第二章 イプシロンとスキュラ
古今「疲れを知らぬ戦士」と称される者は数多くいるが、しかし「眠りを知らぬ戦士」と呼ばれる者はいない。
当然だ。戦士といえども人間であり、そして人間は眠らなければ生きていくことができない。
目覚めた後になお地獄の底にいることに気付き、絶望することになろうとも、砂糖のように甘い眠りに身を浸さずにはいられないのが人間というものだろう。
だが、俺はエウタナシア作戦開始以来、まったく眠っていなかった。
昼は仲間と共に各所の陣地へと救援に駆けずり回り、夜は補給と整備に追われていた。夜明けまであと二時間という頃になってやっと寝床に横になるのだが、それを見計らったように敵機が飛来する。俺は退避壕へ走らざるを得なかった。
森の中で謎の敵ΝΣに打ち負かされた時、あるいは俺はこう思ったかもしれない。
「これでようやく眠ることができる」
殺されても、八つ裂きにされても、死体を回収されて死霊兵にされても良い、今はただ眠らせてくれ。記憶はないが、そういうことを思ったとしてもおかしくはない。それほどまでに俺は疲労しきっていた。
そして、俺がようやく得ることができた睡眠は、なんとも変わったものだった。
あの時の俺の眠りは、確実に死の一歩手前の眠りだった。何しろ、俺は過労・負傷・高熱という三重苦に責め苛まれて瀕死の状態だったのだから。
深く静かに眠り続けながらも完全に外界と切り離されることがなかったのは、俺の肉体が迫りくる死の気配を濃厚に感じて、感覚器官を鋭敏にしたからかもしれない。
眠りの中で、最初に俺が感じたのは、ちくちくとしたこそばゆさだった。
何か冷たい鋭利なものが俺の全身を探り、時には撫で、時には抉っている。痛くはないが、たまらなくくすぐったい。やめてくれと言おうとしたが、声は全く出ない。
次に音が訪れた。カチャカチャという金属製品が擦れて立てる音。それから声。若い女たちの美しい声。
「……これでだいたい破片は摘出したわね。まったく、医療の専門家でもないのにこんなことをすることになるなんて。いったいどこまで手間をかけさせるのかしら」
艶めかしく、かつどこか知性を感じさせる声が溜息を交えつつ言うと、それに応じるように聞こえてきたのは、幼い印象の、陽気な甲高い声だった。
「わたくしもくたびれましたわ。ああ、何か甘いものが食べたいですわ。もしくは血の滴るような美味しいお肉でも……」
「何を言っているのよ。あなたは隣で見ていただけでしょう。キャーキャー騒ぐものだからうるさいったらなかったわ。少しは妹を見習ったらどうなの」
「あらお母様。だってこいつの血の臭いはわたくしの鼻には強烈過ぎたのですもの。精神的に疲弊して当然ですわ。それにイーちゃんほどじゃないけど、わたくしだってお手伝いをしましたわ。ハンカチで汗をぬぐったり……」
「肉体的な処置は終了。定着度は五十五パーセント。まさに五分五分といったところね。まあ、たぶん死ぬことはないと思うけど、容体が急変することがあるかもしれない。目を離しちゃダメよ。せっかくアイネイアス将軍を言いくるめて手に入れた大事な『人形』なのだからね。私は一休みしたらちょっと首都へ行ってくるわ。状況に変化があるかもしれないし」
「分かりましたわ。イーちゃんと二人で、付きっ切りで看護をいたしますわ。ね? イーちゃん……」
「私が帰ってくるまで死なせちゃダメよ。帰ってきたら早速実験をするから。それから、もし何かあったら守りに徹して……」
かまびすしい会話だったが、それはなんとも耳に心地良かった。もうちょっとお喋りを続けてくれと思ったが、やはり俺は何も言うことができない。それどころか、口に粘土か何かをねじ込まれているような、そんな不快感があった。
外界へと浮上しかけていた俺の精神は、またもや闇の奥へと潜行していった。
闇の中には色とりどりのイメージが浮遊している。
狭い家の中、タバコをふかしているおじさん、その隣で豆をむいているおばさん、泣いている子ども。子どもの顔が突然ぶれて別人の顔になる。「グズグズするな、走れ! ケツを蹴り上げるぞ!」 ああ、これは教官だ。それに居並ぶ顔、顔、顔……俺の班の連中だ。たくさんの顔は歩調を合わせて走っていく。俺も行かなければ。上へ、上へ……
深海のクジラが海面へ急浮上するように、俺の意識はまたもや外界へと接近した。今度は、全身を何か心地良くて柔らかいもので拭われている感触がする。
同時に、若い女たちの声が聞こえてくる。
「……手術から一週間。まだこのお人形さんは眠り続けるつもりなのかしら。わたくしいい加減飽きて参りましたわ。イーちゃん、ちょっとお外に遊びにいかない?」
聞き覚えのある甲高い幼い声に続いて聞こえたのは、清冽な湧水のような透明感のある、奇妙なまでに俺の耳によく馴染む声だった。
「お姉様、お母様は『目を離してはいけない』とおっしゃいました」
もっとこの心地よい声を聞きたい、聞かせてくれ。その思いを妨げるように、幼い声がすぐ続く。
「真面目ねぇ、イーちゃんは。お姉ちゃんはもう看護婦さんごっこはやめにしたいです。お外でシカとかウサギを追い回したいです。もしくはお人形遊びがしたいです」
「それなら、お姉様だけでも遊びにいってください」
「もう、本当にイーちゃんはその人間が気に入っているのねぇ。イーちゃんが何かにそこまで興味を持つなんて初めてじゃないかしら。ああ、お姉ちゃんは嬉しいです……」
そこでまた俺の意識は暗転した。
ゴーッという、突風の吹くような音がする。これは聞いたことがある。そうだ、遊園地のローラーコースターの音だ。木製の線路をガタゴトと走るあの遊具。
そういえば、俺の隣には誰かがいなかったか? 横を見ると、そこには一人の少女がいた。亜麻色の髪、蒼い瞳。じっと俺を見ている。彼女がそっと口を開く。
「ウーティス、あなたは幸せになれた?」
ごめん、俺は幸せになれなかった。俺は最後まで人形のままだった。人形のまま戦って、たくさん人を殺して、そして負けた。幸せになれなかった。負けて、殺されてしまった。人間になれなかった……
☆☆☆
「ああっ!」
叫ぶのと同時に、俺は現世への帰還を果たした。
ベッドに寝ていた俺は雷に撃たれたように全身を痙攣させ、そして上半身を起こした。服は上下とも脱がされ、全身に包帯が巻かれている。辛うじて下半身だけは下着によって守られていた。
俺はあたりを見回した。広い清潔な部屋だ。窓からはきらきらと夕陽が差し込んでいる。
かすかに、聞き覚えのある声がした。
「あっ……」
見ると、そこには女の子がいた。
女の子は籐椅子に座り、大きな機織り機に向かっていた。無表情のまま、しかしうっすらと好奇心を滲ませて、じっと俺に視線を送ってくる。
それはまるで芸術だった。
夕陽を浴びて黄金の光彩を纏う女の子の美しさはあまりにも幻想的で、むしろ一種の儚さすら感じられた。
長い髪は処女雪のようなプラチナブロンドだった。大小さまざまな宝石があしらわれた金のティアラを被っていて、怜悧な光を放つ瞳はルビーのように純粋で透き通った真紅。すっと通った鼻筋に艶やかなピンクの唇、白磁のような肌。
