第三章 記憶はままならぬ操り人形にも似て

「ウーティス様、ウーティス様。しっかりしてください」

「あれ、起き上がらないですわ? 手加減はしたけど、ちょっと強く殴り過ぎたかも……」


 イプシロンの気遣う声と、スキュラの困惑したような声を、俺はどこか遠く感じていた。


 確かに、スキュラによる後頭部への一撃は強烈だった。俺は手足に力を込めようとしたが、体はいうことをきかない。視界は未だに真っ黒で、その中を線虫のような黄色い電光が走っている。


 だがそれは、肉体に加えられた物理的なダメージのせいというよりも、精神的な打撃が大きく影響しているように思われた。


 ついに魔女が帰って来た。俺はこれから実験材料となって、切り刻まれて、殺される。


 その濃密なまでの死の予感が、俺の四肢と精神から活力を奪い取っているようだった。


「仕方がない、このままこの人間が起きるのを待つのもあれですし、わたくしが担いでいきましょう。途中できっと息を吹き返すでしょうし」

「お姉様、それなら私がウーティス様を運びます」

「それはダメですわ! イーちゃん、今素っ裸同然じゃない! イーちゃんの清らかなお肌がこれ以上この人間と触れ合うのなんて、お姉ちゃんが許しません。さあ、行きましょう。お母様がお待ちですわ……」


 体が持ち上げられ、スキュラの小さな背中に担がれるのが辛うじて感じられた。

 

 俺の意識は明瞭さを取り戻さず、むしろ更に暗い深淵へと、闇の奥へと潜って行くようだった。



☆☆☆



 初めに現れたのは、不機嫌そうな教官の顔だった。筋骨隆々とした堂々たる体格の上に、いわおのような頭部が乗っている。教官は吐き捨てるように言った。


「クズ共が……」


 ああ、これは記憶だ。俺が軍隊に入った、まさにその日の記憶だ。


 教官は教室内でじゃれ合っていた幼い俺たちに向かって、人を殺せそうな鋭い目つきをして、開口一番そう言ったのだ。


 その時俺は六歳だった。おそらく六歳だったはずだ。


 孤児で、名前すら持っていなかった俺は、初めてO-38-22-2043号という名前を与えられ、セメイオンの一員となったのだった。


 たとえそれが俺という個体を識別する単なるコードに過ぎないにしても、俺は何だか特別な気分がして嬉しかった。仲間たちもみんなそうだった。


 そんな浮ついた俺たちの心を、教官は「クズ共」というたった一言で引き締め、支配してしまった。


 静まりかえった俺たちの間を、教官はその巨体を揺らしながら無言で歩き回り、名簿と顔をいちいち見比べていた。そして、教室の前の壇に戻ると言った。


「今日から俺がこの初等養成課程第六班を担当する。俺のことは『教官殿』と言え。無用な口は叩くな。命令に背くな。常に従順であれ。そうすれば俺は貴様らを必要以上に痛めつけたりはせん。必要な分だけ死ぬほど痛めつけてやるだけだ……」


 そう言うと教官は、いかにもうんざりしたというような顔をして、手にしていた灰色のクリップボードを投げ捨てた。


「それにしても、貴様ら三十人ものクズ共の記号を覚えるのは面倒くさい。貴様らにはもっと良い名前を俺がつけてやる。まずΛラムダ-89号、貴様は……そうだな、小狡い顔をしているから『トラペザ(両替商)』だな……」


 それから教官は、あるいは何か問いを投げかけ、あるいは何も訊かず一方的に、次々とあだ名を付けていった。


 俺は緊張しつつ自分の番を待った。あれほどまでに心臓が高鳴ったのはそれまでの人生で初めてのことだった。


 俺に順番が回ってきたのは最後になってからだった。教官は俺の顔を見て、不機嫌そうな表情をさらに強めた。


「まだクズが一匹残っていたか。しかしクズにつけるあだ名もいい加減品切れだ。貴様のことは『ウーティス(誰でもない)』と呼ぶことにする」


 特定の誰かを指し示すのが名前であるのに、「誰でもない」とはおかしなことだ。


 しかし俺は即座にこのあだ名が好きになってしまった。なんとなく、カッコいい。そう感じた。俺が嬉しそうに「はい!」と答えると、教官はつまらなさそうな顔をした。


 命名という重要な儀式を終えると、教官は教室内の灯りを落とさせ、ある映像をスライド上に拡大表示した。


「さて……貴様らがこれから軍隊生活を送るにあたって、一つ重要なことを教えてやる。これを見ろ」


 映像は、大空をバックにして一人の男が演説を行っている様子を映していた。


 あまり上等とは言えないグレーのスーツに身を包んだ男は、中肉中背で、みすぼらしくはないが、立派でもない風貌の持ち主だった。豊かな口ひげと、一本の毛もなく禿げあがった頭部が俺たちの目を惹いた。


「禿げだ、禿げだ……」とささやき合う俺たちを圧するように、教官が大きな声を上げた。


「この禿げこそが俺たちが戦うことになるであろう敵の首領、悪の親玉だ! よく見ておけ、敵の『最高指導者』を! 伝統あるトロイアの王政を破壊し、広く豊かな大陸の地を独裁支配する『生産と進歩の党』の党首にして、敵軍の最高司令官、それがこの禿げ男アデルフォスだ。まだ戦端は開かれていないが、貴様らが生きている間に確実に戦争になる。その時までに、この男を憎んで憎んで憎み抜け!」


 教官は俺たちを睨み据えて、さらに言った。


「憎しみこそが兵士の本質、兵士の原動力だ! 毎朝目覚めた時と夜寝る前、この禿げ男の顔を思い出して憎め! 憎しみという習慣を身につけて、貴様らの中に初めて兵士としての堅固な土台ができる! いいか、これをよく聞け!」


 音量の調節ボタンを操作して、教官は映像の音声が充分に聞こえるようにした。アデルフォスという名の最高指導者は、見た目に反して甲高い声をしていた。


「……我が国とアカイア海洋連合とは、いずれ雌雄を決することになるであろう! それは通常戦争ではなく、ある特殊な形態、すなわち絶滅戦争となるであろう! 雄大なる父なる海に遊弋する醜怪な巨艦都市の群れは消え、我らは自由に海洋を旅するであろう! 無論、政治的努力は重ねている。戦争は忌避すべきだが、しかし怖れるべきではない。既に旧弊の象徴たる王政を倒しておよそ二十年。我々はその間、営々として備えをしてきた。資本と生産手段とはすべて党によって……」


 教官は映像を止めた。そして、憎しみを隠さない表情を浮かべて言った。


「聞いただろう。奴らは俺たちを皆殺しにしようと作戦を立てている。俺たちも奴ら以上に強くならねばならん! だから俺は、貴様らクズ共を使い物になる兵隊人形として鍛え上げる! 来るべき戦争で、奴らを一人でも多く殺せるようにな!……」


 大きな手で教卓を叩くと、教官は念を押すように叫んだ。


「貴様らは今日から人間ではない! 破壊と殺戮を旨とする兵隊人形、その素材だ! 分かったな!」

「はい、教官殿!」


 俺たちは大きな声で返事をした。その「兵隊人形」という言葉は、妙に俺の耳に残った。なんとなく、俺たちはこれからまったく違う存在へと作り変えられるのだろうと思った。


 その予感に違わず、次の日から、猛烈な訓練が始まった。


 六歳の子どもたちにはとても不可能なほどのトレーニング、走り込み、教練、戦闘訓練、座学の数々……泣きごとを漏らす前に、次にやらなければならないことがやってくる。


 教官は敵の「最高指導者」を憎めと言ったが、俺たちはほどなくして教官を憎むようになった。尤も、恐れの感情の方が優っていて、憎しみはまったく浮上してこなかったが。


 いや、俺に限って言えば、教官どころか敵の最高指導者に対してすら憎しみの感情は湧かなかった。


 毎朝、引き伸ばされたトロイアの最高指導者の写真に対して、三分間にわたって憎悪の感情を剥き出しにする「訓練」が、俺たちセメイオンの卵には課されていた。周りの子どもたちは椅子に座ると、歯を食いしばり、目を怒らせ、泡を噴き出しながら敵に対する怒りを露わにする。


 俺はいつも、表面的には憎悪を示しつつも、その光景をどこか白けた気持ちで眺めていた。


 言われたとおりに行動することはできる。銃を分解し、操典をそらんじ、ブラシを持って便所を掃除することは苦もなくできる。だが、言われたとおりに心の中から憎悪を引き出せるかというと、まったくそんなことはなかった。


 いったい、こいつらはどうしてこんなにも必死な顔をして、会ったこともない人間に対して「憎しみ」を燃やすことができるのだろう?


