっこう得意ですので……」
人形たちが続々と料理を運んできて、いよいよ晩餐が始まった。
鹿肉をメインとする料理は俺が今までに食べたことがないほどに風味豊かで、食器から盛り付け方にまで趣向が凝らしてあったが、しかし俺は先ほどキルケが言ったことが気になっていて、味がよく分からなかった。
黙々と食事を口に運ぶ俺を見て、キルケが感心したような顔をした。
「あなた、とてもしっかりとした食事マナーを身につけているのね。意外だわ」
「……前に、教えてもらったからな……」
広いテーブルには俺たち四人だけが座っていた。それぞれに人形が給仕をしている。
彼女たちの食べ方は三者三様だった。
主であるキルケは早々に酒が入ったからかやたらと饒舌で、いつもやかましいスキュラは食事の時に限っては食べることに夢中になるのか黙っていて、もともと物静かなイプシロンはさらに静かになって料理を口に運んでいる。
食事を終えたキルケが、上機嫌なままに話をしてくれた。
「一つ、このヘラス世界の
ぐびっと、彼女は酒器の葡萄酒を一気に飲み干した。すかさず人形がまた中身を満たす。
「戦争は十年続き、そして勝敗が決まらなかった。策謀と奸計の限りを尽くし、その上神々がそれぞれの陣営について力を貸していたにもかかわらずね。数多の英雄たちが斃れ、無数の兵士たちが命を落とした。結局、終わりのない戦争に嫌気が差した人類は、休戦をすることにしたのよ。でも、それは神々の怒りを買った。勝手に戦を終えるとは何ともけしからん、紛れもない反逆だ、とね」
キルケは煙草に火をつけた。ふっと煙を吐き出してから、また続きを語った。
「神々はアカイア、トロイアそれぞれの陣営に呪いをかけた。海から来たアカイア勢には今後大地に住むことを許さず、結果彼らは逆巻く波の上で木の葉のような船に乗って一生を過ごすことになった。陸に住むトロイア勢にはこれ以上繁栄をしないように、人間の数が増えないよう呪いが掛けられた。神々は呪いを掛け終えると遠く天上の世界へと去っていった。そして両陣営は今に至るまで海と陸に分かれて暮らすことになったとさ……」
そのような話は、俺も本を読んで知っていた。だが、その話を通してキルケはいったい何を俺に伝えようとしているのかと思われた。
「……その神話は、あなたの人工霊魂の研究に関係しているのか?」
やや酒気を帯びた目をして、キルケは俺に笑いかけた。
「その話はデザートをいただいた後にしましょう」
スキュラがはしゃいで声を上げた。
「デザート!? 今日のデザートは何かしら!? 冷凍の子ザルの脳みそとか!?」
「あなた、あれが好きねぇ。私には何が良いのかさっぱり分からないけど……」
結局、その後運ばれてきたのは普通のカスタードプリンだったが、スキュラは文句も言わずにお代わりまでして食べていた。
☆☆☆
晩餐の後、俺はイプシロンと共に魔女の居室へ通された。
そこは三部屋に分かれており、一つは寝室、一つは書斎、一つは実験室となっていた。
俺は書斎の黒革張りのソファーに身を沈めた。暖炉まで備えた豪華な内装の部屋を見渡す。上等な料理で満腹中枢が刺激され、ともすると精神は弛緩しがちだったが、しかし最も大事なことはこれから始まるのだ。
隣にはイプシロンがいる。相変わらずの無表情だが、時折俺に視線を送ってきているのが分かる。魔女が来るまでの時間がやけに長く感じられた。
「なかなか来ないな。何をしているのだろうか」
「おそらく、お姉様とお話しになっているのでしょう」
スキュラはおしゃべりだ。今日あったこと、俺にされたことを、長々と自分の感情をたっぷり込めてキルケに訴えているに違いない。キルケがどのような表情を浮かべてそれを聞いているのか、なんとなく想像ができた。
待つのに飽きてきた俺は、書斎の中をもう一度よく見ることにした。
重厚な造りの書棚には革表紙の本がズラリと並んでおり、その他の調度品も良く磨かれていて、埃ひとつ被っていない。
しかし、魔女の仕事机の上は、多少の混沌を見せていた。無数のメモ、開かれた本、印刷され束ねられた資料が積み重なり、筆記具の類まで散乱していた。インク染みまでところどころに出来ている。
ふと俺は、ある異様なものを発見した。それは室内の片隅の、小机の上に置いてあった。
それは銅製の胸像だった。かなりしっかりとした造形が施されているが、芸術性の片鱗すら見出すことのできない平凡な像だった。
奇妙なことに、像はブタの仮面を被っていた。大きな三角形の両耳に豚の鼻。木製と思われる仮面にはピンクを基調とした彩色が施されており、どこか戯画的でおかしみを感じさせる出来ばえだった。
なぜ、銅像に仮面を? 訝しむ俺に、イプシロンが声をかけてくれた。
「それはブタさんです。朝と昼と夜にぶうぶうと可愛く鳴いてくれます」
