第36話 恋愛フラグと終わらない野望
瑠璃が廊下を歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「あ、鳳条さん」
足を止め、振り返る。そこには霧が軽く手を挙げ、どこか気楽な笑みを浮かべていた。
「この前はありがとな」
「何のこと?」
「俺が熱出したとき、姉貴が迎えに来れなくてさ。三条さんの車に乗せてもらっただろ?」
――ああ、それか。
瑠璃は特に気にする様子もなく、小さく息をついた。
「ああ、それね。ただのついでよ。家が同じ方向だっただけ」
本当にそれだけの話だった。霧を特別気にかけたつもりはない。ただ、帰り道の途中だったから、それだけの理由。
「それでも助かったんだよ。だから、お礼くらい言わせてくれ」
彼の口調はいつも通り軽いが、どこか真っ直ぐな響きを持っていた。
瑠璃は一瞬だけ霧の顔を見る。
「……まあ、どういたしまして」
淡々と告げる。それで終わらせるつもりだった。
けれど、なぜか足が動かない。
「……それにしても」
思わず口を開いていた。
霧が「ん?」とこちらを見る。
「桐崎君のこと、少し見直したわ」
自分で言っておきながら、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。けれど、それは嘘ではなかった。
「へえ、俺のどこを?具体的に教えてよ」
霧が興味深げに眉を上げる。その反応がどこか気に入らなくて、瑠璃は視線を逸らした。
「……まあ、その、少しは頼りになるところもあるみたいだから」
つい、そんな言葉が口をついて出た。自分で言っておきながら、なんでわざわざこんなこと言ったんだろう、とすぐに後悔する。
案の定、霧の顔がぱっと明るくなる。
「え、マジ? もうちょっと詳しく聞きたいんだけど」
「それ以上は言わないわよ」
瑠璃はそっけなく返し、そっぽを向いた。
だが霧は諦める気配もなく、腕を組んで「ふむ」と考え込む素振りを見せる。
「じゃあ、俺の解釈で補完するけど……“桐崎君って最高にかっこよくて頼れる男子”ってことでいい?」
「は?」
瑠璃は思わず霧の顔をまじまじと見つめた。本気で言っているのか、それともただの冗談か。
……いや、こいつの場合、たぶん両方ね。
「どこをどう解釈したらそうなるの?」
「鳳条さんが言葉足らずだから、俺が補足してあげたんじゃん」
「調子に乗りすぎよ」
瑠璃は呆れたようにため息をつき、霧を一瞥する。
「すごく的を射た解釈だったと思うけど?」
霧は肩をすくめ、悪びれもせずニヤリと笑う。
「全然違うわよ」
「でもさ、結構命がけで頑張ったじゃん? それなりに評価されてもいいと思うんだけど」
「そういうのは自分で言うことじゃないの」
霧のくだらない会話に、いつものように淡々と返していたはずだった。けれど、つい瑠璃の唇が緩んでしまった。
すぐに取り繕おうとしたが、時すでに遅し。霧の目が驚きと興味の入り混じった輝きを帯びる。
「あれ、鳳条さん、笑った?」
「……は?」
「いや、今笑ったよね?」
「私だって普通に笑うわよ」
「いやいや、いつもはもっとこう、人を見下したような笑い方っていうか……」
「はあ? そんなことないでしょう」
「いや、あるある。 ‘ふん’ って鼻で笑う感じのやつ」
「そんなこと……っ」
瑠璃は言葉を詰まらせたが、霧はニヤッと笑う。
「あれ? もしかして照れてる?」
「…何を言っているの?」
瑠璃は軽く睨むように霧を見たが、霧は全く気にする様子もなくニヤニヤしている。
「いや、だってさ、顔赤いよ?」
「……え?」
「笑顔を見られたの、そんなに恥ずかしかった?」
「違うわよ!」
そういう反応をすればするほど、霧は面白がるに決まっているのに、瑠璃はつい語気を強めてしまう。
「ま、貴重な瞬間を見られた俺はラッキーってことで」
「本当にうるさいわね」
瑠璃はくるりと背を向ける。これ以上この会話を続けていたら、霧がさらに調子に乗るのは目に見えている。
「じゃ、私は行くわ」
「おいおい、逃げるなよー」
「逃げるんじゃなくて、相手をする価値がないのよ」
そう言いながらも、歩く速度が少しだけ速くなったのを自覚する。後ろで霧がくすっと笑うのが聞こえた気がして、瑠璃はさらに足を速める。
まだ、完全に信用できるわけじゃない。
軽薄で適当で、いつも冗談ばかり。真面目な話をしていても、どこか茶化したような雰囲気をまとっていて、本当のところが見えにくい。
――だから、苦手だった。
適当な言葉で場を流し、肝心なところでは本心を見せない。
そういう男を、瑠璃はよく知っている。
あの人と、似ていると思った。
霧を見ていると、嫌でも過去が頭をよぎる。
人当たりの良さも、どこか飄々とした態度も、どこかあの人と重なるようで――無意識に距離を置いていた。
それなのに――あの日、彼は迷いなく沙羅を守ろうとした。
あれが計算や見栄などでできることではないことくらい、瑠璃にも分かる。
……彼は、もしかしたら。
瑠璃はそっと息を吐いた。
父とは違うのかもしれない。
それを信じるのは、まだ怖い。けれど、今までとは違う視点で彼を見てもいいのかもしれない――