 こいつらは、そう言われれば、味方すらも憎むことができるのだろうか? そう言われたという、ただそれだけの理由で、味方の兵士や、自国の人間を憎むことができるのだろうか?


 一度抱いてしまった疑念は日々の憎悪の時間を経るごとに、ますます強固なものとなっていった。


 教官はそんな俺の内面をある程度見通していたらしい。ある日の憎悪の時間が終わった後、俺は教官に呼び出されて、注意を受けた。


「どこか貴様は浮いている! 貴様には敵愾心が足りていない! もっともっと敵を憎め!」


 そのように言われても、俺にはどのようにして憎しみを燃やせば良いのか分からない。生意気なことに、俺は教官に対して質問を発した。


「どのようにしてもっと憎めば良いのですか」


 普通、こんな質問をすれば殴り飛ばされる。だが、教官は少し困ったような顔をした。そんな表情を見るのは初めてだった。数秒間考えた後、教官は言った。


「……座ってる椅子を揺らせ! できるだけ力を込めて、音が鳴るくらい激しくな。そうすれば憎んでいることになる! 形から入るんだ! 物事の基本だ!」

「はい、教官殿!」


 次の日から早速俺はそのようにした。ほどなくして、周りの子どもたちも俺に倣うようになった。


 それでも、俺の中で憎しみが燃えることはなかった。やはり俺は、生まれつき甘いのかもしれない。


 俺たちは歯を食いしばって毎日を耐えた。それが六年間続いた。


 今にして思えば、脱落者が一名たりとも出なかったのは奇跡的なことだった。いや、それは奇跡ではなく、教官の指導手腕によるものだったのかもしれない。他の班では健康を損なって軍を退かざるを得なくなり、貴族たちの下級奴隷として売られていった者が毎年数名は出ていたのだから。


 闇の中での俺の思考に割り込むように、二人の女の子の声がした。


「ちょっと、この階段急過ぎ! 前からリフォームしようと思っていたけど、こんなところで牙を剥くとか……ていうか、お、重たい……やっぱりこの人間、重たいですわ……なんでこんなに余分な筋肉をつけてやがりますの、この人間は……あっ!」

「あっ」


 突然、強い衝撃が俺を襲った。


「やっべぇですわ、頭から落としちゃった……死んだ? いえ、死んでない。変な音がしたけど、まあ大丈夫でしょう! わたくしに運ばれているだけでも幸運なのですから、それだけでも感謝してもらいたいですわ!……イーちゃん、そんな目で見ないでちょうだい……」

「お姉様……」


 スキュラの狼狽したような声と、心配そうなイプシロンの声を聞きつつ、何か固い地面に頭から墜落した俺は、またもや混沌の渦へ飲み込まれていった。



☆☆☆



 俺はいつしか、明るい、広い場所に立っていた。


 兵営では耳にすることができない、底抜けに陽気な音楽が流れている。機械が作動する音、何かが高速で走る轟音、子どもたちの歓声、笑い声、喜びを含んだ悲鳴……


 ここは、遊園地だ。そうだ、十二歳の時、初級課程が終わる直前、俺たちはなぜか遊園地で遊ぶことになったのだ。


 総排水量八億トンを誇る巨艦都市イタケーの最上甲板、その第三居住区にある遊園地だ。


 遊園地はその日一日、俺たちのためだけに貸し切りにされて、食べ物もお菓子も好き放題楽しみ、朝から夕方まで思う存分遊びまくることになっていた。


「全員、整列!」


 聞き慣れた教官の声が響く。俺たちは瞬時に整然とした二列横隊を組む。それを遠くの方から、女の子たちがこわごわと眺めている。


 遊園地での遊びには辛く長かった六年間を労うという意味もあったが、それよりも、俺たちが「一般市民との付き合いを学ぶため」という目的の方が強かった。兵営という閉鎖的な環境で育った俺たちには、市井の人間と普通に接する能力が乏しかったからだ。


 そう、その日、最上甲板上にある女学校の女の子たちも遊園地に呼ばれて、俺たちと一緒に遊ぶことになっていた。


 ルールは単純で、男の子と女の子は二人一組になって行動し、男の子は女の子をあらゆる面で守り、なんでも女の子の言うことを聞く、ということになっていた。


「いいか! 今日だけはお前たちは兵隊人形ではなく、人間として行動しなければならない! 自分で考え、自分で行動しろ! だが、決して女の子たちを傷つけることがないように……!」


 教官の言葉が終わると、俺たちは列を解いて遊園地の入口へバラバラに向かって行った。そこには女の子たちが群れて、俺たちを待っていた。


 陳腐な表現だが、それは運命的な出会いだった。


 その子は、俺と同じ年齢くらいの女の子だった。


 彼女は亜麻色の髪をふんわりと縦ロールにしていて、身に纏う女学校の青い制服にはきちんとアイロンがかけられており、乳白色の美しい肌の上には薄く化粧までしていた。


 そしてなによりも、爽やかな夏空のように澄んだ蒼い瞳が印象的だった。


 彼女は何が面白くないのか、それとも面白いのか、それすら分からないほどの無表情だった。おまけに固く腕を組んでいた。早熟な美しさも相まって言いようのない迫力を醸し出している。 


 男の子たちはそんな彼女に近寄ることができず、他の女の子を見つけてはペアを作って遊びに行ってしまった。


 今から思うと、彼女は単に緊張していただけだったのだろうが、そんな彼女を見て俺は「女の子というのは随分と俺たちとは違うんだな」と思った。そして、そう思いつつも自然と声をかけていた。


「俺と一緒に遊ばないか?」


 彼女はじろりと俺に視線を投げかけた。しかし一向に口を開かない。焦れてきた俺は再度口を開いた。


「どうなんだ? 早くしないと一日が終わるぞ」


 すると女の子はおもむろに口を開いた。その声は態度とは裏腹にとても愛らしいものだった。


「……でも、今朝の占いの結果によると私は今日誰とも遊ばないらしいし……」


 俺はその言い分に半ば驚き、半ば呆れた。


 占いなどという非科学的なものを信じているとは、女の子というものは自分の想像していた以上に難敵らしい。


 しかし、このままにしていても埒が明かない。そう思った俺は、固く組まれていた彼女の腕をほどき、手を取って言った。


「ほら、ついてきてくれ。どのみち今日は二人一組で行動しなければならないのだから、占いのことはひとまずおいて早く遊びにいくぞ」


 強引な俺に彼女は驚いた表情をして、それから手を握られていることに気付いてみるみるうちに顔を赤らめた。


 彼女は俺の手を振りほどこうとしたが、しかし俺はしっかりと掴んでいて放さない。しばらく無言の攻防が繰り広げられた。


 そのうち彼女は諦めて、一言だけ言った。


「名前はなんていうの?」


 態度が軟化したのを見て俺は手を放した。そして名乗った。


「俺はO-38……いや、ウーティス。ウーティスという」


 記号の名前を恥じたことはない。だが、その時はウーティスと名乗らなければならないと、なぜか思った。


 彼女は驚いた顔をした。


「そう、ウーティスっていうのね。今朝の占いは、今日私と一緒に遊ぶ人は『誰でもない』と告げていたから……つまり当たっていたわけね! それにしても『ウーティス(誰でもない)』だなんて、変わった名前をしているのね」


 しばらく俺の顔をじっと見つめてから、彼女は花のような笑顔を浮かべて言った。


「まあ、良いか! 私はペネロペイア。ペネロペと呼んで。今日はよろしくね!」


 礼儀正しく優雅に一礼するペネロペを見て、俺は言いようのないときめきを覚えた。


 それからは彼女と一緒に遊園地を巡った。ローラーコースターに回転木馬、射的ゲームにカート競争、見世物小屋に観覧車。


 どれも初めて見るもので、とても面白いものではあったのだが、しかし俺はそれを存分に味わえないほどに緊張していた。


 俺たちは直前に教官から「淑女に対する接し方」を叩き込まれていたので重大な粗相をすることはなかったが、初めて接する「女の子という生き物」に終始戸惑い、恐ろしくエネルギーを消耗した。