「そうか、ぶうぶうと……しかしなぜキルケはこんなものを書斎に……?」
なんとなく、俺はその仮面を手にしたくなった。銅像の顔から仮面を外すと、中から出てきたのは意外な人物の顔だった。
「トロイア共和国最高指導者、アデルフォス……」
太陽光を反射するのではないかと思われるほど禿げあがった頭部、豊かな口ひげ。セメイオン養成所で散々見た時からまったく老けていない。
顔つきは柔和で、まるで「思いやりに満ちた尊敬できる兄弟」であるかのような造形だった。俺たちが教えられていたのとかなり異なる。
いつの間にか、イプシロンが隣に立っていた。俺たちは二人で、像を見つめていた。
すると突然、像の口が動き出し、あの甲高い声を発した。
「革命はなお続く! 聞け、トロイアの大地よ、我らの雄叫びを! 我らの凱歌を!」
驚く俺をよそに、像は話し続ける。
「……日が暮れた。我がトロイアの勤勉にして勇敢なる労働者と兵士たちよ。諸君らが今日一日生き残れたことを余は喜ぶ。そして不幸にも死したる者たちには、永遠なる安らぎを。彼らは紛れもなき英雄である。侵略者を撃滅するため、その肉体と生命を捧げた彼らのために、我々は明日もまた勝利揺るがぬ生産と戦闘とに、邁進しなければならない……」
イプシロンが、冷静な声に少しばかり戸惑いの感情を滲ませて呟いた。
「ブタさん、話すことができたんですね……」
「ずいぶんと、雄弁なブタさんだ」
息を呑んで、俺とイプシロンはそれを聞いていた。一通りの前口上が終わった後、銅像は本題に入った。
「我々は半月前のスカマンドロス川の決戦にて海の民に大打撃を与えた。彼らは無数の屍と兵器を残し、恐怖に打ち震え、脆くも潰走した。だが諸君、これは確かに大勝利ではあるが、戦いを終わりへと導くものではない。むしろこれは、長かった戦争の序幕がようやく終わったに過ぎないのだ……我々はさらに強くならねばならない。強くなるというのは、兵器や兵士を増やすことだけではない。余は懸念している。この国内に裏切り者が多数いることを。国家の資本を食い荒らし、私腹をこやす
俺たち二人が像の前に立って聞き入っていると、後ろから声がした。
「へえ、皮肉なものね。共和国の民以上に熱心に指導者の話を聞いているのが、アカイア軍の兵士だなんて。それにしても、自国民を寄生虫(パラシト)呼ばわりとは、あいつらしいわ」
振り返ると、キルケが書斎へ入ってくるところだった。彼女はゆったりとした白い普段着に着替えていて、グラスとボトルを持っている。
「これはなんだ?」
俺の問いに、彼女は直接答えず、そっと手を上げて俺に示した。
「うるさいから、そのブタの仮面を銅像に被せてちょうだい」
言われるままに、俺は仮面を被せた。途端に、銅像は「ブヒブヒブヒ、ブヒッヒ、ブゴブゴ」と鳴き声を上げ続けるだけになった。
「それはね、トロイア国民の家庭には必ず一個は設置されている、最高指導者様のありがたい銅像よ。朝と昼と夕方に『とってもためになるおはなし』をしてくださるの。もちろんそれだけじゃないわ、家の中の会話を盗聴して、国民を監視しているわけ。まったく、魔法技術の無駄遣いにもほどがあるわね」
「盗聴に、監視だと? 大丈夫なのか?」
俺が問いかけると、魔女は不敵な笑みを浮かべた。
「ふふふ、私を誰だと思っているのよ。私の魔法技術なら、この銅像の機能を弄って無意味なものにするなんて煙草に火を点けるくらいわけのないことよ。だからあなたも気にしないで良いわ。さあ、二人ともお座りなさい」
最高指導者が自ら言葉を語り掛け、国民の士気を高揚させる。だからトロイアの兵士たちは粘り強いのだろうか。そう思いつつ、俺はイプシロンと共にソファーに座った。
キルケも向かい側のソファーに腰かけた。彼女は手にしていたグラスとボトルを机に置くと、何か思い出したように声を発した。
「あなたも飲むかしら……って、ああ。当然そうだろうと思い込んでいたけど、そういえばあなたはお酒を飲まないのだったわね。まったく、お酒を飲まない兵士がこの世にいるなんて私には信じられないわ。お酒ほど良いものはないのに」
俺はややぶっきらぼうに答えた。
「セメイオンは飲酒を禁じられている」
キルケはボトルから蜂蜜色をした蒸留酒を小さなグラスに注ぐと、ちょっとだけ舐めるようにしてそれを飲んだ。
「あー、効くわぁ……ところで、海の民のセメイオンたちは飲酒だけではなく、賭博も禁じられているようね。それだけではない。普通の名前を名乗ることもできない。選挙権もないし、自由恋愛もできない。許可がなければ結婚もできないし、職業選択の自由もない。命令がなければ死ぬこともできない。そして、命令されれば死ななければならない。それがセメイオンね。まるで奴隷。いや、人形だわ」
こき下ろすような彼女の言に、俺は内心で反発するものを覚えた。久しぶりに軍服に身を包んで、気が大きくなっていたのかもしれない。