冷たさを覚えるほどの、完璧なまでの造形美を有する顔貌だった。
長い間戦塵に塗れてきた俺にとって、彼女は一つの衝撃だった。それは俺の精神を打ちのめし、あらゆる思考力を奪うほどに強大だった。
しかしそれ以上に、俺は彼女に言葉に言い表せない何らかの既視感を覚えていた。
呆然と見つめ続ける俺に、薄紅色のドレスを身に纏った彼女はふんわりと椅子から立ち上がり、ベッドの傍へ音もたてず近寄った。
そして、大理石のように滑らかでひんやりとした手で俺の手を取ると、そっと優しく握った。
俺と彼女は何も話さない。ただ沈黙がその場を支配している。
俺たちは互いに互いの目を覗き合っていた。真紅の瞳は魔力を持っているのか、独特な輝きをしている。
ややあって、俺は先ほど感じた既視感の正体が分かったような気がした。
この目は、この輝きは……いや、そんなはずはない。あの子の目は夏空のような蒼色だった。この子の目とはまるで違う。しかし……
俺の口は自然と動いていた。
「ペネロペ……? 君は、ペネロペなのか?」
それを聞いた途端、彼女の表情に微かな動揺が走った。握られている手にぎゅっと力が込められるのを感じた。
その次の瞬間、彼女の紅い目に大粒の透明な涙が浮かんだ。
まさか泣かれるとは思わなかった。「決して女の子を泣かしてはならない」と昔教育された俺は少なからず狼狽した。
しかし、俯いて静かに涙を流す彼女をどうやって宥めたら良いのか分からず、俺は黙って手を握り続けるしかなかった。
その時、部屋の扉が開き、幼いながらも陽気な女性の声が響いた。
「緊急事態、緊急事態! イーちゃんの清らかな涙の香りを感知! イーちゃんどうしたの、まさかイーちゃんが泣くなんて! もしかして機織り機に指を挟んだとか……ってなにやってやがりますか、お前はーっ!!」
騒々しく入ってきたその人物は俺の左側頭部へ向かって何やら固いものを投げつけた。
それはラチェットレンチだった。決して人に投げるものではないものの直撃を受けて、俺はまたもや意識を失った。
どのくらい経ったのかは分からないが、目が覚めるとそこは変わらずベッドの上だった。俺を覗き込む二つの人影があった。
「あ……」
「目を覚ましやがったか、この人間が」
白銀の髪と紅い目の彼女の隣に、もう一人が立っていた。
その少女は一段と背が低く、濃緑色の作業つなぎを着ていた。短い青い髪の下で輝く緑色の目は、俺をキッと睨んでいる。
しかしそれよりも俺の注意を惹いたのは、彼女の頭部だった。
そこには一対の犬の耳が生えていた。それも子犬のような可愛らしいものではなく、黒く高々と聳える、獰猛な軍用犬が持つ耳のようだった。
ピコピコとあっちに向いたりこっちに向いたりする耳を見ていると、少女が腰に手をやり、可愛らしい顔に青筋を立てて怒鳴った。
「コラ! 何をじろじろと見てやがるのでございますか、このスケベ! 見世物じゃないですわ!」
幼い見た目に違わない舌っ足らずな声で発せられる言葉は凄まじい気迫を伴っていたが、兵士である俺にとっては特に大したものでもない。
俺は平然として、犬耳の少女へ向かって視線を返した。少女も俺を睨み返す。その間も彼女の耳はせわしなく動き続けている。
無言で睨み合う俺たち二人を取りなしたのは、銀髪の少女だった。
「お姉様、あまり怒らないで」
お姉様と呼ばれた少女は気を取り直したようだった。彼女はふんと鼻を鳴らすと、腕をどっかりと組んで俺に口を開いた。
「まあいいですわ。アカイアの低俗な海の民ならば、わたくしの非常に愛らしい耳に興味を持って当然でしょうしね。ところであなた、名前はなんと言いますの?」
俺は少女の言葉に対して冷静に反問した。
「ここはどこだ? 君たちはいったい何者だ?」
ここがもし捕虜収容所ならば、この少女たちは敵軍の人間で、俺を尋問していることになる。だから迂闊な返答はできない。
そんな俺に少女は目を怒らせて再度怒鳴った。腰のレンチを抜いて俺に振り上げる。
「訊いているのはこちらでございますわ、このバカ、アホ!」
「お姉様」
またもや静かに宥められて、彼女はレンチを下ろした。
「……ごほん、失礼、あまりに無礼な態度に思わず取り乱しましたわ。品位に欠ける人間に対して品位に欠ける態度を取るのは霊魂の健やかさにとって良くありませんものね。良いでしょう。まずわたくしたちから名乗ってさしあげます。わたくしはスキュラ。それで、この子はわたくしの大切な妹の、イプシロンのイーちゃん」
スキュラと名乗った少女は傲然と胸を張っていたが、イーちゃんと紹介された少女は俺に向かって頭を下げた。
「私はΕ-2号。イプシロンです」
その名前を聞いた時、俺は心臓の鼓動が早まるのを感じた。
記号で構成された名前。まるで俺とそっくりだ。
驚きの念と共にイプシロンへ目をやると、彼女は居心地が悪そうにスキュラの後ろへ少しだけ隠れた。
「コラ! なんでそんな怖い目でイーちゃんを睨むのですか! 怖がってるでしょうが!」
「すまない」
俺が謝ると、イプシロンはそっとスキュラの後ろから出てきた。俺の様子を窺っている。
相手が名乗ってくれた以上、今度こそ俺もそうしないわけにはいかない。
しかし、相手の素性がまだよく分からないのに、セメイオンとしての正式な名前、O-38号を口に出すのは憚られた。
そこで俺は、俺にとって思い出深い、ある一つの名前を言うことにした。
「俺は……ウーティス。ウーティスという」
俺の言葉に、スキュラは首を傾げた。犬耳もそれに合わせてピコピコと動いている。
「『誰でもない(ウーティス)』? 変な名前ね。子どもに『誰でもない』なんて意味の名前を付けるなんて、海の民のネーミングセンスは理解不能ですわ……」
しばらく考えるようだったが、やがてスキュラは口を開いた。
「まあいいわ。ウーティスとかいう人間、どうやらあなたから発せられる匂いから察するに、ここが捕虜収容所なのではないかと怖れ疑っているようですわね」
そう言いつつスキュラは薄く笑っている。俺はそれを黙って聞いていた。
「残念! それはハズレですわ。ここは、この大陸世界に並ぶ者なき天才科学者、魔女キルケ様のお屋敷なのですから! どう? 驚いたかしら? 自分が捕虜収容所なんかよりももっと恐ろしい場所にいることに!」
薄い胸を殊更強調するようにぐんと張って、こちらが質問をしてもいないのにスキュラは勝手に話し始めた。
「このお屋敷はスカマンドロス川北方五百スタディオン、アプロス山脈のふもとに建っております。おっと、お屋敷といってもただのお屋敷ではございません。規模としては要塞とでも言うべきものですわ。あなたは森での戦闘で人事不省となっているところを、魔女キルケ様とわたくしたちによって回収されましたの」
スキュラは両耳をぴくぴくと動かしつつ、話し続けた。
「あなたは一週間近く惰眠を貪り続けておられました。その間の看護は、イーちゃんがしてくれましたわ。トロイア共和国の医療と魔法技術に感謝なさることです。海の民の原始的な医療では、あなたはとっくに死んでいたでしょう。それをわたくしたちは、あなたの傷を完全に癒し、失った血液を補って、さらには病気まで治してさしあげました。今は体力が失われているだけで、食事をとってよく眠れば元通りになるはずですわ……」