「ちょっと待って、占いをするから……」


 わけても、ペネロペが事あるごとに占いを始めるのには閉口した。彼女は銀貨を六枚持っていて、それを投げて表裏を見、そこから何らかの託宣を得るようなのだが、これに十分ほどかかる。


 はやく次へ行きたい俺としては極度にじれったいのだが、男はなんでも女の子の言うことを聞くことになっていたのだから我慢しなければならない。


 それでも、ペネロペはとても良い子だった。大きな声を上げて笑うなどということはなかったが、俺が冗談話をすると必ず微笑み返してくれたし、ずっと俺の手を握ってくれた。


 昼食の時、ペネロペとこんな会話をしたのを覚えている。


「それにしても驚いたわ。私のお父様は、兵士というものは毎日言われるままに戦闘訓練ばかりしていて、物事を考えることも、相手を思いやることもできない『人形』のようなものだと仰っていたの。でも、あなたは全然違うのね。よくエスコートしてくれているし」


 俺は、ごく普通に会話を続けることができた。


「いや、君の父親の言うとおりだと思う。俺たちは毎日訓練ばかりで、君をエスコートできたのも事前に教育を徹底されていたからだ。それに、こうして遊ぶなんて軍隊に入ってから初めて……いや、生まれて初めてかな」


 ペネロペは俺の言葉に首を傾げた。ふわりと彼女の髪が揺れる。


「生まれて初めて……? でも、あなたにもお父様とお母様がいるのでしょう? 軍隊に入る前は、ご両親が遊びに連れていってくれたんじゃないの?」


 俺は首を左右に振りつつ、言った。


「俺には父親も母親もいないよ。生まれた時から孤児だったらしい」


 それを聞いた途端、彼女ははっとした顔をして俯いてしまった。


 俺は何かとんでもないことを言ってしまったのではないかと焦り、急いで言葉を続けた。


「それに俺だけじゃない。今日ここに来ている男の連中のほとんどは元々孤児さ。それに今は軍隊が親のようなものだから寂しくはない……」


 あれこれと俺は話し続けたが、ペネロペは何も言わない。だがしばらくして、彼女はふっと顔を上げると、なにやら固い意志を秘めた視線を俺に投げかけた。


「ウーティス、午後は私があなたをおもてなしするわ。あなたの好きな遊びをして。私はそれに精一杯付き合ってあげるから……」


 そんなわけで午後は主客の立場が逆転した。


 午前中、俺は射的ゲームをひそかに大変気に入っていて、ペネロペがいなければもっと遊べるのにと思っていたのだが、彼女はそんな俺の気持ちに気付いていたのか、真っ先にそこへ連れていってくれた。


「すごい、すごいわ、ウーティス! 百発百中じゃない!」

「この程度、大したことではない。いつもやっていることさ」


 トロイアの最高指導者を模した標的へ正確に弾を当てる俺を、ペネロペは言葉少なにではあったが、いちいち称賛してくれた。教官からはよく射撃の腕を褒められていたが、こうして女の子から褒められるとそれまでに感じたことのない高揚感を覚えた。


 楽しい時間はすぐに終わってしまう。水平線の彼方に日が沈む時が来た。一時間後には俺たちはまた、あの規律と号令と憎しみに支配された兵営へ戻らなければならない。


 別れ際、ペネロペはそっと、俺に言葉を投げかけた。


「……ウーティス、今日はありがとう。あなたのおかげで、とても楽しかったわ」


 真っ赤な夕陽を浴びている彼女の表情はとても大人びていて、我知らず心臓が高鳴った。


 まともに彼女の顔を見ることができず、視線を逸らしながら「俺も今日は楽しかった」と答えたが、そんな俺に彼女はこう言った。


「ねぇ、これからもあなたに会える?」


 蒼い瞳にじっと見つめられて、俺はごまかし半分にうーんと唸った。


「それはどうかな……俺たちはこれから術科教育に進むんだが、そこで外出が許されているかどうか……」


 はっきりしない返事に、ペネロペはそっと制服の上着のポケットから銀貨六枚を取り出し、投げた。そしてそれぞれの表裏を確認してから俺に言った。


「今の占いによると、私とあなたはまた会うことになっているわ。だから、会いに来てね。私、いつでも待っているから……」


 その言葉に対して、俺の喉の奥から出てきた言葉は、純粋なる疑問だった。


「なぜだ?」

「えっ?」

「なぜ、俺なんかを待つんだ。なぜそんな、無駄なことを」


 ペネロペは、見るからに不満そうな表情を浮かべた。


「ちょっと。どういう意味よ。私があなたを待つのは無駄だと言うの?」


 俺は首を左右に振った。


「そうじゃない。君が俺を待つのは、君の勝手だ。君の思う通りにすれば良い。だが、俺は、自分自身が君に待ってもらえるほど特別な価値のある存在だとは思っていない。価値のないものを待つのは、時間の無駄じゃないかと思ったんだ」


 俺がそう言うと、ペネロペの表情が不機嫌から呆れへと変わった。彼女は数秒考えた後、静かに口を開いた。


「……ウーティス。あなた、歳のわりに無駄に理屈っぽいってよく言われない?」

「『兵隊人形のくせにものを考えすぎる』とはよく教官から言われるな。仲間からも、よく哲学者とからかわれる。俺は、自分のことをごく標準的な『兵隊人形』だと思っているが……」


 突然、ペネロペはポンと手を叩いた。


「それよ」

「なに?」

「今日遊んでいる間、ずっと気になっていたのよ。あなた、随分と自分に対する評価が低いわ。まるで、自分のことを無価値と考えているみたい。お菓子でも飲み物でも、自分では食べないで全部私に渡しちゃうし。午後だって、私が言うまであなた、自分の好きな遊びをすることもなかったじゃない。射的遊びをしているあなたは、ずいぶん生き生きとしていてカッコ良かったのに……」


 言い募る彼女を遮って、俺は声を上げた。


「しかし、それはそうだろう。君と俺とはまったく違う。俺はセメイオンで、ただの兵隊人形だ。俺にはそれ以外、特別な価値なんて……」


 俺が抗弁しようとすると、ペネロペは人差し指を俺の額に突きつけて、きっぱりとした口調で言った。


「やめなさい、そういうことを言うのは! 伝説の英雄ヘラクレスは言ったわ、『自分に価値がないと思っている人間こそ、真に価値のない人間である』って!」

「本当にヘラクレスはそんなことを言ったのか?」

「うっ……まあ、言っていないかもしれないけど、でもヘラクレスはきっと自分のことを価値のない人間だなんて少しも思っていなかったはずよ。要するに、自分で自分には価値がないと言う人は、そのことによって自分で自分の価値を貶めているの。今後、私の前でそのようなことを言うのは許さないわ。分かった?」


 だが、そう言われたところで、身に染み付いた価値観をすぐに転換することはできない。


「努力はしよう。だが、すぐには変われない。そしてたぶん、変わることはないだろう」


 ペネロペは、俺の返答を聞いて不満そうな顔をした。そして、腕組みをして口を開いた。


「そう……まあ確かに、自分一人の力だけで自分を変えるのは難しいかもね。なら、私が協力してあげるわ。あなたが自分のことをもっと大切にするようになるまで、私が付き合ってあげる。覚悟しておきなさい」


 彼女の言葉からは、強い決意が感じられた。俺にはそれが不可解だった。


「仮にそうすることによって俺が変われるとして、どうして君はそこまでして俺に構う? そうすることで君に何か良いことがあるのか?」


 そう言うと、彼女はほんのりと頬を染めた。


「もちろん、あるわ」

「なんだ、それは」


 ペネロペは、俺からやや視線を逸らし、呟くように言った。


「私ももうそろそろ十三歳。お人形遊びなんてもうとっくに卒業しているの。私が好きになるのは、人形じゃなくて生きた人間、輝く霊魂を持った人間よ。だから、私はあなたを人形から人間にしてあげたいの。霊魂を持った人間が相手じゃないと、恋愛とは言えないから……」