「人形であるからこそ、俺は今まで戦場で生きてこられた。人間だったら、とっくの昔に死んでいただろう」
キルケは微笑んだ。なぜか、その笑みはどことなく悲しげだった。
「なるほど、確かにそうかもしれないわね。戦場に出たことのない私には、そのことの真偽は分からない。でも、あなたが強いてそう思い込もうとしているだけではないか、とも私は思うけどね……ところで、私だけがお酒を飲んでいるっていうのも何だか張り合いがないわね。Ε-2号、あなたも飲みなさい。それからウーティス、あなたにも何か用意させましょう。何が良い? 炭酸水とか?」
俺は腕を組み、にべもなく答えた。
「いらない。早く用件を話してくれ」
気分を害した様子もなく、彼女は明るく笑った。
「まったくもう、せっかちなんだから……じゃあ、ゆっくりと順を追って話していくことにするわね」
彼女はまたもや煙草に火を点けた。隣のイプシロンは小さなグラスを両手で持っている。俺は腕を組んだままだった。
一瞬、何か飲み物を頼むべきだったかと思わなくもなかった。
一服を終えた後、キルケは明瞭な口調で話し始めた。
「ところで、トロイア共和国の一番の泣き所は何か、あなたには分かるかしら。機械兵器の性能の低さ? 『生産と進歩の党』の頑迷固陋さ? それとも戦略指導と作戦指揮の拙劣さ? あるいは道路輸送網をはじめとした各種インフラの劣悪さ? どれだと思う?」
「そのどれもが、そうではないのか」
俺の言葉に、彼女は首を左右に振った。
「いいえ。それらは弱点ではあるけれども、まだ改善可能な弱点なのよ。まあ、党に関しては微妙だけど……真の弱点というのは、人為によってはどうすることもできないものをいうわ。そして、共和国のそれはただ一つ、人的資源が乏しいことなの」
彼女はまたグラスに酒を注ぎ、そして言った。
「晩餐の席で神話を語ったわね。神々はトロイアに呪いをかけて、人間の数が増えないようにしたと。まあ神話がそのままの事実を反映しているとは到底思えないけど、現に共和国の出生率は低いのよ。いえ、それだけじゃないわ。新生児死亡率も高いし、平均寿命も短い。これだけ広大な国土を有しているのに、共和国の民の数は狭い艦船に閉じ込められているアカイア海洋連合をわずかに上回るくらいしかいない。人は虚弱な肉体のまま生まれてきて、それなのに次から次へと新しい病気が発生する。乳児も老人も、いえ、働き盛りの成人でさえ、常に死の危険が付き纏っているわ」
キルケの言葉はよどみなく続く。
「そのおかげ、と言うと語弊があるけど、共和国は昔から医学研究が盛んだった。それに魔法という唯一無二の体系もあった。昔は不治の病だと思われていたクサントス原虫感染症にも特効薬を産み出すことができたし、それどころか人工臓器の開発にも成功した。海の民の原始的な医療では考えられないでしょうけど、共和国では悪くなった臓器をまるごと新しいものに取り替えることができるのよ。まだコストが高すぎて一般的ではないけど」
臓器を取り換える。俄かには信じられないことだ。その技術がアカイアにもあれば、ペネロペは死なずに済んだのだろうか……
だが、そのような感慨は、俺の中にふと浮かんだ疑問によって打ち消された。
「それだけ医学が発達しているのに、どうして共和国の人間は増えないんだ」
キルケは答えた。
「そう、その通り。いくら医学を発展させても、共和国の人口は増加しなかった。それこそ神々の呪いによるものではないかと思われるほどにね。医学のおかげで僅かに寿命を延ばすことはできても、人が増えない根本原因を突き止めることはできなかった。でも、一つの転機が訪れたのよ」
「それは?」
「一人の研究者が霊魂の存在を証明したのよ」
俺にはそれがなぜ転機となったのか分からなかった。キルケもより詳しい説明が必要と思ったのだろう。途切れさせることなく話を続けた。
「その研究者は、人間の中には霊魂が存在し、それがありとあらゆる生命活動の根源になっていると説いた。それのみならず、トロイアの民の特殊能力である魔法も霊魂が深く関係している、とね。はじめは珍説とされて誰も真面目に取り合わなかったけど、次第に霊魂の存在が検証可能な事実であると認知されるにつれて、共和国での霊魂研究は急速に盛り上がっていったわ。今からざっと三十年ほど前のことよ」
「お母様、もう一杯ください」
唐突にイプシロンが酒のお代わりを要求した。キルケは苦笑いをしつつボトルを傾けた。
「Ε-2号は本当にお酒が好きねぇ……さて、霊魂が人間の生命活動や健康に関係していることは分かったけど、ではトロイア共和国の民の霊魂はいったいどんな状態だったでしょう? なんとなく予想がつくんじゃないかしら」
さしたる学問も教養もない俺だったが、予想はついた。