誇らしげにそう言うスキュラに俺は注意を向けず、その代わりイプシロンばかり見ていた。
彼女はもうスキュラの影に隠れてはいなかった。相変わらずの無表情だったが、その不思議な輝きを放つ真紅の目で俺をじっと見つめている。
俺も彼女を見ていた。
どうしてこれほどまでに俺はこの銀髪の少女に惹かれるのだろう。まるで、俺の中の霊魂が求めて止まないように。
気付いた時には、俺は感謝の言葉を口にしていた。
「ありがとう、イプシロン」
イプシロンはこくりと頷いた。そんな俺たちを見てスキュラが幼気な声を張り上げた。
「話はまだ終わっていないのでございますわ! 良いですこと? ここはいわゆる捕虜収容所ではありませんが、あなたはまごうことなき捕虜なのでございます。そして、トロイア共和国と海の民の間では捕虜の取り扱いについて協定を結んでおりません。つまり、あなたを煮ようが焼こうが生体解剖をしようが、わたくしたちには一向に問題がないということなのでございますわ!」
スキュラは俺に人差し指を突きつけながら一気にまくし立てた。
薄々予感はしていたことだが、捕虜という言葉を改めて聞かされて俺の精神は動揺した。
そんな俺を見て、スキュラは一旦言葉を切ってふふんと鼻を鳴らした。そして、腰のレンチを再度手に取ると、それをピタピタと俺の頬に叩くように当てた。
「今はお母様が首都へ用事で出かけておられますが、あと数日もすればお帰りになるでしょう。お母様はあなたのことを『素晴らしい実験材料』と褒めておりましたわ。つまり、あなたはお母様がお帰りになり次第、トロイア共和国の学問と科学水準向上のための生贄になるということですわ! おっほっほっほ! どうですの? ねえ、どうですの?」
「お姉様、お姉様」
スキュラはレンチでピタピタするのをやめない。そんな彼女をイプシロンが後ろから服の裾を遠慮がちに引いて宥めている。
だんだん興奮してきたのか、彼女は声量を上げてさらに言った。
「おっと、わたくしたち二人を制圧して逃げ出そうなどとは、お考えになってはなりませんわ! こう見えてわたくしはとても強いですし、イーちゃんはもっともっと強いのですから。体力の落ちているあなたごとき敵ではありませんわ!」
俺は表情にこそ出さなかったが、内心恐れの感情を抱いていた。
部隊にいた頃、もし捕虜になったらどうなるかということについて幾度か話題に上がった。トロイア共和国軍の捕虜の扱い方は苛烈そのもので、生きたまま生皮を剥いだり、キマイラや巨人のエサにしたり、人体実験の材料にしたりするらしい。
俺はスキュラの言葉を聞いて、その噂が本当だったことを知った。このままでは遅かれ早かれ俺の命運は尽きて、アカイアの誰にも知られることなく敵地で魔女の実験材料として死ぬことになる。
もう少しで「今すぐ殺せ」という言葉が口から出かかった。しかし俺はそれをすんでのところで飲み込んだ。
その時、俺が思い出していたのは、小隊長の最期の言葉だった。
「できればで良いんだが、俺たちの最期をみんなに伝えてくれないか。せっかく頑張ったのに誰にもそれを知ってもらえないんじゃ悔しいからな……」
そうだ、俺は死ぬわけにはいかない。何としてでも目の前のスキュラとイプシロンの少女二人を出し抜いて、魔女が帰ってくる前にここを脱出しなければならない……
考えに耽る俺には、二人の少女がなにやら話をしているのに気付かなかった。
「お姉様、お母様は生贄などとは……」
「シーッ! イーちゃんはちょっと黙ってて! この人間はちょっと生意気だから、こうやって最初に脅しておくのがちょうど良いのですわ……」
考えを巡らせつつも俺は、自分が正真正銘のセメイオンであることを感じていた。軍からゴミのように見捨てられたのに、俺は軍へ帰属意識を持ち続け、捕虜になったことを恥じているのだから。
スキュラがまたもや俺の頬をレンチで軽く叩いた。
「まあ、でも、お母様がご帰還になるまではわたくしたちが『たっぷりと』お世話をしてさしあげますわ。魔女は丸々と肥った人間を好むものでございますからね……」
俺にそう言ってニヤリと笑いかけてから、彼女は壁にかかっている時計に目をやった。
「さて、今日はもう遅いから休むことにしましょう。イーちゃん、わたくしはもう少し人形遊びをしてきますわ。イーちゃんは早く寝るのよ。じゃあ、おやすみ」
言うなりスキュラは慌ただしく部屋を出て行った。
そんな彼女を、俺はまったく図りかねていた。姉だと言っているが、落ち着いた雰囲気を醸し出しているイプシロンとは大違いだった。服装にしても、体格と年齢にしても、口調にしても、立ち居振る舞いにしても、スキュラはすべてが、まるで別々の要素を無理やり合成したかのように、ちぐはぐだった。
部屋には俺とイプシロンの二人が残された。
イプシロンはしばらく俺をじっと見ると、やがて軽く頷いて、指を軽く鳴らした。すると、途端に部屋の灯りが落ちた。
俺は、これもトロイア共和国の魔法技術の産物かと内心で感嘆したが、次のイプシロンの行動でそれは無造作に打ち消された。
イプシロンは薄いドレスをするりと脱いで、下着姿になった。いつの間にか窓から差し込んできていた月の光に、彼女の真っ白な肌が照らされている。
服の上からでは分からなかったが、イプシロンはとても良いスタイルをしていた。
一流の彫刻家でも、これほどまでに完全なプロポーションの肢体を表現することはできまい。
とても大きな、しかも形の良い胸に、優美なほっそりとした腰、すらりとした美しく長い脚。
驚いて固まっている俺をよそに、彼女はさらに俺のベッドへと歩んできて、そして俺の隣で横になった。ぎしっとベッドが軋む音が嫌に耳についた。
俺は奇妙に上ずった声を上げた。
「ど、どうして俺の隣に寝るんだ? 君のベッドはどうした?」
情けないほどに動揺している俺に対して、イプシロンはまったく表情を変えずに言った。
「お母様は『目を離してはいけない』と言いました」
彼女は俺の体にそっと手足を絡ませてきた。俺の傷に当たらないように慎重に体を動かしている。どうやら、弱っている俺の体を温めようとしているらしい。
「い、いや、目を離すとかそういう問題ではなくて……その、なんだ、女の子が男と一緒に寝るのは良くないというか……」
弱々しい言葉で抵抗を試みる俺に、彼女は涼やかな声で答えた。
「なぜ、それがいけないのですか?」
「そ、それはね、男と女が同じベッドの上でやることといったら……いや、何でもない……」
不思議そうな顔をしている彼女に対して、俺はもうそれ以上何も言えなかった。
ほどなくして、イプシロンの温もりと絹のように滑らかな肌の感触が伝わってきた。大きくて、柔らかな胸が俺の腕に当たるのも感じられた。得も言われぬ良い匂いが漂ってくる。
俺は、生まれて初めての経験に心も体もこちこちにしていたが、彼女が問いかけた言葉にやや平静さを取り戻した。