 その空色の澄んだ瞳で、ペネロペは俺をじっと見つめた。


「あなたが心の底から自分のことを人間だと思えるようにしてあげたい。初めて好きになった人が自分のことを人形だと言っているのなんて、悲しいわ」


 好きだとか、恋愛だとか、これまでの人生で聞いたことのない言葉に俺が混乱していると、彼女は締めくくるように言った。


「……また手紙を送るから。必ず返事を書くのよ。それはあなたを人間にするための教育も兼ねているから。良いわね? 必ず書くのよ」

「……ああ、分かった」


 当時の俺は、残念ながら彼女の気持ちに気づけなかった。


 その後、俺は初級課程での成績が特に優秀だったことにより、選抜されて歩行兵器操縦科へ進むことになった。当時世の中に出現したての最新兵器たるΝΣを一刻も早く操縦できるようになるため、連日猛訓練が行われた。


 それまでと異なって術科課程では毎月一日だけ外出日が設けられていたが、俺は射撃競技の特練生に選ばれていたこともあり、なかなかペネロペに会いに行けなかった。


 その代わり、俺たちは手紙のやり取りをした。


 俺から彼女へ出す手紙は検閲されていて、ΝΣに関する一切の記述はおろか、少しでも機密に関することが書いてあると黒塗りにされて削除されてしまうので、文面は定型的にならざるを得なかった。


「……ペネロペ、元気か。こちらは日々訓練に明け暮れている。トロイアの最高指導者を的にしての射撃訓練はなかなか楽しい。一日を終えるたびに技量が上がっているのを実感している。戦場に出て最初の戦果を上げたら、真っ先に君に知らせを送るよ。体を壊さないように……」


 時には、これまでの自分について書くこともあった。ペネロペから「訓練のことだけではなく、もっとウーティス自身のことが知りたいの」と手紙で言われたからだった。


「……俺が生まれたのは艦底に近い、第十二居住区だった。俗に『冥界(タルタロス)』と呼ばれるところさ。使われなくなった弾薬とか、兵器の残骸とか、そういったものを発掘して生計を立てている人が多かった。全体的に貧困そのものと言って良い場所だった。軍隊での生活は一般人の目からしたら厳しいものかもしれないが、俺にとっては居心地が良い……」

「……知っているか? 第十二居住区には太陽の光がまったくないんだ。無数の放電灯がその代わりをしていた。軍隊に入って、初めてこの世には海があり、空があり、風があって太陽があることも知った。そして、君のような女の子がいることも……」


 一方、彼女からの手紙には検閲などというものはないので、彼女のありのままの心情や日常生活を知ることができた。


「……お手紙をありがとう、ウーティス。元気そうでなによりです。それにしてもあなたのお手紙の文面はちょっと固いわね。前に私が薦めた本は読んでいるかしら? 神話ミュートスは人間にとって必要な知識がたくさん詰まっているから、サボらないで読むように。『諸神讃歌』が手に入らないというなら、私から送ります。やっぱり、昔の詩人たちの美しい文章に触れないと、心も霊魂も清らかにはならないし、手紙もつまらなくなります。ちゃんと読書をして!……」

「……軍隊で頑張っているあなたにこんなことを書くのもどうかと思うのだけど、学校は退屈です。教科書を読んでいれば分かるような内容を、先生はいちいち声に出して繰り返すだけなの。授業中はいつも占いのことと、あなたのことを考えています。安心して、テストはいつも満点だから……」

「……『誰でもない』人に手紙を書いていると言うと、友人たちはみんな変な顔をします。でも、本当のことなのにね。そうそう、この間お父様が評議会の議事録を見せてくださいました。でも私、読んだら腹が立っちゃって。この巨艦都市で一番学識があって、恵まれた環境にいる代議士たちですら、ウーティスたちのような兵士のことを『人形』と呼んでいたのです。『イタケーのセメイオンこそは誇るべき兵隊人形』とか言って。あなたたちは紛れもない、霊魂を持つ人間なのにね……」


 また、俺は手紙によってペネロペから簡単に銀貨占いの手ほどきを受けた。六枚の銀貨の投げ方や結果の解釈に至るまで、彼女は概略を教えてくれた。


「……六枚のコインを用意して。そのうち一枚は金貨にするか、それとも印をつけておくの。私は昔お父様からもらったコインをそれにしているわ。それで、占いたいことを強く心に念じるの。精神を集中して問いを立てたら、コインを投げて。一度でも、一枚ずつでも良いけど、私は手が小さいから一枚ずつ投げているわ。投げ終えたら、それを下から順番に並べるの。そしたらコインの表と裏からなる列が一つできるでしょう? その下半分と上半分のヘキサグラムを読み取れば、占いの結果が得られるわ。でも肝心なのは、結果の解釈よ。これについてはもっと教えてあげたいんだけど、今は手紙に書き切れないのが残念……」


 外の女の子と手紙のやり取りをしているのは俺だけだった。俺たちセメイオンに自由恋愛は禁じられていたのだが、なぜか俺だけは黙認されていた。


 手紙をやり取りすることが、ペネロペの言う俺を「人間にすること」とどう関係しているのか? それは相変わらず分からなかったが、それでも俺は、俺の中で、何か未知のものが膨らみつつあるのに気づいていた。


 そう、俺は、恋心という名前こそ知らなかったが、それを着々と膨らませていたのだった。


 だが、セメイオンたる俺たちに市民権はなく、従って結婚の自由もない。たとえ将来を誓いあったとしても、国家と軍隊の法律がそれを許さない。


 この恋愛の萌芽のようなものも、所詮はいつか枯れてしまうさだめにある。それを薄々分かっていながら、俺は、ペネロペからの手紙を読み、彼女への返事を書くのをどうしてもやめられなかった。


 特にペネロペは、俺以上の情熱を持って、俺に手紙を送ってきた。そんな彼女が「会いたい」と書いて寄越したのは、俺たちが前に直接会ってから、ちょうど一年が過ぎた頃だった。


 上官に外出許可を申請すると、それは意外なほどすんなりと下りた。彼はニヤリと笑みを浮かべて、俺に意味深長なことを言った。


「許可を出さないわけにはいかないさ。前例がないわけではないし、それになによりお前は、『特別』だからな。だが、粗相がないようにしろよ。相手はお前など指先一つで消せるんだからな……まあ、せいぜいデートを楽しめ」


 ペネロペとは、第二居住区にある最高級ホテル「パラス・アテナ」のロビーで待ち合わせをしていた。彼女よりも先に来ることができて、俺はほっとした。


 不安すら覚えるほどに柔らかいソファーに座りながら、それでも姿勢を崩さずに出入口を見張っていると、一台の黒塗りの高級車が止まり、中から女の子が一人降りてきた。


 背が少し伸びているが、間違いはない。ペネロペだ。彼女は白いワンピースを着ていて、萌黄色の小さなポーチを肩から下げていた。彼女はしきりに頭を下げる運転手に二言三言声をかけてから、こちらに向かって歩き始めた。


 俺が立って迎えに行くと、ペネロペは明るく笑った。


「久しぶりね、ウーティス! 待たせちゃったかしら」

「俺などいくらでも待たせても良い。気にするな」


 俺がそう言うと、彼女は唇を尖らせた。


「まーたそんなこと言っちゃって……手紙だとだんだん人間らしくなってきたと思っていたのに……まあ、いいわ。今日はたくさんお喋りをして、直接あなたを『教育』してあげるから」

「今日は教育ではなく、デートなんじゃないのか?」


 俺の思わぬ反撃に、ペネロペは驚いたような顔をした。


「……前言撤回。あなた、けっこう人間らしくなってるわ。そうね、今日はデートを楽しみましょう」


 緊張はしていたが、それ以上に俺は浮き立つ気持ちを覚えていた。


 ペネロペとまた会って、話すことができる。誰の目をはばかることなく、自分の思っていることを、自由に話すことができる。それはセメイオンの兵営生活では望んでも望み得ぬものだ。


 いつの間にかペネロペの近くに、黒い高級な制服を身に纏った中年の男性が立っていた。男は慇懃な態度でペネロペに話しかけ、恭しく頭を下げている。ペネロペは優雅なしぐさでそれに応対していた。


 男が去っていった後、ペネロペに俺は言った。


「あの男性はいったい誰だ」


 ペネロペはなんということもないというふうに答えた。


「ホテルの支配人さんよ。私のお父様に是非よろしくって。さあ、行きましょう」

「どこへ行くんだ」

「もちろん、占いで決めるのよ。そうだウーティス、あなたがコインを投げてみて……」


 それから俺たちは、第二居住区にある庭園や美術館、植物園を見て回った。ペネロペの知識は豊富で、俺たちが見るものすべてについて解説をしてくれた。


「この庭園は二百年前のイオニア海戦の勝利を記念して作られたのよ。真ん中に聳え立っている鉄柱は、捕獲した敵艦のマストでできているの……」

「この絵はシーシュポスの岩がモチーフになっているわ。ウーティス、ちゃんと『シーシュポスの神話』について説明できる? できないの? ちゃんと前に送った本、読んでくれたんでしょうね……?」