「何らかの問題があった。だからこそ、共和国は常に人口が少なかった」
キルケは軽く拍手をした。少しばかり顔が赤らんでいる。彼女は酒が好きなようだが、実はさほど強くないようだった。
「正解よ。潜在的敵国である海の民をバレないようにちょっとずつ連れてきて、定量性と定性性の双方の観点から、共和国の人間の霊魂と比較研究を行ってみたら、明らかに共和国の民の霊魂は規模も容量も小さく、そして純度が劣っていることが判明したの。分かりやすく言うと、濁り切っていたのよ。例外もいるけどね」
彼女はまた煙草に火を点けた。紫煙が生き物のように立ち昇っていく。
「ここに至って、霊魂の状態を改善すれば生命力も向上するのではないかという仮説が浮かび上がった。いえ、それだけではないわ。魔法も、より大規模に、より強力になるのではないかと期待されたわ。私たち自慢の魔法なんて、実際のところは火を出したり、物を冷やしたり、電気を発生させたりする程度で、地を抉ったり空を割ったり、海を干上がらせたりする威力なんてないのだから。そこで様々なアプローチが試みられた」
俺は静かに言葉を挟んだ。
「あなたの人工霊魂研究も、その一環というわけか」
問いを受けたキルケは、しばらく何も答えなかった。どこか宙を見ている。隣のイプシロンは自分でボトルを傾け、三杯目となるグラスになみなみと酒を注いでいた。
ようやく、キルケは口を開いた。
「……霊魂の状態を改善しようという試みは、奏功しなかった。手を加えて状態を変化させ、容量を増やすことは可能だったのよ。でも、そういうことをされた霊魂は少数の例外を除いて大変なことになったわ。どうなったと思う?」
俺は黙っていた。俺が答えずとも、彼女は話を続けた。
「怪物になってしまったのよ。霊魂の変化に合わせて、肉体そのものが大きく変貌してしまった。不可逆的にね。ある者には獅子の頭と山羊の胴体が、またある者は三つの首を持つ犬に。あるいは巨人となり、あるいは無数の蛇を頭に生やした魔物に。彼らは強靭な生命力を持つ代わりに、一様に凶暴で、理性がなく、残酷な性格になったわ」
かつてない驚愕が俺を襲っていた。俺が今まで戦っていたのは、つまり……
「怪物たちは、元は人間だったのか」
キルケは頷いた。
「禁断の技術として、霊魂改造は無期限中止されることになったわ。でも戦争が始まって、普通の魔法や通常の機械兵器ではあなたたち海の民には到底太刀打ちできないことが判明した時、党と軍の首脳部は決断した。重犯罪者や政治犯の霊魂に手を加えて、彼らを怪物に変化させ、それを戦線に投入するとね。いえ、そういった連中だけではないわ。侵略者への復讐に燃える志願者たちも大勢いた。そういう人々は精鋭部隊として編成されたわ。あなたは遭遇したかしら、アイネイアス将軍の巨人には? あれは元々将軍配下の忠誠心に厚い軍人が、霊魂を改造されて生まれ変わったものよ」
俺には得心するところがあった。俺の見た装甲キマイラやその他の怪物たちは、ただ欲望の赴くままに暴れ回っているようだったが、あのポリュペモスと名乗る巨人には知性があり、戦術があり、そして指揮官の統制に従っていた。
それにしても、自らの姿形を、いや霊魂の在り方さえも変えて戦い抜くという敵の戦意の高さに、俺は怖気がふるうようだった。キルケは俺の目を覗き込んで言った。
「これからあなたにとって辛いことを言うけど、覚悟してちょうだい。あなた、海の民が共和国の捕虜となったら、どういう目に遭うか知っているかしら?」
即座に、俺は彼女が言うところの意味を理解した。その瞬間思わず叫んでいた。
「捕虜を怪物にしているのか!」
キルケはそっと目を伏せた。
「……海の民は捕虜になることを恥として、降伏せず死ぬまで戦う。でもどんな状況でも必ず生き残る者はいるのよ。そう、あなたのようにね。そういう捕虜は情報を聞き出された後は、霊魂を改造されてしまう。言ったでしょう? 共和国の人的資源は常に少ないって」
彼女は語気を強めて言った。
「もうとっくにこの戦争は、通常のものではなくなっているのよ。言うなれば、
俺は、自分の声がかすかに震えているのを感じた。
「そんなにまで、俺たちが憎いのか。敵である俺たちの、いや自分たちの霊魂まで切り刻んで、変化させて……」
彼女は首肯した。
「……あなたたちが思う以上に、あなたたちは共和国の民から憎まれているのよ。逆襲し、覆滅して、海に追い落とす。いえ、それだけではないわ。海に浮かぶあなたたちの船までも、残らず沈めてこの世から消し去ってしまおうとまで考えているわ」
俺たちはそこまで恨まれるようなことはやっていない。そう否定する言葉は、しかし口から出てこなかった。その代わりに、俺はこれまでのことを思い返していた。
そうだ、俺たちの軍は今まで何をやった?