「あの、ウーティス様……なぜ、私をあのように呼んでくださったのですか?」
俺はその問いの意味をすぐに理解できなかった。天井を見つめたまま、俺は答えた。
「……あのように、とは?」
イプシロンが隣で、あたかも氷を溶かすように、ふぅと息を吐くのが分かった。
「私を、ペネロペと呼んでくださいました」
それは君の瞳の輝きが、俺の知っている人と、色は違っていてもどこか似ているように感じたから。
しかしそれをそのまま口に出すのは、なんとなく気が咎めた。
そうだ、あの名前は口にするものではなかった。俺は答えをはぐらかすことにした。
「君は、そう呼ばれてどう感じた?」
彼女が、俺の右腕に添えている手に少し力を入れたのを感じた。
「……分かりません。でも、なんだかとても温かい気持ちになりました……」
その夜はまんじりともせずに明かした。俺は、戦場とこの場所との甚だしいまでの違いを思わざるを得なかった。
叫喚と共に突撃し、血しぶきを上げて倒れていったセメイオンたち。死霊兵に殺されたΓ-43号。俺の身代わりとなった小隊長。硝煙、炎、無数の死。
一方、俺は捕虜となったが、手厚い看護を受けて、今は女の子が添い寝までしてくれている。捕虜となったからには直ちに自死を選ぶか、あるいは抵抗をすべきであると観念的には理解している。それなのに、俺はどうしてもそのような気になれない。
隣にいるこの女の子、イプシロンは敵なのか? その問いに俺は、そうだと言うことができない。
ここは静かだ。しかも、ある種のエネルギーに満ちている。
それは疑いようもなく、イプシロンから発せられていた。俺は、彼女から生命そのものを感じた。柔らかくて、温もりがある。
それは生み出す力と、愛する力の象徴だった。
そんなことを考えたからだろうか。隣で安らかな寝息を立てて眠るイプシロンに俺は、理由は分からないながらかすかな愛おしさを覚え始めていた。かつておぼろげながらに抱き、そして自覚したと同時に封印してしまったはずの、人間的な感情を。
☆☆☆
それから五日間が経過した。
俺はいよいよ「脱走」の決意を固めていた。できるかぎりのことをしてから死んでも遅くはない。そのように思ったからだ。
二人の少女の行動パターンを出来るだけ把握しようと努め、また可能な限り情報を集めて、脱走後どのようなルートを通って友軍の支配地域に到達するかについて、俺は考えを巡らせた。
しかし、それは思うようにならなかった。なぜならイプシロンがいつも俺の傍にいたからだ。おまけにスキュラは自分の言いたいことだけを言うわりに、肝心の俺が知りたい情報についてはまったく話してくれなかった。
例えば、こんな会話があった。
ある日、スキュラはいつもの作業つなぎを泥で汚した状態で部屋に入ってきた。どこか外で行動していたらしい。
「イーちゃん、イーちゃん、お外で野ウサギをゲットしてきましたわ! あとでパイにして食べましょうね! あ? 人間? 人間には臓物を食らわせてやりますわ。ウサギの臓物を!」
黙っていることもできたが、この時俺は何か言ってやりたい気持ちになった。
「ありがとう。臓物の方が肉そのものより栄養がある。回復にはもってこいだな」
スキュラは目を大きく見開くと、何かをごまかすように大きな声で言った。
「ま、まあ! 減らず口を叩きやがりますこと! そ、それに臓物の方が栄養に富むことくらいわたくしも知っておりますわ! 常識ですからね、常識! だからお前には肉の方を食らわせてやりますわ!」
「肉も低脂肪だがタンパク質に富む。ナイアシンも豊富だ。ありがとう」
「ええっ!? じゃ、じゃあ、えーっと、その、肉じゃなくて、臓物じゃなくて……皮? そう、皮をお前には……でも皮って食べられるのかしら?」
イプシロンがここで横から会話に加わった。
「お姉さま、今はウーティス様にお粥以外を食べさせてはなりません」
「え? そうなの? それなら、肉も臓物も皮もわたくしたちが食べましょうね」
「お姉さま、皮は食べられないと思います……」
またある日には、彼女は新聞を片手に入ってきて、俺に話しかけた。
「新聞によればアカイア軍首脳部はスカマンドロス川での損害を僅少と発表しておりますわ。『作戦は最低限の犠牲で成功裡に遂行された』のですって。でもトロイア共和国が数えた敵の遺棄死体は二万。いったいどっちが合っているのでしょうねぇ」
どちらも合っている、と俺は思った。わが軍の上層部にしてみれば、二万弱ものセメイオンの死で主力二十万が救われればそれは紛れもない「成功」であろう。
その二万もの死体の中には、俺の仲間たちも含まれているはずだ。そこまで考えて、思わず口から言葉が出た。
「……こうして捕虜になるくらいだったら、仲間と一緒にその二万の死体のうちの一つになれば良かったと思うよ」
「えっ……」
隣で話を聞いていたイプシロンから、声が漏れた。その目が、いかにも悲しげな輝きを帯びている。
それを目の当たりにして、俺は先ほどの言葉が失言そのものだったと気づいた。
何と釈明しようかと考え始めるのと同時に、スキュラが怒鳴った。
「コラ! 冗談でもそういうことを言うんじゃありません! イーちゃんが悲しんでいるでしょうが! わたくしを悲しませることはもちろん許されませんが、イーちゃんを悲しませるのは万死に値しますわ……」
この時ばかりは、スキュラに助けられたような気がした。
特に話すことがない日などは、スキュラは妙な要求を突き付けてきた。
「あー、なんだか退屈ですわ。ちょっと人間、歌でも歌いなさいよ。流行歌を歌え!」
「流行歌なんて知らない。たとえ知っていても、お前のためには歌わない」
俺が口ごたえをすると、スキュラはにやけた表情を浮かべた。
「でしょうね! 野蛮な海の民は軍歌しか歌えないのですから! ですからわたくしがかわりに歌ってさしあげましょう……」
意外なことに、スキュラは歌がとても上手かった。
それでも、例の魔女とやらが帰ってくればすべてが終わってしまう。手がかりが得られなくとも、逃げ出す以外に採るべき選択肢はない。
もう一つ、俺が脱走を急ぐ理由があった。それはイプシロンだった。
彼女が俺を虐待したからだとか、生命の危機を感じさせたからではない。
端的に言えば、イプシロンが優しすぎたからだ。
例えば食事の時、彼女は野菜と卵が入った麦の粥を手ずから食べさせてくれた。
「ウーティス様、お食事の時間です。お口を開けてください」
「もう自分で食べられる、そこまでしてくれなくても良い」
そう言うと、彼女はじっと俺を見つめて言った。
「いけませんか?」
その瞳には、戸惑いと悲しみの色が薄く浮かんでいた。俺はしどろもどろに答えた。
「いや、その、なんだ、いけなくはない……」
ほっとしたような雰囲気が伝わってきた。数秒後、俺の口は粥の旨味に満たされた。
夜寝る前などは、彼女は体を丁寧に拭いてくれた。彼女の指先が肌に触れるたび、俺の心臓は激しく脈打った。
「ウーティス様、寝る前にお体を拭いてさしあげます」
「じ、自分で拭けるんだが……わざわざ君にやってもらわなくても……」
「いけませんか?」