「私、植物園が好き。イタケーにはない花がたくさん咲いていて、簡単に外国を味わうことができるから。ねえ、外国ってどんな感じなのかしら……」


 植物園を見た後、俺たちはホテルに戻り、そのレストランで昼食を食べた。ペネロペはここでも俺に教育を欠かさなかった。


「ああ、ウーティス……いくらあなたが兵士だからと言って、その食べ方はなんなの?」

「セメイオンは、食事の最中でも目を下げてはならないことになっている。常に目線を水平に保って、突発的事態に備えていなければならない」

「なるほど、実戦的な食べ方なのね。でもここは、ただのホテルよ。もっとそれにふさわしい食べ方があるわ。まず、食器の使い方は……」

「食事など、栄養が補給できれば良い。余計なことを覚えたくない」

「その余計なことが人生では大切なのよ。余計なことを覚えることで、心に余裕が生まれるのだから。さあ、これから私が言う通りにしてみて……」


 彼女の教えを、俺は黙って聞いていた。ともすれば窮屈になりがちなマナー講座も、彼女によって行われることによって、楽しいものとなっていた。


 食後、俺たちはレストランからラウンジへ移り、茶を飲みながら会話に興じた。


 ペネロペの学校での出来事や、日常生活での他愛のない話が続いた後、次は俺が話をするように彼女は言った。


「ウーティス。これまでも手紙であなたのことについていろいろと教えてもらったけど、改めてあなたの口から、あなたの過去について教えてほしいの。話してくれない?」

「……過去か。そんな立派な言葉で言い表せるほどのこともないが……」


 俺がそう答えると、彼女は蒼い瞳に真剣な色を乗せて、俺を見つめた。


「話したくなければ話さなくても良いわ、ウーティス。でも、過去というのはあなたが考えている以上に重要なものよ。過去は、単にこれまで積み上げてきた時間の集積というだけではないの。いうなれば、過去は霊魂プシュケーが持つ財宝よ。その人の霊魂に、その人にしかない色と輝きをもたらす重要なものなの」

「ペネロペ、君は霊魂などというものを信じているのか?」


 俺の問いに、彼女は至極当然といった表情を浮かべた。


「もちろん。あると信じているわ。目で見ることも、手で触れることもできなくて、その上科学的な証拠がなくても、私は時々、霊魂の働きを感じる。亡くなったお母様の霊魂がいつも私を守ってくださっているのを感じるし、それにウーティス、あなたからも感じるの」

「俺が?」

「そう。あなたからの手紙を読むと、あなたの霊魂が文面に働いているのを感じるわ」


 その時俺は、きっと変な表情を浮かべていたのだろう。ペネロペはそれを咎めるような視線を送ってきたが、彼女は話を切り替えた。


「まあ、そんなことよりも今はあなたの過去よ。教えてくれない? 私、あなたのことならなんでも知っておきたいの」

「そうか……」


 しばらく、俺は迷った。正直なところ、自分の過去がペネロペの強い興味の対象となるほどには変わっているとは思っていない。話せばペネロペはきっと退屈するだろう。


 いやそれよりも、俺は、過去を話すという行為そのものを恐れていた。そのことによって、自分でも気づいていなかったこと、あるいは忘れようと思っていたことを蘇らせてしまうのではないかと俺は思った。


「ウーティス、大丈夫? どうしても話したくないのなら、それでも良いけど……」

「いや、話そう。君になら、話せる気がする」


 それでも、俺は話すことにした。ペネロペならば、きっと俺の過去を受け止めてくれるだろうと、ふと確信に近いものを感じたからだった。


 茶を一杯、一息に飲み干すと、俺はやや視線を下げ、ペネロペの胸元を見ながら話し始めた。


「俺は、俺がいつ生まれたのか知らない。軍では俺は十四歳ということになっているが、それは勝手に軍が便宜上そう決めただけのことだ。生まれた日時も知らなければ、生まれた場所も知らない。物心がついた頃には、俺は第十二居住区にいた」

「第十二居住区……この巨艦都市イタケーの最下層、旧主砲弾後部弾薬庫のことね」


 ペネロペが補足をするように言葉を重ねる。俺は頷いた。


「君には手紙で書いたな、第十二居住区は『冥界』と呼ばれていて、全体的に貧困そのものだったと。広い弾薬庫の中は無数の隔壁で区切られているんだが、これを木材でさらに細かく分けてあった。その狭い空間の中に家とも言えない汚い小部屋がいくつも設けられていた。俺もそんな小部屋で育った。居住区は二メートル近い厚みのある装甲板で囲まれているから、常にカビと湿気と錆の臭いが漂っていた。気温と湿度を調節するための空調・通風設備も故障気味だったから、空気はいつも淀んでいた。暗い、ジメジメとした、陰気な場所だったよ」

「放電灯が太陽の代わりをしていたそうね。それで体がおかしくなったりはしなかったの? 日の光を浴びずに育つと、骨格に異常が生じると聞いたことがあるけど」

「もちろん、当局はそのことを把握していた。艦底近くの居住区の住民には全員、無償でビタミンD剤のカプセルが配られていたよ。このカプセルが大きくて、硬くて、まだ小さい俺は飲み込むのに苦労した……」


 ペネロペは静かに話を聞いている。俺の話が途切れると、彼女は問いを発して続きを促した。


「あなたは孤児だったと言ったけど、誰かお父様やお母様の代わりになる方はいなかったの?」

「いたよ。俺には『おじさん』と『おばさん』がいた。俺と、俺と同じくらいの子どもたちの五人、合わせて六人を、おじさんとおばさんは育てていた」

「おじさんとおばさんの名前は?」

「知らない」

「えっ?」


 驚く彼女をそのまま置いて、俺は話し続けた。


「おじさんとおばさんは、俺たちに名前を教えてくれなかったんだ。その上、俺たちが二人を『お父さん、お母さん』と呼ぶことも禁じていた。そして、それで問題なかった。おじさんはおじさんだったし、おばさんはおばさんだった。それに、俺たちにも名前がなかったしな」


 ペネロペはなおも驚きの表情を浮かべている。


「名前がなかった? どういうことなの?」

「文字通りの意味だよ。俺たちに固有の名前なんてなかったんだ。俺はあだ名で呼ばれていた。六人の子どもの中で一番背が高かったから、俺は『大きなチビ』、二番目に大きな子どもが『やや大きなチビ』、一番小さな子どもが『チビの中のチビ』というふうに……」

「どうして、おじさんとおばさんは名前を……」


 疑問を口にするペネロペに視線を送り、俺は先を続けた。


「そのことについては、たぶん後で話すと思う。それに、別に名前がなかったからといって、不自由をしたことはない。おじさんもおばさんも、俺たちをしっかりと育ててくれたしな。汚い狭い家で、茶色いシミだらけの壁には割れ目が何本も走っていて、その中からカサリダ(羽虫)が這い出て来ては走り回るような環境だったが、俺にとっては紛れもない家だった。毎日、けっこう楽しかったしな」

「どんな遊びをしたの?」

「他愛のない遊びさ。他のチビたちと追いかけっこをしたり、炭の欠片で壁に落書きをしたり、葬式の列に加わってちょっかいを出してみたり……第十二居住区では毎日事故が起きていて、死者が出ることもしょっちゅうだったから、葬列を見ない日の方が少なかったよ。住民同士の殺し合いも多かったし……撃ち合いに巻き込まれて、子どもが死ぬこともあった。幸い、俺の家では誰も死ななかったけど」