上陸作戦では艦砲射撃で街と村を吹き飛ばした。占領地では家財と家畜を奪い取った。住民は面白半分に殺すか、海の上へ連れ去った。捕虜を虐待し、虐殺した。抵抗組織に属する者は女子供だろうと皆殺しにした……
俺はΝΣ部隊の精鋭として、そんなことには直接加担していない。
でもそれがなんだと言うんだ? 見て見ぬふりをしてきたんじゃないのか?
俺が陣地や基地で毎日食べていた食事。あれは村から奪い取ったものではないのか? 俺の機体の部品を運ぶ荷車。あれは共和国の民から無理やり取り上げたものではないか?
いや、それよりも、俺が今までに殺してきた敵兵。あれは、誰かの父であり子であり、夫であり兄弟だったのではないか……?
俺はキルケの言葉に反発できず、自分を責めた。自分が生来恨みや憎しみの感情に薄い分だけ、却って敵の憎悪の凄まじさに圧倒されてしまったからだった。
その時の俺は、兵士となってから初めて、心底悔恨と罪悪感に苛まれていた。
そんな俺を、キルケとイプシロンの二人は、そっと見守っていてくれた。
キルケがグラスに酒を注いで、俺に差し出した。
「飲みなさい。少しは楽になるわ。それに、あなたがそこまで責任を感じる必要はないのよ。あなたはセメイオンで、命令されれば戦わなければならなかったのだから。この戦争という大災害においては、誰も無垢なままではいられない。誰もが、なんらかの形で、戦争の一部を担わなければならない。その事実は、常に私たちを苦しめるわ。私たちは生きている限り、ただじっと、それに耐えていくしかないの……」
初めて飲む酒の味は、よく分からなかった。ただ、喉が焼けるように熱かった。
しばらくして、俺の頭の中は程よく解れていき、直前までの強烈な精神的ショックは薄れていった。
隣のイプシロンが優しく背中を撫でてくれている。その温もりがとても愛おしかった。
「ありがとう、イプシロン。少し楽になったよ」
「ウーティス様……」
言葉を交わす俺たちに、キルケは温かいまなざしを注いでいる。
「それにしても、あなたは甘いわね。いえ、優しいのかしら。私、一発か二発頬を殴られるのを覚悟していたのに、あなたったら怒るのでも憎むのでもなく、落ち込んじゃうんだもの。もしかしてあなた、セメイオンとしては欠陥品?」
「……悪かったな、欠陥品で」
「いいえ、褒めてるのよ。負の情動が少ないということは、それだけ善い霊魂を持ってる証拠だから」
イプシロンが二杯目の酒を注いでくれた。俺はそれを飲み干した。
しかし、それでも……俺の中には未だに疑問が残っていた。
「……俺たちの船を沈めると言ったな。そんなことが可能なのか? ロクな海軍も持たない共和国に、アカイア海洋連合の排水量数億トンの巨艦都市の群れを沈めることなど、不可能だと思うが……」
俺の問いに、キルケはすぐには答えなかった。その代わり、イプシロンに目配せをした。
「Ε-2号、こっちへいらっしゃい」
「はい」
イプシロンは音もなく立ち上がった。俺のすぐ隣でふわりとドレスが揺れ、上品な香水の香りが俺の鼻に届いた。
キルケの方へイプシロンは回ると、その隣へ腰を下ろした。それを見たキルケは首を左右に振った。
「違う、違う、私のひざの上に乗りなさい。ほら、ここにおいで、おいで」
「はい」
またもやイプシロンは音もなく立ち上がり、今度はキルケの腿の上に腰を下ろした。
「あうっ!? 意外と重かった……いや、女の子に重いとか言うのは失礼だったわね、ごめんなさい……」
ああ、この魔女は既に酔っぱらっていたんだなと、俺は思った。それと同時に、心が軽くなるのを感じた。
キルケはなぜかイプシロンを撫で回しながら言った。
「あなたたち海の民を降参させる手段なら、あるわ。それがこの子、Ε-2号よ。正式名称はエンテレケイア・アルファ2型」
俺は信じられない思いでイプシロンを見ていた。
この子が、アカイアの人間を屈服させる秘密兵器だと? こんなに優しくて、純粋で、美しいこの子が……?