そんな思いが、静かに心の奥で揺れているのを振り払うように瑠璃は廊下の向こうへと歩いていった。
夕暮れに染まる道を、瑠璃と沙羅は並んで歩いていた。
沈みかけた陽の光が長い影を伸ばし、二人の足元をゆるやかに揺らしている。
いつも通りの帰り道、なのに。
どこか、今日だけは空気が違う気がした。
隣を歩く沙羅が、先程から何か言いたそうに唇を噛んでいる。
その仕草が妙に気になって、瑠璃はそっと横目で彼女を見た。
「ねえ、瑠璃ちゃん……」
沈む夕陽を見つめながら、沙羅がぽつりと呟いた。
「私、桐崎君のこと、好きかも」
風がそっと吹き抜ける。瑠璃の足が、ほんの一瞬止まりそうになる。
「……え?」
聞き返した声が、思ったよりも上ずっていた。胸の奥が、ざわりと波立つ。
沙羅は恥ずかしそうに頬を染めながら、小さく笑った。
「なんかね、気づいたら……そう思ってた」
夕陽の赤が、彼女の横顔をやわらかく染めている。
瑠璃は目を伏せ、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
代わりに、胸の奥で何かがちくりと刺さるような感覚だけが残った。
瑠璃は心臓が跳ねるのを感じながら、努めて平静を装った。
「……それは、友達として?」
なるべく何でもないふうを装ったつもりだったが、自分でも少し声が硬くなっているのが分かった。
沙羅は、迷いのない瞳で瑠璃を見つめる。
「違うよ」
それはあまりにもはっきりした答えだった。
瑠璃は一瞬、視線を落とす。夕暮れの影が二人の足元を長く伸ばしている。
「……そう、なの…」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。胸の奥が嫌にざわついている。
「桐崎君って、私のことどう思ってるのかな?」
ふと、沙羅がぽつりと呟いた。その声はどこか不安げで、それでもどこか期待しているようだった。
瑠璃はわずかに足を止めかける。
「……どうって?」
「ほら、好きとか、そういうの」
夕暮れの光が差し込む中、沙羅は小さく笑った。でもその笑顔は、いつもの無邪気なものとは少し違って見えた。
瑠璃は喉の奥が詰まるような感覚に襲われる。
「……さあ、どうなのかしら」
自分でも驚くほど、曖昧な言葉しか出てこなかった。
沙羅の言葉は不意打ちだった。
霧がどう思っているのか、それを沙羅が気にしているということ。
そして、霧もまた、沙羅を特別に思っているかもしれないということ。
そんな現実をまざまざと突きつけられて、胸の奥が妙に締め付けられた。
「……瑠璃ちゃんは、どう思う?」
沙羅は、まっすぐ瑠璃を見つめていた。無邪気なようでいて、その瞳の奥には確かな本気が宿っている。
――どう思う?
そんなの、答えられるわけがない。
瑠璃は小さく笑って、夕暮れの道を見つめた。
「……私に聞かれても、分からないわよ。桐崎君の気持ちなんて、知りたくもないし……」
瑠璃の言葉に、沙羅は一瞬まばたきした。
「……そっか」
それ以上、深くは追及しない。
夕焼けが長く伸びる影を二人の足元に落としていた。オレンジ色の光が柔らかく差し込む中で、瑠璃は前を向いたまま、そっと息をつく。
知りたくもない——そう言いながら、ほんとうは知りたくて仕方がなかった。
桐崎霧が、沙羅のことをどう思っているのか。
この気持ちはいったい何なのか。
だけど、それを言葉にすることはできない。自分の中に生まれつつある感情が、何なのかを認めることすら怖かった。
「ねえ、瑠璃ちゃん」
「……何?」
「もし桐崎君が、私のこと好きだったら……どう思う?」
沙羅の言葉に、瑠璃の足が一瞬止まりかける。でも、その動揺を悟られないように、すぐにまた歩き出した。
「……どうも思わないわ」
自分でも驚くほど冷静な声が出る。
「ふうん……」
沙羅はそれ以上何も言わず、ただ静かに歩調を合わせる。
二人の間に沈む沈黙。すれ違う風が、ほんの少し肌寒かった。
霧が机に向かい、淡々とノートにペンを走らせていると、椅子に座りスマホをいじっていた姉のかすみが、ふと顔を上げた。
「最近、学校はどうなの?」
「んー、まあ普通」
適当に答えながら問題を解き続ける霧に、かすみはジト目で視線を送る。
「へえ、普通ねえ……。あんた、前に気になる子がいるとか相談してきたよね?」
霧の手がピタリと止まる。
「……したっけ?」
「したよ。すっごい真剣な顔で」
「……記憶にないな」
「まあいいけど、その子とはどうなったの?」
かすみの声が妙に楽しげなのが気に入らない。ペンを握る手にじんわりと汗が滲む。霧は視線をノートに落とし、無駄に真剣な顔で問題を解くふりをする。
「別に、特に何も」
「へえ、何もねえ」
「そう、何も」
「ふーん?」
かすみがスマホをポン、とクッションの上に放り投げ、頬杖をついてこちらを覗き込む。その目が、明らかに「嘘つけ」と言っていた。
「でもさ、前に話してたときは、結構本気っぽかったけど?」
「そんなことないけど?」
「いやいや、私ちゃんと覚えてるから。霧が珍しく悩んでて、 ‘どうしたら距離を縮められるか’ みたいなこと真剣に相談してきたじゃん」
霧はペンを指から滑り落としそうになる。
……そんなこと言ったっけ?