「いや、その、なんだ、いけなくはない……」
心地良くも心臓に良くないひとときが過ぎると、就寝の時間が来る。
「ウーティス様、おやすみなさい」
寝る時は、最初の夜とまったく同じく、彼女は下着姿になって俺の隣で添い寝をしてくれた。滑らかな肌の感触を覚えた俺は、ほぼ反射的に口を開いていた。
「いや、その、なんだ、いけなくはない……むしろ良い……すごく……」
「ウーティス様、何がすごく良いのですか?」
不思議そうな顔をする彼女から顔を背け、俺はごまかした。
「なんでもない! おやすみ!」
なぜ彼女がそんなことをしてくれるのか、俺には見当もつかなかった。まさか、スキュラの言うとおり「魔女は丸々と肥った人間を好む」からなのだろうか。
ある夜、隣り合って横になりながら、俺は彼女に尋ねた。
「なぜ君は、そんなにも俺に優しくしてくれるんだ」
数秒の沈黙の後、彼女は静かに答えた。
「ウーティス様は、傷ついておられますから」
ある意味、俺はイプシロンを怖れてもいた。それは、彼女の優しさと温もりが、俺という存在の在り方を破壊してしまうのではないかと思われたからだった。
俺は兵士だ。戦友愛はある。思いやりもそれなりに持っているはずだ。だが、他の兵士と同じく、俺の精神性の基調は殺伐としている。そこに愛や慈しみが入り込む余地はない。
俺は人間でありながら人間らしい心を持っていない。まるで、骨と肉と血液で作られた人形だ。そのように思い込むことで、今日まで生き抜くことができたのだと信じている。
だが、イプシロンの優しさはそんな俺の頑なな心の中に、不思議なほど着実に染み渡りつつある。そして俺は、なぜかそれを拒むことができなかった。
あるいは、俺は俺自身が思っているほどには、それほど冷酷なのではないのかもしれない。スキュラに悪口雑言を言われてもさほど怒りの念も湧かず、イプシロンに世話をされている時に捕虜としての惨めさを感じることもない。
今まで俺は、敵というものを影のようなものとして捉えていた。俺は敵と戦う時、その敵の悪意と戦い、その敵の影に向かって砲口を向けた。敵が人間であると、考えたことはなかった。イプシロンとスキュラは、理屈の上では敵そのものであるが、しかし決して影ではない。
影ではない敵を憎む術を、俺は知らなかった。
もしかすると、俺は、セメイオンとしては甘すぎるのではないだろうか。敵の正体が影であろうとなかろうと、敵であるならば戦うのがあるべきセメイオンの姿であろう。それができないのだから、俺は甘いと言われても仕方がない。そういえば、訓練生時代にもよく「お前は闘争心が薄い」と言われていた気がする……
いや、そんなことを考えてはならない。考えれば考えるほどに、俺は兵士でいられなくなる。切実にそう感じた俺は、脱走まであえてイプシロンと会話をしないことにした。
だがこれこそ滑稽な試みだった。俺が黙っていると、彼女はこう言うのだった。
「ウーティス様……ウーティス様? どうしたのですか? そうですか……今日は、話したくないお気持ちなのですね」
彼女の瞳は寂しさと悲しみの色を湛えていた。俺はそれに耐えきれず、口を開いてしまう。
「そんなことはない。君と話すのは、その……なんだ、楽しいよ、とても」
「そうですか、それは良かったです……」
そんな日々が続いた後のある日の夜、いつものように騒々しく部屋に入ってきたスキュラは、俺に向かってにやりと笑いかけ、勝ち誇ったように言った。
「喜びなさい、人間! 明日の夕方にお母様がお戻りになります。イーちゃんと一緒の極上の捕虜生活もついに死をもって終幕を迎えるわけですわ! 今夜は震えてお眠りなさい!」
俺は決心した。情報はほとんど得られなかったが、もう逃げるしかない、と。
その時、ちらっと俺の脳裏に「イプシロンに申し訳ないな」という考えがよぎった。
俺は強いてそれを打ち消して、その夜もイプシロンと共に眠りについた。彼女は相変わらず、柔らかかった。
☆☆☆
翌日の昼前、俺は音を立てずにベッドを下りた。久しぶりに立った足は力が入らず、ふらついてしまった。
イプシロンはいない。なぜか彼女は、毎日この時間帯になると二時間近く部屋から姿を消す。
今までは様子を見るためにあえて行動しなかったが、今これを利用しないわけにはいかない。不思議なことに、鍵はかかっていなかった。俺はよろめきながら部屋を出た。
廊下の照明は薄暗く、床には赤い絨毯が敷かれていた。俺はそろそろと壁に沿って歩き、角では向こう側を確認し、階段を下り、また廊下を進んだ。
部屋が二階にあることは二人の会話から推測していた。階を下りたらすぐに出口があるだろう、いやあって欲しいという俺の希望は、しかし打ち砕かれた。
この魔女の屋敷は思った以上に入り組んだ構造になっているようで、どんなに進んでもまったく出口が分からなかった。もしや、これも魔女の魔法によるものなのだろうか?
しばらく進むと、前方から何者かが歩いてくるのが見えた。俺は角に隠れて、それを密かに観察した。
「おそうじ、お・そうじ、おそ・うじ……」
何とも奇妙だった。それは小間使いが着るようなものを身に纏い、手にはほうきと雑巾を持っていて、廊下を脇目も振らず掃除している。おまけに、ブツブツと何か言葉を発していた。
俺はしばらく見続けて、そして愕然とした。
あれは、人形だ! その顔には目も鼻も口もなかった。巨大な木製の人形そのものだった。
意志を持った人形が仕事をしている。俺は改めて、この屋敷が魔女の支配する場所なのだと思い知った。
その後、何体もの人形に遭遇した。
「はこぶ、は・こぶ、はは・ここ・ぶぶ……」
「お掃除、お・そうじ、おそ・うじ……」
「せい・り・せいとん、せいと・ん、整頓……」
俺がすぐ目の前に立っても、それらは何も反応を示さなかった。それぞれが仕事に夢中なようだった。
俺は、一抱えもある包みを運んでいる一体に目をつけて、それについていくことにした。そうすることでしか、迷わずにこの屋敷を歩き回るのは無理そうだった。
人形について歩いているうちに、いつしか俺は広間に出ていた。
晩餐用と思われる大きな
包みを持った人形は広間を抜けてある部屋の前に行きつくと、両開きの扉を開けて中へ入っていった。どうやらこの部屋の中にいる人間に包みを届けるようだ。
俺はしばし思案して、そして決断した。この中にいるのがイプシロンか、それともスキュラか、あるいはまた別の者かは分からないが、力づくでもこの中にいる人間に案内させよう。死力を尽くせばなんとかなるはずだ、たぶん。
そう自分自身に言い聞かせつつ、俺は扉を開けた。
中は暗かった。そして、理由は分からないが湯気で満たされていた。壁の燭台のロウソクが仄かな光を放っているが、それも湯気に吸い込まれて、ひどくぼんやりとしか先を見通せない。直前に入ったはずの人形はいなくなっていた。
奥へと進むうちに、水滴の垂れる音が聞こえてくるようになった。どこかから、何か水の流れる音も響いてくる。そして、室温がムッと上がってきた。
この奥には何があるのだろうか? ボイラー室か、それとも魔女の実験室か?