今日でもう何度目になるか分からない驚愕と動揺に見舞われている俺を余所に、キルケはイプシロンを飽きることなく撫で擦っている。
「ああすごい。ああすごいわ、やっぱり。すごくナデナデし甲斐があるわ……この子は最強の兵器として産み出されたの。霊魂の容れ物となる肉体は共和国の全技術を投入して人工的に構築され、霊魂も同じように人工的に合成されたもの。すべてが完全となるように設計されたわ」
やはりイプシロンは普通の人間ではなかった。俺は呆然として、今は頭を撫でられて気持ちよさそうに目を瞑っている彼女を見ていた。
キルケは言葉を続けた。
「あなたたち海の民にとっての人形がセメイオンとΝΣであるならば、共和国の人形はまさにこの子よ。大型爆撃機五十機くらいの費用じゃとても足りないくらい金がかかっているわ。まさに決戦兵器といったところかしら。それに、お茶の時に言った『アイギス』がこの子と合わされば、戦争の形は根底から覆る」
そこまで言ってから彼女は、おもむろにイプシロンの豊かな胸部を揉んだ。
「んきゅ!?」
目を閉じていたイプシロンは驚いたように目を開き、彼女らしからぬおかしな声を上げたが、しかし何も抵抗しない。
「まさに、太古の昔に神々により生み出されたと言われる、『黄金の種族』の再現よ。心に憂いなく、苦悩や悲嘆を知らず、老年とも不幸とも無縁で、肉体は輝き、霊魂は豊潤な香りを放つ黄金の種族の人間……その科学的な再現が、このとっても可愛いΕ-2号」
イプシロンの柔らかで大きな胸に、キルケの細い指が食い込んで、じっくりと味わうように蠢いている。見ている俺のほうが恥ずかしい気持ちになってしまった。
キルケはなおもイプシロンの胸を揉みながら話を続けた。
「あー、柔らかい。でも兵器にこんなに大きな胸って必要なのかしらね……まあいいわ。で、ようやく本題に入るのだけど、あなた、Ε-2号のために霊魂を分けてくれないかしら」
「なぜ完全なる兵器として開発された彼女に、俺の霊魂が必要なんだ?」
キルケは深く溜息をついた。
「それはね、実を言うとこの子、諸事情あって問題を抱えているのよ。肉体は完成したんだけど、人工霊魂のほうがちょっとね。どうしても不安定で。言うなれば、生まれたてなのよ」
「生まれたて、か」
確かに、言われてみればイプシロンにはどこか幼いところがある気がしなくもない。俺がイプシロンに視線を向けると、彼女は真紅の瞳で、俺をじっと見つめた。
無垢なる輝きがその瞳に宿っている。俺とイプシロンが視線を交換し合っていると、キルケがまた言った。
「あなたが霊魂を分けてくれてそれを注入したら、きちんとΕ-2号も安定するようになるわ。そうしたら魔法も……って、これはまだ話すべきではないか……気にしないでちょうだい」
「不安定だと、どうなる」
彼女は俺の顔をじっと見つめた。
「死よ」
端的に過ぎて意味が通らないその言葉に対し、俺は再度問いを投げかけた。
「死とは、どういうことだ。イプシロンは健康上の問題を抱えているのか?」
「いいえ、Ε-2号は健康そのものよ。Ε-2号は設計通りにいけば軽く百歳まで生きるし、兵器とは言ってもちゃんと赤ちゃんを産むこともできるの。なにせ、完全なる人間として作られたのだから」
そういえば、霊魂に手を加えることで怪物が生まれると聞いた。イプシロンの霊魂が不安定ということは、つまり……
「ならば、怪物になって暴走するのか?」
キルケはちょっとムッとしたように答えた。
「私は共和国における霊魂研究の第一人者よ。Ε-2号の霊魂は今ちょっと不安定かもしれないけど、そんなことにはならないわ」
「では、死とはどういうことなのだ」
「言ったままの意味よ。Ε-2号の霊魂が安定しないと、死が訪れるの。遅かれ早かれ、ね。いえ、もしかしたら目前にまで迫っているのかも……」
俺は思案した。
死という問題はさておき、イプシロンの霊魂が安定するとは、つまり戦略兵器として安定するということである。それはアカイア海洋連合にとっての一大脅威だ。いや、存亡の危機と言っても良い。
「祖国を滅ぼすような兵器を安定させるのに、あなたは協力しろと言うのか」
キルケは断言するように言った。
「それは違うわ。私はただ死を回避して、この子がこれから先も不自由なく、一人の人間として普通に生きていけるように霊魂が安定することを望んでいるだけ。それに、兵器としての力は秘めているかもしれないけど、それを振るうかどうかはこの子次第よ。あと単純にね、こんなに可愛い子が未完成のまま、人間未満の状態のまま生きていくなんて可哀想じゃない?」