いや、言ったな。言った気がする。
「あれは……あれだよ、戦略的に相談しただけ」
「戦略的相談って何?」
「情報収集というか、姉貴の人生経験を参考にしようと思っただけで」
「ふーん。で、結局その ‘情報’ は活かせたの?」
「……まだ実験段階」
かすみは「あんたってほんとアホだよね」と呆れたように笑う。
霧はため息をつき、もうこの話題を終わらせるために適当に別の話をぶち込むことにした。
「まあ、何にせよ俺の最終目標は変わらんけどな」
「ん?」
「俺の夢は、ヒモになることだ」
「……は?」
かすみは霧をまじまじと見つめる。
「俺の夢は、ヒモになることだ」
霧は堂々とした顔で繰り返し、軽く腕を組む。
「いや、繰り返さなくていいから。え、まだそんなくだらないこと考えていたの?」
「くだらなくない。俺は気付いたんだ」
霧は真剣な表情で、ペンを置きながら続ける。
「もし運良くお金持ちのお嬢様と付き合えたとしても、それだけじゃダメなんだ。一方的に寄生するんじゃなくて、 ‘この人なら養ってもいい’ って思われる存在にならないといけないんだよ」
霧はどこか誇らしげに語る。
「……いや、何言ってんの?」
「結局、金持ちのお嬢様と付き合えても ‘お前いらない’ って思われたら終わりじゃん。でも ‘お前がいないとダメだ’ って思われるヒモなら、もうそれは半永久的に安泰なわけで。俺はそういう存在を目指したい」
かすみは眉間を押さえ、ため息をついた。
「……あんたさ、それ本気で言ってる?」
「本気も本気、大マジだ」
「……ねえ、真剣な顔で ‘ヒモになる’ って言ってる弟、どう思う?」
「そりゃ、最高の弟だと思うね」
「この家の教育、どこで間違えたんだろうね……」
かすみが遠い目になる。
「いやいや、そもそも この家に教育なんてもの存在してた?」
霧はペンをくるくる回しながら肩をすくめる。
「だってさ、父親の顔も名前も知らないし、母親は ‘自由に生きたい’ とか言って、育児放棄してどっか放浪しているんだぞ?」
霧の口調は飄々としているが、その奥には拭いきれない諦念が静かに横たわっていた。
「……まあ、それはそうだけど」
かすみは視線を床に落とす。
「教育の ‘きょ’ の字もない環境で、俺はよくここまで育ったと思わない?」
かすみは呆れたように息をつき、スマホを再び触りだす。
「そうね。塾にも通わないであの桜華院に受かったしね。奇跡に近いわ」
「だろ? そんな逆境を生きてきた俺が ‘ヒモ’ という高みを目指すのは、ある種の宿命と言える」
霧は机に肘をつきながら、真面目な顔で語る。
「それは高みどころか低みでしょ。普通を目指しなさいよ」
「 ‘普通’ ってなんだよ」
「朝起きて、満員電車に揺られて、会社で上司に怒られながら働くこと」
「うわ、想像するだけで寒気がする」
霧は震えるように肩を抱く。
「まあいいわ。どうせ今に ‘やっぱ普通に働くわ’ って言う日が来るでしょうし」
「いや、それはないね」
「じゃあ、私がいなくなったらどうするの?霧が自分で働いて何とかするしかないんだよ」
「そりゃ、次の ‘お世話してくれる人’ を探すだけだろ」
「アホか」
「時代は共生だよ、姉貴」
霧は静かにペンを手に取り、再びノートへ視線を落とした。
「さて、俺の理想のヒモライフへの道のりはまだ始まったばかりだった…」
独り言のように呟くその声は、どこか達観した響きを帯びている。
「勉強しながら言うセリフじゃない」
かすみはスマホを弄る手を少し止め、呆れたように息を吐く。
それきり、部屋には再び静寂が満ちた。
ペン先が紙を滑る微かな音だけが、夜の闇に溶けていく。
霧の野望は微かに燻る火のように消えることなく、胸の奥で静かに燃え続けていた。
突拍子もないようでいて、彼の中では確かな指針を持った未来図。その行く先に待っているのが夢見た安泰の日々か、それとも現実の厳しさなのか――その答えはまだ、誰にも分からない。
《※近況ノートに挿絵を投稿しています。よければぜひ》
俺は彼女に養われたい のあはむら @noahamura
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