突然視界が開けた。辺りには相変わらず湯気が漂っているが、直前よりも周りが見える。
意外なことに、そこは浴場だった。
床は磨き抜かれたタイルで、ドーム状の高い天井の中央部には小さな天窓があり、そこから午前の優しい日の光が差し込んでいる。辺りは薔薇の豊潤な香りで満たされていて、俺の粗野な嗅覚はその上品さにしばし圧倒された。
その時、ちゃぷという遠慮がちな水音がした。それと同時に、この数日間で聞き慣れた美しい声が俺の鼓膜を打った。
「ウーティス様?」
俺が目をやると、そこにはイプシロンがいた。その澄んだ真紅の瞳で、無粋も甚だしい侵入者である俺を、非難するでもなく敵視するでもなく、ただじっと見つめている。
彼女は広々とした浴槽の中で、薔薇の花々を浮かせた赤色の湯に寝そべるように浸かっていた。
俺が息を呑んでいると、彼女はざばっと音を立てて立ち上がった。
目の前に彼女の一糸まとわぬ肉体が晒されると、俺は顔が一気に赤らむのを感じた。
「ウーティス様、どうしたのですか?」
イプシロンの濡れた裸体は、白そのものだった。
湯によってやや上気した肌にはシミ一つ、アザ一つ、傷跡一つない。ほっそりとした体には豊満な胸とくびれた腰によって美しい起伏が与えられていて、完璧な均整を誇示しているようだった。
胸の二つの頂点と下腹部は、濡れてはり付いた長い銀髪でちょうど隠されていて、俺は却ってほっとしたくらいだった。
俺はただ呆然と彼女を見ていた。魂の奥底から彼女に見とれていた。
イプシロンは俺の目を見ていて、一方俺は彼女の体を見ている。それが何分続いたのだろうか、彼女は小さな可愛らしいくしゃみを一つした。
「寒い……」
彼女はまた湯の中へ戻っていった。そして、まだその場に突っ立っている俺に透き通った声で言った。
「ウーティス様も、どうぞこちらへ」
猛き心持つアカイア軍のセメイオンを、またイタケーの最精鋭を自称していても、俺に抗う術はなかった。
俺の足は勝手に動いてピタピタとタイルを踏み、そして包帯も取らず、下着も脱がず、そのまま浴槽へ入った。
温かい湯、鼻腔をくすぐる香り。まだイプシロンとは距離があった。そして俺は、それを保っていたかった。だが彼女は続けて言った。
「もっとこちらへ。もっと、私のすぐそばまで」
今度は、俺は動かなかった。これ以上は良くない。一緒に風呂に入って、しかも素肌と素肌が触れ合うまで近づいて共に湯につかるのは、明らかに良くない。
「動きたくないのですか? では、私がそちらへ参ります」
答えることも動くこともしない俺を見て、イプシロンは自分から動いた。浴槽の縁で身を小さくしている俺に向かって彼女は湯の中を歩み寄った。大きな胸が揺れるのを見て、俺は思わず目を逸らしてしまった。
彼女は俺の隣に腰を下ろした。俺たちはしばらく何も言わなかった。そのうち、俺は沈黙に耐えられなくなった。
「イプシロン、君は平気なのか?」
俺の問いに彼女は直接答えなかった。その代わり、俺にぴったりと体を寄せた。柔らかな胸が俺の体に当たり、濡れた肌が温もりを伝えてくる。
俺は目が回る一歩手前だったが、そんな俺に対して彼女は逆に問いを発した。
「ウーティス様。また私をあの名前で呼んでいただけないでしょうか」
必死になって彼女の肉体のことを考えまいとしている俺には、一瞬その問いがなんのことを指しているか分からなかった。
「……あの名前、とは?」
彼女は即座に答えた。
「あの時、私のことを、ペネロペと呼んでくださいました。また私をペネロペと呼んでいただけないでしょうか」
俺はようやく理解した。しかし、俺は首を左右に振った。
「……あれは、俺の勘違いだったんだ。気にしないで欲しい」
ペネロペとは、俺にとって重要な意味を持つ名前だ。俺の運命を暗示していると言っても良い。軽々しく口に出して良いものではなかった。
あの時、俺がイプシロンをペネロペと呼んだのは、覚醒直後にありがちな一種の錯乱によるものだったに違いない。
俺の返答に、イプシロンはやや俯いた。
「そうですか、呼んでいただけないのですか……」
その一言の他に、彼女は何も言わない。ただ、その息遣いには内面の動揺が表れているように感じられた。
もしかして、悲しんでいるのだろうか? だが俺には、彼女がなぜそこまでペネロペという名前に固執するのかが分からなかった。
その時だった。浴場の入口から、陽気な少女の声が大きく響いてきた。
「イーちゃん! お姉ちゃんと一緒にお風呂に入りましょー! いやー、今日は気分転換も兼ねて中庭でお人形遊びをしていたんだけど、熱中していたらいつの間にか油まみれになっちゃって……あっ」
「あっ」
俺の口から間の抜けた声が漏れた。そこにはスキュラがいた。いや、果たしてスキュラと言って良いのか。
彼女は服を着ていなかった。小さな体に薄い胸。それは別に良い。
問題なのは彼女の下半身だった。彼女の腰から下は巨大な魚のそれになっていて、その長さは三メートル以上あった。メタリックブルーのウロコに覆われていて、ビチビチと音を立てて尾びれを動かしている。
しかも、臍には犬の頭が六つもついており、腹びれの部分には犬の足が二十四本も生えていた。まさしく異形そのものだった。
俺は、戦場で幾度も遭遇した怪物たちを思い出していた。大きさこそ違うが、その見た目と雰囲気は数多のアカイア軍兵士を葬り去った、あの強力な敵とそっくりだった。
俺の姿を認めるや、スキュラは長く伸びた犬歯を剥き出しにして吼えた。
「ぎゃああああああっ!? こ、この人間が! よくもわたくしの真の姿を見やがりましたわね! それにイーちゃんと一緒にお風呂に入るなんて! 許しがたし! 万死に値しますわ! このド畜生が! ぶち殺してやる!」
小型装甲車くらいに大きくなり、怪物化した姿だけではなく、声もおどろおどろしいものへと変わっていく。
あまりのことに驚愕し固まっている俺に、イプシロンが言った。
「逃げてください」
彼女のたった一言が終わるのを待つまでもなく、俺は駆け出していた。
足は未だにふらつくが、もうそんなことを気にしている場合ではない。濡れた床で滑りそうになるのを何とか持ちこたえて、俺はあえて出口に陣取るスキュラにまっしぐらに突進し、その魚類の胴体のすぐ脇を掠めて走り去った。
「なっ!?」
スキュラもまさか自分に向かって走ってくるとは思わなかったらしい。俺への対応は遅れた。
しかしすぐに気を取り直すとその巨体の向きを変え、臍の六頭の犬の歯をガチガチと鳴らし、二十四本の足を動かして俺を追ってきた。
「逃がすか! ぶち殺してやる! 乙女の柔肌を見た奴は生かしておけないですわ! 殺す、即殺す! 即殺して喰ってやる! いや、踊り食いにしてやる! 頭蓋骨をぶち破って脳髄を啜ってやる!」
俺は懸命に走った。扉に体当たりをするようにして大広間に出た時、これからどこへ逃げようかと一瞬思案したが、次の瞬間背後の扉が吹き飛んだ。
「まだそこにいたか! 死ねぇい!」
振り返ると、そこにはスキュラがいた。怒りの形相も凄まじく、緑色の目を爛々と輝かせ、口からは涎を垂らしている。
突然、腰の犬の頭がぐんと伸びて、俺に噛みつこうとした。ガチッという牙の鳴る音が響く。
間一髪でそれを避けることができた俺は長いテーブルに飛び乗ると、その上を滑るようにして進んで向こう側へ下り、そして狭い廊下へと駆け込んだ。
「逃がさん!」
騒ぎが起きているにもかかわらず平然と仕事を続けている人形たちを何体も撥ね飛ばして、スキュラは俺を追いかけてきた。
黒檀のテーブルは巨体にのしかかられたことで、轟音を立てて真っ二つになる。天井のシャンデリアも尾びれの一撃を受けて落下した。
「待たんか、コラぁ! 食っちまうぞ! よく咀嚼して栄養分にしてやる!」
しかし二十四本も足があるとはいえ、どうやら巨体を高速で走らせるには充分ではないようで、俺との距離はなかなか詰まらなかった。
一方で俺も追い込まれていた。走っているうちに息が切れてきて、しかもだんだん足から力が失われていくのが感じられた。
このままではいずれ追いつかれてしまう。なんとかしなければ……しかしどうやって?