そこまで話して、キルケは彼女自身で何か気づくことがあったのだろう。これまでのことをまとめるように、彼女は言った。
「そう、こういうふうに考えて欲しいのよ。確かにΕ-2号に霊魂を分け与えることは、Ε-2号の兵器としての完成を促すことになる。でも、同時に、それはΕ-2号を『人間化』することにもつながるのよ。あなたの手で、いえ、違うわね、あなたの『霊魂』で、Ε-2号を人間にしてあげる。それって素晴らしいことじゃない?」
俺ははっとした。キルケの「人間にする」という言葉は、かつてペネロペが俺にしてくれようとした行為そのものではないだろうか。
ペネロペが俺に示してくれた愛の形、彼女の強い思いの発露。それは純粋に、善きことであるように俺には思われる。
抗いがたい魅力を伴って、「人間にする」という言葉が俺の脳裏を駆け巡った。この俺が、イプシロンを人間にする。そんなことが可能であるかは分からないが、その道が今、キルケによって目の前に提示されている……
人間になったイプシロンは、どんな表情を見せてくれるのだろうか? わずかに、俺の心臓が高鳴るのを感じた。
考え込む俺の顔を覗き込むように、キルケが見つめてきた。
「どうしたの? やっぱり嫌?」
「いいや、嫌ではない。ただ……」
俺は、内心でほとんど同意しかけていた。だが今、頭に浮かんだもう一つの疑問について、キルケに尋ねることにした。
「なぜ、ただのセメイオンである俺の霊魂が必要なんだ。俺はなんの取り柄もない、ただの兵隊人形だ。共和国の戦略兵器の人工霊魂とはとても見合わないと思うが」
切れ長の目で俺を見つめつつ、キルケはゆっくりと頷いた。
「そう思うのも無理はないかもしれないわね。あなたはセメイオンとして、自分のことを価値のないものとして教育されてきたから。でも、あなたの霊魂は本当に素晴らしい輝きと純度を持っているのよ。私も長年霊魂を研究して来たけど、これほどのものを見るのは二回目ね。だから、充分Ε-2号の役に立てるわ」
「具体的に、俺の霊魂はどの程度素晴らしいんだ?」
キルケはイプシロンの胸を揉むのをやめ、今度はお腹を撫でまわしている。イプシロンは嫌がる様子もなく、体を預けていた。
「あなたが意識を失っている間に、検査したのよ。プシュコポンポス式霊光分析では、あなたの霊魂の輝きはΑ1と測定された。つまり最高度よ。純度はケラティオン単位でΚ24、これも99パーセント以上よ。これ以上ないほど素晴らしい霊魂ね。もし食べることができるのなら、さぞかし豊潤で、美味しく感じられるでしょう」
俄かには信じがたい話だった。ペネロペはかつてしばしば、俺が輝く霊魂を持っていると言ってくれた。だがそれは物の例えとしての言葉であろうし、ペネロペ自身も霊魂を科学的に分析できるとは思ってはいなかっただろう。
俺をおだててその気にさせ、霊魂を奪い取ろうとするために、キルケは話を作っているのではないか? 俺はそのように考えてみた。
だが、キルケの表情と話しぶりからは、何らかの高揚感のようなものが感じ取れた。嘘をつくものが、このように興奮するだろうか。
「それは、確かか?」
念を押すように俺が問いかけると、キルケは頷いた。
「確かよ、確か。あなたは素晴らしい霊魂の持ち主なの。自信を持って」
ここまで言われたならば、納得するしかない。しかし分けるというのにはやはり抵抗感があった。
渋る俺に、キルケは安心させるように言った。
「ああ、大丈夫。霊魂を分けると言っても、それほど重大なことではないのよ。霊魂というのは血液みたいなもので、一度に取り過ぎると寿命が縮んだり死んじゃったりするんだけど、ちゃんと一回に取る量を決めてかつ時間を置けば、元通りに回復するから。だから分けると言ってもあなたの霊魂が損なわれることはありません」
「確かなことなのか?」
キルケは力強く頷いた。酒の飲み過ぎか、目が据わっている。
「人工霊魂研究者として保証するわ。あと、ちゃんと協力のお礼も差し上げます」
お礼と聞いて、俺はあることを思いついた。
「ならば、俺がアカイア軍へ戻れるように、あなたから共和国軍に話をしてくれないか? そんな戦略兵器の開発を任されるあなたのことだ、『生産と進歩の党』と軍の首脳部とはつながりがあるんだろう」
俺も、いつまでもここにいるわけにはいかない。いくら軍が俺を見捨て、捨て石にしたとは言え、俺がアカイア軍のセメイオンである限り、俺の帰る場所は決まっている。
そのように考えた時、わずかに胸がざわつくのを俺は感じた。当たり前のことを思い浮かべただけなのに、なぜだろう……?