 ペネロペは黙って聞いている。こんな何の変哲もない、イタケーのセメイオンだったらごく平凡な話を、どうして彼女は熱心に聞いているだろうか。


 俺は、ペネロペの顔色が悪くなっていることに気付いた。


「どうしたんだ。あまり顔色が良くない。やはり、こんな話は退屈だったか」


 そう言うと、彼女は激しく首を左右に振った。


「い、いいえ! そんなことはないわ! ぜひ、続きを話して」

「そうか。それなら話すが……」


 店員がやってきて、新しい茶を注いだ。ペネロペがそれを飲み終えたのを見て、俺は口を開いた。


「夜はおじさんとおばさんとチビたち全員で寝て、朝起きたら豆のスープを食べて、放電灯が消えるまで遊んで、また食事をし、寝る。そんな毎日だった。おじさんとおばさんは無口で、あまり俺たちとお喋りはしてくれなかったが、俺たちを飢えさせるようなことはなかった。他の家の子たちの中にはやせ細っているのも多かったのに、俺たちチビはかなり肉付きが良かった。ビタミンD剤も欠かさず飲んでいたから、骨格の形成にも異常はなかった。でも、そんな日々が終わる時が来た。唐突に」


 ペネロペが息を呑んだ。これから重大なことが話されるのを予期したのだろうか。


「たぶん、六歳になった頃だと思う。その日の朝、俺たちは全員、シャツにズボンに上着というそれまで着たこともない上等な服装をさせられて、全員で外に行くことになったんだ。おじさんとおばさんは『今日はみんなで少し遠いところへ遊びに行く』なんて言うから、俺たちはみんな大はしゃぎだった。いつも走り回っている狭い路地を抜けて、大通りに出て、自転車タクシーに分乗し、『郊外』と呼ばれている場所に行った」


 俺は窓の外を見た。いつの間にか太陽は厚い雲に覆われていた。木々の揺れから見て、風も吹いているようだった。


 一雨来るかもしれない。そう思いながら、俺は目線をペネロペに戻した。


「そこにはエレベーターがあった。もともとは重い主砲弾を上の階層へ持ち上げるためのエレベーターで、俺たちが全員乗ってもまだまだ余裕なほど大きなものだった。俺はだんだん楽しい気持ちになってきて、おじさんに尋ねた。『ぼくたち、これからどこにいくの?』と……そしたら、おじさんはめったにないことに笑って、こう言ったんだ。『最上甲板だ。これから太陽を拝ませてやるぞ』って。俺はそれまで太陽なんて見たことがなかったから、すごくわくわくしたのを覚えている」

「そうね……あなたはそれまで、太陽すら見たことがなかった……」


 ペネロペが、静かに、どこか悲しげに言った。俺は軽く頷いた。


「おじさんの言葉に偽りはなかった。俺たちはその後、うねうねとした艦内の通路を曲がったり登ったり下ったりして、無数のエレベーターを乗り換えて、ついに最上甲板へ出た。今から思うと、そこはたぶん、第二居住区の三番ハッチだったんだろうと思う」


 窓に、細かな水滴が垂れ始めた。雨が降り始めたのだ。


「残念なことに、俺たちがその時見たのは太陽ではなくて、星々と月だった。朝早くに出発したのに、艦底の第十二居住区から最上甲板へ俺たちが移動するだけで丸一日近くを費やしたことになる。イタケーの巨大さをその時初めて実感したよ」


 ペネロペは俺の目を見つめている。外の雨空とは対照的なまでに、彼女の目は蒼く美しく輝いている。


 興が乗ってきた俺は、だんだん言葉数が多くなってきたのを感じていた。


「初めての最上甲板、それはまさしく天上の世界のようで、俺たち子どもは潤んだ目で夜空を仰ぎ、満天の星々と煌々と光輝く月を見つめ、波の音に胸をときめかせ、冷たい海風に鼻をくすぐられ……と言いたいんだが、実際はそうではなかった。その時、俺たちは戸惑い、怯えていた。それも極端に怯えていた。まず、吸い込む空気の味があまりにも違った。甘く、柔らかで、潮のほろ苦さをも感じさせる空気は、第十二居住区のそれとはかけ離れていた。チビながら感じたのは、このまま呼吸を続ければ病気になってしまうのではないかという恐怖だったよ。それに、初めて聞く波の音も俺たちの怖れを掻き立てた。それは魔物や怪獣の唸り声のようだった。それだけじゃない。風も恐ろしかったし、広すぎる夜空も、多すぎる星々も、明るすぎる月も怖かった。ペネロペ、君が当たり前に見ているものが、あの時の俺たちには例えようもなく怖かった……」


 外の雨は、激しさを増していた。雨を初めて知った時も、俺は恐れを抱いたものだった。


「ついに、『一番小さなチビ』がしくしくと泣き始めた。それに釣られて、小さい子どもから順にみんなが泣き始めた。俺は『大きなチビ』としてのプライドがあったから声を上げて泣くことはなかったが、それでも目から涙がとめどもなく零れ落ちた。そんな俺たちを見て、おじさんが誰とはなしに言ったんだ。『やっぱり泣いたか。ここに連れてくるといつもみんな泣くんだよな、まったく……』って……」


 ここでペネロペは目を見開いた。


「ここに連れてくると、いつもみんな泣く? それって……」

「そう。おじさんは確かにそう言った。その意味が分かるのに、あまり時間はかからなかったよ。記憶が定かではないんだが、確かその日は第二居住区のどこかの宿泊所にでも泊まったんだと思う。次の日、おじさんとおばさんは俺たちを連れて宿泊所を出た。太陽も、青い空も白い雲も、石畳の街路も、高い建物も、自動車も馬車も、何もかもが俺たちには初めて見るものだった。俺たちは怖々と、小走りをしておじさんとおばさんの後ろに続いた。はぐれたら大変なことになると思ったから」


 ペネロペがお茶を口にした。俺も喉の渇きを覚え、カップになみなみと注がれていたお茶を一口で飲み干した。


「……やがて居住区中心部にある、レンガ造りの巨大な建物に俺たちは辿り着いた。門の両脇には黒い制服を着て銃を肩から提げた兵士が立っていて、俺たち一行を見ているのか見ていないのか、じっとそこに立っていた。兵士っていうのはこういうものかと、なんだか感心したような記憶があるな……」


 しばらく言葉が途切れた。俺はこの期に及んで、あの後に起こったことについて言うべきかどうか迷っていた。


 ペネロペは、なおも俺を見ている。その目の輝きに助けられて、俺は言葉を紡いだ。


「建物の中に入り、どこかの一室に入ってから、おじさんとおばさんはこれまで一度もなかったことに、俺たち一人一人に大きくて上等なハチミツ飴をくれた。貴族の子どもが食べるような、天然ものの、とても高いやつだ」


 一呼吸、間をあけて躊躇いを飲み込み、俺は言った。


「そして、俺たちがそれをはしゃぎながら舐めている間に、忽然と、何の前触れもなく、室内から消えてしまった」


 ペネロペが叫ぶように言った。


「消えた?」

「そう。二人は消えてしまった。二人がいないことに気付いた俺たちは、最初呆然としたが、すぐに泣き叫び始めた。俺も泣きたいのを懸命に堪えながら他の子どもたちを宥めていた。やがて扉が静かに開くと、一人の大きな体格をした中年の女性が部屋へ入ってきたんだ。怖そうな女性は俺たちを眺めてから言った。『ふむ、六人。六人確かにいるわね。さあさあ、子どもたち! 泣いてないで私についてらっしゃい! これから色々と検査しますからね!』 俺はおずおずと口を開いた。ぼくたちのおじさんとおばさんを知りませんか、ってね。俺の問いに対してその女性はこともなげに言った。『ああ、あなたたちのお父さんとお母さん? もう帰りましたよ。後はよろしくって。さあさあ、ついてらっしゃい』」


 視線をペネロペから逸らし、溜息を一つついて、俺は続けた。


「俺たちはまたもや泣き叫んだ。おじさんとおばさんに会いたい、ぼくたちもおうちに帰ると口々に喚きながら……だが、女性は俺たちのような子どもを扱うのに慣れているようだった。『今日からここがあなたたちの『おうち』ですよ! 住む場所はここ! ご飯を食べる場所もここ! 帰る場所もここ! さあ、これ以上泣いたらぶっ叩きますからね!』 そう言った。その後、俺たちは各種の身体検査と健康診断を受けて、無事に新しい『おうち』の一員となった。その新しい『おうち』の名前が『イタケー軍セメイオン養成所』であると知ったのは数日後だった。俺はいつの間にか軍隊に入っていたんだ」