ふと廊下の先を見ると、白い光が漏れていた。外だろうか? 俺は力を振り絞って足を懸命に動かし、光の中へ飛び込んだ。
薄暗さに順応した目にその光は強烈だったが、数秒もすると状況を見てとれた。
そこは中庭だった。色とりどりの花々と、よく刈り込まれた植木の数々。柔らかい土の感触に、一面ガラス張りの天蓋から差し込む日光。
それだけならば普通の中庭だったが、俺の目はあるものに吸い寄せられた。
無数の機械部品や工具の山に囲まれて、中庭の中央に俺がよく知っているものが静かに佇んでいた。
それはΝΣだった。慣れ親しんだΝΣ124型。
機体は良く磨かれて鈍く光を反射しており、右腕には七十五ミリ主砲を持っていて、しかも操縦室のハッチが開いている。
まるで、「どうぞ乗ってください」と言わんばかりだった。
もうこれに賭けるしかない。俺は無我夢中でΝΣに飛び乗るとエンジンをスタートさせた。
幸運なことに機体背面に背負うようにして装備されているエンジンはすぐに音を立てて動き始めた。回転数が上がると今度はガチャンと音を立てて発電機が駆動する。大電流が各部モーターへ伝わり、ΝΣは息を吹き込まれたように動き始めた。
これを整備した奴は一流の腕を持っている。俺はそう思った。ΝΣは繊細な兵器なのだ。
すると、ΝΣのエンジンと発電機の騒音に負けないくらい大きな犬の吼え声が聞こえた。強化アクリル樹脂が入った
「あーっ! わたくしがせっかく整備したΝΣをこの人間、分捕りやがりましたわ! なんて厚かましい奴なんでしょう! イーちゃんに添い寝してもらうだけでなく、一緒にお風呂にも入っていたし、なによりわたくしの真の姿も見やがりましたし!」
彼女の青い髪の毛は逆立っていて、腰の六頭の犬は唸り声を上げている。怒り心頭に発しているようだ。これはやはり、ΝΣで一戦しなければならないらしい。
「捕虜としての立場を今一度教えて差し上げますわ! 下劣な海の民! いざ、死のお人形遊び開始!」
叫ぶなりスキュラは草木を圧し潰しながら一気に距離を詰めてきた。花々が散らされてぱっと花弁が舞い上がる。
俺は頭部の二梃の機関銃の安全装置を解除し、発射ボタンを押した。
だが、弾を吐き出したのは片方だけだった。
毎分八百五十発もの弾丸を発射することが可能な機関銃は、あやまたず目標に銃弾を送り込んだ。しかしスキュラの体は金属音を立ててそれを弾き返した。少女の上半身も、腰の犬も、魚の胴体も、傷一つついていない。半ば予想はしていたことだが、思わず俺は舌打ちした。
だが衝撃と痛みはあるようだった。顔をゆがめ、声を怪物的なものからいつもの調子に戻してスキュラが叫ぶ。
「いってぇでございますわ!? この人間、豆鉄砲とはいえ躊躇いなく少女に向かって機関銃をぶっ放すなんて……人間じゃねぇ!」
それでも彼女はたちまち表情を変えて、勝ち誇ったようなにやけた笑い顔を俺に向けた。
「しかし残念でしたわね。その機体に搭載されている弾薬は今お撃ちになられた機関銃の分のみ、それも二百発だけですわ。主砲の弾倉と機体弾薬庫には何も入っておりませんの。換言すれば空っぽですの。空っぽ。ご確認なさってはいかがかしら?」
それには俺も既に気付いていた。右腕の主砲はこうなってはただの鉄の塊にすぎない。だが、俺は慌てなかった。
「さあさあ、どうなさるのかしら? そのまま大人しくして操縦席から出てきたほうが身のためですわよ。そうしたら苦しまずに死なせてさしあげますわ……って、危ない!?」
絶対的優位を確信して能天気に話し続けていたスキュラに向かって、俺は主砲を投げつけた。
ΝΣの腕部の小型モーターの性能ではあまり速く投げることはできないが、それでもこの主砲には一トン近くの重量がある。当たればタダでは済まない。
「決して人に向かって投げるものではないものを投げるなんて……いったいどんな教育を受けてきたんですの!?」
スキュラはすんでのところで飛んできた主砲を避けたが、俺はその間に次の一手を打っていた。両肩部にそれぞれ三発ずつ装備された発煙弾を発射したのだ。
六発の発煙弾は弧を描くようにして彼女の目の前に飛んで行き、間を置かずに炸裂した。
「ぐわっ!? け、けむいですわ! 何も見えない……! ていうかこの臭いキツイ……! 明らかにヤバイ刺激臭がする……! ゴホッゴホッ……!」
煙に咳き込み、むせながら、スキュラは巨体をのたうち回らせた。この発煙弾には独特の強い臭気がある。俺の目論みは的中した。
俺はとどめとばかりに機体を跳躍させて煙幕の中に飛び込み、スキュラにショルダータックルを食らわせた。
「ぐふっ!?」
よろめく彼女に続けてパンチを食らわせる。戦車すら撃破し得る近接格闘攻撃だ。
スキュラは衝撃で数メートルの距離を飛び、そして石造りの壁に激突した。衝撃で壁には亀裂が走ったが、しかし彼女はそれでも気絶しなかった。
無言のまま、ゆらりとスキュラは立ち上がった。
俺は冷や汗をかいた。まだ戦う力と意志が残っているのだろうか。俺がこれまでに戦場で遭遇した装甲キマイラなどの怪物は尋常ではない生命力を誇っていた。体が半分になっても奴らは戦闘し続けたが……
しかし次に聞こえて来たのは、吼え声でも唸り声でもなかった。それは啜り泣きだった。
「うう……うう……ひどいですわ、あんまりですわ……ここまでされるなんて、わたくしに一切の落ち度はないのに……ちょっとおしおきしてやろうと思っただけなのに……」
スキュラはしくしくと泣きながら言った。俺はそれを聞いて我に返った。
興奮のままにΝΣに乗り、身に沁みついた戦闘技術のままに戦ってしまったが、相手はただの少女だった。たとえ怪物的な容姿をしていて、俺に敵対的な態度を取っていたとしても。
この数日の間に受けたイプシロンの優しさに感化されたのだろうか? それとも、単に俺が甘いのだろうか?