一方、俺の言葉を聞いたキルケは、なぜか目に見えて狼狽した。
「ああ、その、えっと……うん、まあ。そう、帰りたいのね? そりゃそうよね……でも困ったわ……はい、その、なんだ。そうなるように努力しましょう」
そのあからさまに煮え切らない返事に俺は釈然としないものを感じた。
迷っていると、キルケはポケットから何か袋を取り出して、俺に投げてよこした。
「思い悩んでいるようね。それなら、これをお返しするわ。大事なものなのでしょう? それを使って判断してみたらどうかしら?」
袋を手で受け止めた時、俺ははっと気付いた。急いで紐を解くと、中には俺の唯一の財産と言っても良いものが入っていた。
六枚の銀貨。ペネロペの思い出。銀貨を持つ手が震えるのを感じた。
固まっている俺に、キルケは言った。
「私もちょっと追い詰められていてね、前に六枚の銀貨で占いをしたのよ。Ε-2号に『ピッタリ合う』霊魂を分けてくれる存在はどこで見つかりますか、ってね。そしたらスカマンドロス川へ行けと出たから、Ε-2号とスキュラと一緒に行ってみたらあらビックリ、あの森であなたと出会えたわけよ。軍への鼻薬は高くついたけど……」
続けて、彼女はうっとりとしたように言葉を紡いだ。
「何か運命的なものを感じるわね。そう、運命の導きを……」
俺はキルケの意味深長な言葉を聞かず、考えに耽っていた。
ペネロペが好きだった占い。共和国にもあるとは知らなかった。そして、やはり効果があるらしい。
俺は銀貨六枚を放った。相変わらずヘキサグラムは読めなかったが、直感的に、キルケに協力するのが良いと出ているような気がした。
なにより、俺には、ペネロペがそうしなさいと言っているように思われた。
「……あなたは紛れもなく敵国の人間だ。だが、今日これだけ話をしたから、少なくとも敵ではないと今は判断できる。俺の霊魂を分けよう」
きっぱりと俺が言うと、キルケは喜色を満面に表した。
「本当に!? ああ、良かったわ! あなたがコチコチの兵隊じゃなくて!」
そう言ったかと思うと、彼女は咳払いをした。
「……ゴホン。実はあまり時間が無くてね、あなたに断られたら本当にどうしようかと思っていたのよ! じゃあ早速、あなたの霊魂を……と、いきたいところなんだけど、今日はお酒も入っちゃっているしこんな時間だしで、もう寝たほうが良いわね。明日の午前からさっそく霊魂分与術式に取り掛かるから、よろしくね……」
俺はイプシロンと共に魔女の書斎を下がり、そしてもはや住み慣れたと言っても良いあの部屋へ向かった。
その間、俺はイプシロンに話しかけていた。
「君は良いのかい? 俺みたいな何の変哲もない兵士の霊魂を分けられても……そのつまり、それは、俺の霊魂と君の霊魂が混ざって一緒になるということだと思うんだが……」
そう問いかける俺を、彼女は澄んだ真紅の瞳で見つめた。そして、小さく言葉を発した。
「……私、ウーティス様と一緒になりたいです」
そう言われて、俺は赤面するのを抑えられなかった。
夜、一つのベッドでイプシロンと共に休みながら、俺は妙に冴えてしまった頭で考えていた。
予想とは異なり、キルケは敵ではなかった。他の兵士ならば彼女に対して敵意を抱くかもしれないが、俺は彼女を敵と見做すことはできない。彼女は理性的で、話が通じる人間だ。話が通じるのならば、敵ではないはずだ。まだ全面的に信頼するわけにはいかないが、それでも協力関係を結ぶことはできた。
いや、キルケのことなどは実はどうでも良い。俺の関心は今、イプシロンに集中している。
「……イプシロン、もう寝たか?」
返事はなく、安らかな寝息が聞こえてくる。俺は彼女を起こさないように、半身を立てた。窓の外を見ると、漆黒の夜空に無数の星々が浮かんでいる。
兵隊人形である俺が霊魂を吹き込み、今はまだ不完全な人形であるイプシロンを、より完全な人間へと仕立て上げる。
それはなんともおかしなことのように感じられた。人形が人形に霊魂を与えて、人間にするなど……
ペネロペ。君は俺を人間にしようとしてくれた。君は俺を愛してくれた。あの時、君は俺に、愛という形で、君の霊魂を分けてくれようとしていたのか?
ならば俺も、君が俺にしてくれたように、イプシロンに霊魂を分ければ良いのだろう。そうすればきっと、イプシロンも人間になってくれるはずだ。
君への愛を抱いたまま、誰も愛することなく俺は死ぬべきなのかもしれない。でも、俺はどうしてもイプシロンを人間にしてみたい。こんな欲求を抱くのは初めてだ。
だからペネロペ、どうか怒らないで、悲しまないでくれ……
心が平穏を取り戻すのと同時に、俺は急速に眠気を覚えた。隣のイプシロンに寄り添うようにして、俺も横になり、目を閉じた。
だが、俺は一つ重要なことについてキルケに訊くのを忘れていた。
なぜ完全なる人工物であるイプシロンの霊魂と、ただの人間である俺の霊魂とが「ピッタリ合う」のかと。
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