 話し終えると、沈黙が俺とペネロペの間を満たした。外の雨だけが、俺たちの世界に音をもたらしていた。


「ウーティス」


 ペネロペの声を聞いて視線を上げると、俺はぎょっとした。彼女の目には今にもこぼれ落ちんばかりに涙が湛えられている。


「ウーティス、あなたはつまり、おじさんとおばさんに、売られたのね? セメイオンとして……」


 彼女の静かな問いかけに、俺はゆっくりと頷いた。


「おじさんとおばさんが、身寄りのない俺たちチビを集めて育てていたのは、君の言う通り、軍に俺たちを売り飛ばすためだったんだ。だが、そんなことはおじさんとおばさんに限った話ではない。第十二居住区では、人身売買はけっこうありふれたことだったんだ。男の子の孤児は軍隊に、女の子の孤児は貴族の召使に、といったように……」


 真っ赤になった目を俺に向けて、ペネロペは訊いてきた。


「あなたは、おじさんとおばさんについて、どう思っているの?」

「……特に恨みも憎しみもない」

「どうして? 私は、おじさんとおばさんが、とても酷い人だと思うけど」


 俺は首を左右に振った。ペネロペに話すまでもなく、俺は、今まで何度も、おじさんとおばさんについて考えてきた。俺たちチビに対する二人の仕打ちについて、その意味を何度も考えてきた。だから、それについては一応の結論を持っていた。


「俺が、あの冥界のような第十二居住区で生き残るためには、人身売買の商品になるしかなかったと思う。おじさんとおばさんが、俺を高値で売れる商品として見て、育てる決心をしなかったら、俺はたぶんすぐに死んでいたと思う。だから、あの二人には感謝こそすれど、恨みや憎しみを抱くことはない……それに」

「それに、どうしたの?」


 ペネロペは真っ直ぐに俺を見つめてくれている。俺にはそれが、とてもありがたく感じた。


「今となっては、あの二人は俺たちチビを愛してくれていたんじゃないかとすら思うんだ」

「どうして? 二人はあなたたちを売ったんだし、それに名前もつけてくれなかったじゃない。私がこう言うのは良くないことかもしれないけど、あなたたちは愛されていなかったんじゃないかしら……?」


 俺は首を振って否定した。


「俺は、あの二人が時折俺たちに見せた愛情のようなものをよく記憶している。おじさんはたまに子どもたち一人一人を市に連れて行って新鮮な果物を買ってくれたし、おばさんは俺たちが寝付けない時、子守歌などは決して歌わなかったけれど、俺たちが眠りに落ちるまでじっとそばにいてくれた」


 ペネロペの目から涙が一すじ、零れ落ちた。女の子が流す涙を、俺はその時初めて見た。俺はそれを、ただ美しいと感じた。


「もしかすると、あの夫婦が俺たちにあまり愛情を示さなかったのは、愛着を覚えてしまうのを避けるためだったのかもしれない。俺たちにお父さんお母さんと呼ばせなかったのもそうだし、名前をつけなかったのもそうだ。二人が俺たちに別れも告げずに消えていったのも、ただ傷つくことを怖れていただけなのかもしれない。ただ……」

「どうしたの?」


 この時俺は生まれて初めて、言い知れぬ感情の高ぶりを覚えていた。これほどまでに自分が動揺したことなど、かつて一度もなかった。


 目頭が熱くなり、喉の奥が痙攣するように震えている。俺は言葉に詰まって、ただペネロペを見ていた。


「ウーティス、言って。たぶん、その一言が、とても大事なんだと思うわ。あなたにとって大事な一言を、今、あなたは言おうとしている。頑張って」


 ごくりと、喉が鳴った。これを言えば、俺の中で何かが決壊するかもしれない。だが、もうそれを抑え込むことはできそうになかった。


 俺は、震える声で彼女に言った。


「俺は……納得はしていたが、寂しかった。おじさんとおばさんのことを、父と母だと思っていた。父と母が俺たちを売ると言うなら、それはたぶんそのまま受け入れられたと思う。でも、二人は俺たちの前から、何も言わずに姿を消してしまった。二人は別れの言葉すら言わなかったし、俺たちも二人にさようならと言うことができなかった。俺はその時なぜか、自分が悪い子だから何も言われることなく捨てられたんだと思った……」


 涙は出なかった。それは、訓練と規律によって抑制されていた。しかし、俺の声はなおも震えていた。


「ただ一言、別れる時に二人から声をかけてもらいたかった……俺たちを愛していた、と……」

「ウーティス……」


 ペネロペは席を立って、俯く俺の隣にやって来た。彼女は俺の手を取って、しばらくそのままにしていた。彼女の手は温かくて、俺はそれに優しさと思いやりを感じ取った。


 ややあって、ペネロペが口を開いた。慈愛に満ちた声だった。


「ウーティス。話してくれてありがとう。あなたは今まで、ずっと傷ついたままで、寂しい思いを抱えたまま生きてきたのね」


 俺は、弱々しく笑みを浮かべた。


「弱い人間だと、失望しただろう。兵隊人形と誇ってはいても、実はこんなにも弱いと……」

「そんなことはないわ。それどころか、もっとあなたのことが好きになった」


 好き、という言葉を聞いて、俺は目を見開いた。そんな俺に、ペネロペは涙で蒼い目を濡らしつつも、真剣なまなざしを送ってくる。


「ウーティス。あなたは強い人だわ。とても美しい、輝く霊魂を持つ強い人。あなたは恨みや憎しみを超越していて、頭が良くて、自分の過去を理性的に眺めることができる。でも、それがあなたの感情を強く押さえつけていた。そうしなければ、あなたは壊れてしまっていたかもしれない。でももう、我慢することはないのよ」


 言葉を区切って、彼女は決心したように言った。


「私、これからもあなたと話がしたい。あなたの過去と、あなたの感情を知ったから、これからはあなたと一緒に現在を過ごして、あなたと一緒の未来を想い描いていきたいの」


 ペネロペは、俺の顔に自分の顔を近づけた。鼻と鼻が触れ合いそうなほどに近い。


「あなたは過去を語ることで、より一層人間に近づいたわ。それは、辛い過去をあえて語ることで、傷ついてしまった霊魂を浄化したから。あなたはもう単なる人形じゃない。人形かもしれないけど、魂を持った人形よ。だから、元の魂を持った人間に戻れる日も近いと思う」


 そして彼女は、耳元にささやくように言った。


「だから、その時が来るまで、一緒にいさせて。私、人間に戻ったあなたを、見てみたいから」


 俺は頷くしかなかった。気恥ずかしさ以上に、俺の心の中は、何か晴れやかなもので満たされていた。ペネロペにならば、もっとありのままの自分を見せることができると思った。


 その日から、俺は少し変わった。それがなんであるかをはっきりと言語化できるわけではなかったが、日常のあらゆることが、何かしらの新鮮味をもって感じられた。


 上官はそんな俺を見て、苦い顔をしていた。


「困るんだよなぁ、勝手に作り変えられちゃ……人形に愛とか善の感情を持たせないというのも俺たちの慈悲だってことを、ええとこのお嬢様は分かっちゃいない。『私は自分の人形に情念という力を与えませんでした、なぜなら私は善き神だからです』と、どっかの作家も言っていたじゃないか……」


 俺は、自分が集団の中で浮いた存在になっているのを感じていた。孤立していたわけではないが、なんとなく、もう元のように仲間たちと過ごすことはできなかった。軍隊を成り立たせている規律、組織文化、憎しみの感情……それらすべてが、俺にとっては至極つまらないもののように思えた。


 それはたぶん、俺が、兵隊人形から人間へと戻ったからだろう。


 それで良かった。俺にはペネロペがいたからだ。俺を人間へと戻してくれたペネロペ。彼女さえいれば、俺はきっと生きていくことができる……



☆☆☆


 

 それから一年後、俺はまたペネロペと会うことができた。


 彼女は背が高くなり、胸も膨らんで、顔立ちもより大人っぽくなっていた。それでも、口調はまったく変わっていなかったし、占い好きなのも変わっていなかった。ただ一つ、理由は分からないが、彼女は常に胸をそっと手で抑えるようになっていた。


 亜麻色の髪をかきあげてから、昨日別れた人にでも言うように、彼女は俺に口を開いた。


「さあウーティス、行きましょう。でも、その前に銀貨を投げて……ウーティス、このヘキサグラムから何が読み取れる?」

「……分からないな。そこまで詳しく教えてもらっていないから」

「あのね、占いで重要なのは知識ではなくて、結果を解釈しようと努力する真摯な態度なのよ。分からないからと言って判断を放棄しちゃダメ。ちなみにこのヘキサグラムを解釈すると、私たちは遊園地に行くのが一番良いらしいわ」


 俺はそれに反対しなかった。幸い遊園地はすぐ近くにあった。俺とペネロペが初めて出会った思い出の場所。


 俺は、彼女の一つ一つの振舞いを見るたびに胸の高鳴りを覚えた。明らかに恋をしていたのだが、むごいことに当時の俺は恋という言葉を知らなかった。


 俺たちは遊具では遊ばず、もっぱらベンチに座って占いばかりをしていた。なぜかペネロペはあまり歩きたがらなかった。それでも俺たちはとても満たされていた。俺は彼女の占いを見るのが好きだったし、彼女も俺に占いを披露したがっているようだった。


 いくつかどうということもないことを占った後、俺は何とはなしに言った。


「ペネロペ、今度は俺の将来を占ってくれないか」


 彼女は少しばかり難しい顔をした。


「あのね、今までも手紙で教えたでしょう? 占いというのは『将来』という漠然としたものを判断することはできないのよ。もっと具体的なことにしないと……」


 そう言いつつ、彼女は銀貨を投げてくれた。


「……ふーん。結果によると、ウーティスは将来『ペネロペ』と呼んだ人と重大な関係になるらしいわ」


 俺は顔が一気に赤らむのを感じた。目の前のペネロペと俺が、重大な関係に?


「それはつまり、俺と君が、どういうことになる?」


 そう問いかける俺にペネロペが見せた表情を、俺は今でも忘れることができない。彼女はいつものように微笑んでいたが、しかし妖精のような儚さをも纏っていた。


「……さあね。とにかく、あなたは今後、ペネロペとあなたが呼ぶ人に会ったら、とても大切にしてあげないとダメよ。そしたら、あなたにきっと幸せが訪れるわ」


 そして、俺に聞こえるか聞こえないかの小声で言葉を付け足した。


「……羨ましいわ、ペネロペが……」


 俺は、彼女が示した謎を理解できなかった。


 ペネロペとは、疑いようもなく今俺の目の前にいるこの女の子のことを指すのではないのか? それなのに、どうして彼女は占いの結果を見て喜ばず、そのペネロペを彼女自身ではなく別人であるかのように言うのだろう?


 釈然としないままに俺は残りの時間を過ごした。一方でペネロペは先ほどのことをもう忘れてしまったのか、打って変わって明るくなって、遊具で遊ぶことをせがんだ。


「次は、あれ、あれに乗りましょうよ! 回転木馬! 私は馬にまたがった高貴なお姫様で、あなたは私を追いかける異国の王子様!……」

「思い切って乗ってみたけど、やっぱりローラーコースターって、怖い乗り物なのね。えっ? ΝΣの方がもっと怖いの? へぇ、揺れが激しいのね。私には乗れそうにないわ……」

「射的ゲーム、やっぱりウーティスは上手ね……ねえ、撃ち方を教えてくれない? 私もせめて一発は当ててみたいわ……」


 楽しい時間は飛び去るように過ぎて、また、別れの時が来た。名残惜しさを忘れるように交わした会話、キスの味の話。彼女がくれた額への贈り物。どうしても解けない謎。


 家路に就いても、とりとめのない会話が続いた。


「ところで、あなたの額にキスをしてくれた女の人について、もっと教えてくれない?」

「さっき言ったことの他には、なにもないな。たぶん、ただの通りすがりだったんだと思う。長い金髪の、とにかく綺麗な人だったよ」

「ふーん、綺麗な人ねぇ……私よりも綺麗だった?」

「……思い出は、思い出だ。目の前にいる君の方が、ずっと綺麗だと思うよ」

「……バカ」


 しばらく、会話が途切れた。家まであと少しというところで、彼女はそっと俺に寄り添って、ささやくように言った。


「ウーティス、幸せになってね。あなたは輝く霊魂を持った人間なんだから、たくさん苦しんで、それ以上にたくさん幸せになってね。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、それを全部忘れちゃうくらい、たくさん幸せになってね……」

「ペネロペ……」


 俺はそこで「俺は君と一緒に幸せになりたい」と言うべきだった。だが、俺は何も言えなかった。夕暮れ空の下、俺は彼女を家まで送り届け、そして兵営へ帰った。


 彼女の謎が分かったのは一年後になってから、俺が中間練習機課程を修了し、ミュケーナイ艦隊の一隻であるタンタロスへ移って実用機課程に入ろうとするその直前だった。


 その朝、俺の元へ一通の手紙が届けられた。俺に手紙を送ってくるのはペネロペ以外あり得ない。


 手紙はなぜかずっしりと重かった。ここ最近彼女からの手紙は絶えていたから、俺は高揚した気分で封を開けた。


 そして、俺の心は一気に凍り付いた。


「……ウーティス殿。一週間前に私の娘であるペネロペイアがこの世を去ったことを報告します。娘は盛大な葬儀の後、娘の母も眠っている広大な海洋へと旅立ちました。私は深い悲しみに暮れております。娘は十三歳の時に心臓に重大な疾患があることが判明し、以来治療に努めて参りました。あまり外に出ることのできない娘にとって、ウーティス殿からのお手紙はなによりの励みとなっておりました。毎日飽きることなく占いをし、あなたといつ会えるのかを知ろうとしておりました。あなたと遊園地で遊んだ時のことを私に話す時、娘はいつも寂しそうに、しかしそれ以上に喜びに満ちた顔をしておりました。どうかウーティス殿、戦地にあっても娘のことをお忘れなきよう……それが私の望みです。       イタケー最高評議会議長 イカリオス」


 手紙の他に、銀貨が六枚入っていた。表に女神の顔、裏に帆船が刻印されている。ペネロペが使っていたものだった。


 俺の全身は凍り付いたように動かなくなった。呼吸が停止し、心臓が拍動を止めたのではないかと思われた。


 何秒、何分が経ったのだろうか。次第に、手紙を持つ手が震え、喉が異音を立て始めた。


 それでも、なぜか、涙は出なかった。一滴たりとも、涙が俺の目を潤すことはなかった。どうして泣くことができないのか、俺は苦しんだ。


 そして、結局自分には泣くことができないのだろうと理解して、ただ一言「すまない」と呟いた。


 俺がタンタロスへ移乗したのはその翌日だった。俺は癒しがたい空虚感を強いて忘れ去るために、無心になって訓練に打ち込んだ。


 そう、俺は決意したのだった。俺は人形になろう、と。ペネロペは俺を人形から人間へと戻そうとしてくれた。俺も、自分は人間に戻ることができたと思っていた。だが、それは間違いだったようだ。


 愛する人が死んでしまったのに、俺は泣くことができない。それは、俺が人間ではないことをこの上もなく証明している。


 どうせ泣くこともできない自分だ。もう誰にも恋をすることもない、情けをかけることもない、完全無欠な兵隊人形に戻ってしまおう。それが一番自分にふさわしい。


 心を棺桶とし、その中にあらゆる人間的な感情を押し込めて、ペネロペという名で鍵をかけてしまおうと、俺は誓った。


 ペネロペの占いはことごとくが的中したが、あの占いだけは当たるまい。今後俺が他の女性をペネロペと呼ぶことは、きっとないだろう。


 十六歳の時、俺はイタケー軍の最精鋭であるΝΣ戦隊に配属された。大陸侵攻軍の一員としてトロイア共和国の大地を踏んだのは、その後間もなくのことだった……



☆☆☆



 突然、スキュラとイプシロンの声が乱入してきた。


「まーだ起きませんわ、この人間は。こうなればもう、ショック療法といきましょう。イーちゃん、ちょっとだけ手を貸して……そうそう、両足を持ってちょうだいな」

「お姉様、何をなさるのですか?」

「いち、にの、さんでこの人間を上に投げるのよ。落下の衝撃で目を覚まさせるの。分かった? はい、いち、にの、さん……って、なんで足を放さないのイーちゃん!?」


 俺はまた頭から墜落した。そして、遂にその衝撃がきっかけとなって、意識が現世への帰還を果たした。


「大丈夫ですか、ウーティス様?」


 目を開けると、そこにはイプシロンがいた。彼女はバスローブ一枚だった。天上世界の宝石のように澄んだ真紅の瞳で、まっすぐに俺を見つめている。


 イプシロンの瞳の色は、ペネロペとは正反対だ。だが、やはり、イプシロンはペネロペとどこか似ている。ぼんやりと、俺はそう思った。

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