そもそもここから脱出するために部屋を出て、結果としてスキュラに追われることになったという経緯を忘れて、俺はただただ申し訳なさを感じていた。
敵に対して「申し訳ない」などと思うのは、それまでの俺からすると奇妙なことだったが。
これは、謝らなければならない。謝罪するために彼女の元へ駆け寄ろうと搭乗ハッチを開けようとした、その時だった。
スキュラが一段と大きな泣き声を上げ、そして叫んだ。
「うわーん!! イーちゃん助けてぇえええ!!」
次の瞬間、中庭の天井のガラスが轟音を立てて破れ、先鋭なシルエットを持った何かが無数のガラス片と共に降ってきた。
地響きと共に土煙が巻き起こる。それが晴れた時、そこにいたのは、俺を森の奥深くで打ち倒した、あの薄紅色をした全身鎧のような機体だった。
スキュラが喜びを爆発させて叫んだ。
「イーちゃん! イーちゃんが『アイギス』に乗って来てくれた! やった! これで勝ちましたわ!」
片膝をついて着地していた薄紅色の謎のΝΣは、ゆっくりと立ち上がった。そして背部から長い槍を引き抜くとおもむろに俺に向けて、操縦室の中心にピタリと穂先を合わせた。
睨み合う二機をよそに、なおもスキュラははしゃいでいる。
「人間! イーちゃんとアイギスが来たからにはあなたはもうおしまいですわ! この世界がひっくり返ってもあなたが『エンテレケイア』であるイーちゃんを倒すことなどあり得ないのですから! さあ、観念しなさい!」
俺はそれを信じられない思いで聞いていた。エンテレケイアとは、つまりイプシロンなのか? 彼女が、どうやらアイギスとかいう名前らしいこの薄紅色の機体に乗っているというのか? 俺にとって因縁の深いこの敵の正体は、あの儚くて優しい彼女なのか?
それでも俺はΝΣのエンジンを切ることはせず、またハッチを開けるようなことはしなかった。ただ機体を正対させて、相手の出方を窺う。
紛れもない強敵。おそらく、あの白い化け物に匹敵するだろう。いや、それ以上か?
いつしかスキュラも言葉を発するのをやめていた。静かな、それでいて極度に張り詰めた緊迫感が、滅茶苦茶になってしまった中庭を支配していた。
俺にはもう武器がない。発煙弾も撃ち切ってしまった。やるならば、パンチか体当たりしかない。あの白い化け物にも拳による打撃は通用した。目の前の相手にも効果はあるかもしれない。
しかし相手に隙を見出すことはできなかった。
こちらから仕掛けるか、それとも相手が動いた瞬間を狙うか。迷った時には積極性を重視せよ。そう教育されてきた俺は、前者を選択することにした。機体を前方へ急発進させて、自分から槍の穂先へと飛び込むように機動する。
意表をつこうとした俺のこの動きは、しかし読まれていた。
相手は後ろに下がるでもなく、槍で突くでも払うでもなく、俺と同じように機体を前進させて、急速に距離を縮めてきた。次に迷うことなく槍を捨てて、あたかも力を込めるように右腕部を大きく後ろへ引いた。
素晴らしい運動性と反応速度に合わせて、おそらくΝΣの薄い装甲ならば簡単に貫通するだろう拳による打撃。
やはり、あの白い化け物と同じく、近接格闘戦を主眼においた機体なのだろうか? そんな考えが一瞬頭に浮かんだ。
相手のパンチが放たれたその一瞬、俺は機体をしゃがませて、そして高く跳躍させた。
「ああっ!?」
スキュラの悲痛な声が響く。
相手の一撃は空を切り、そして次の瞬間には俺のΝΣが上からのしかかっていた。機体と機体が衝突する轟音が響く。
俺は強い衝撃に揺さぶられつつ、思った通りに事が運んで満足していた。
これぞΝΣの最後の手段「カサリダの逆襲」だ。便所やゴミ捨て場に出没する例の羽虫(カサリダ)は、追い詰められると人間に向かって飛び掛かってくるが、あれになぞらえて命名された戦法。ΝΣ乗りの間では冗談半分の奥の手とされている。
だが、そんな奥の手でも、知っているのと知らないのとでは大きな差がある。
それにしても、これからどうしたものか。ささやかな勝利の後に俺にやってきたのは困惑だった。
相手は俺の下敷きになっており、そして俺は外に出ることができない。出ればスキュラに殺されるだろう。
スキュラが大声で叫んでいるのが機外から聞こえてくる。
「よくもイーちゃんを! それによくもアイギスに傷をつけてくれましたわね! 絶対に許さんぞ人間が! 今からそのハッチをこじ開けて……」
「三人ともそこまでよ」
突然、中庭に女性の落ち着いた声が響いた。
曖昧ながらどことなく聞き覚えのあるその声に、スキュラが目に見えて狼狽した。
「あうっ!? お、お母様!? なんで!? お母様なんで!?」
女性の声はどこからともなく聞こえてくる。どうやら魔法か何かによるもののようだ。
「いやな予感がしたから予定を切り上げて、車を飛ばして帰ってきたのよ。案の上だったわ」
その時、薄紅色の機体が俺をそっと押しのけた。どうやら今まで動かずにいただけで、まったくダメージを負っていないようだった。
機体が直立状態へ姿勢を戻すと、背面の搭乗ハッチが開いて、中からバスローブだけを羽織ったイプシロンが銀髪を靡かせて出てきた。
その時、俺の心のどこかで、何かが呟くのが聞こえた気がした。
イプシロンに怪我がなくて良かった……
また女性の声が響く。それはどこか呆れたような調子を帯びていた。
「それにしても、ずいぶんと暴れてくれたじゃない。さあ、あなたも機体を下りなさい。大丈夫、誰もあなたを傷つけたりはしないわ。ちょっとお茶でも飲んで、お喋りをしましょう」
ついに魔女が帰ってきてしまった。
俺の命運はここに窮まった。この騒ぎを起こしたことを追及されて処刑されるのか、それとも実験材料とされて苦悶のうちに死ぬのか。
それでも、俺は従わざるを得なかった。
操縦席から出て、機体から中庭の柔らかい土の上に降り立つと、その瞬間、俺の後頭部を強い一撃が襲った。
鼻の奥から何かが焦げるのと似た臭いがした。苦い土の味もする。イプシロンが声を上げるのが聞こえた。
「お姉様!」
それに答える声は、まるで悪びれていなかった。
「一発くらいはお返ししてやらないと気が済まないのですわ! ほら人間、カサリダみたいに地面にへばりついていないでさっさと立ちなさい……!」
ああそうか。スキュラが殴ったんだな。頭が割れていなければ良いが……
そう思いつつ、俺の意識は瞬く間に朦朧となっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます