第35話 倒れる

霧が少しずつ足を慣らしながら歩くうちに、沙羅の支えなしでも何とか前へ進めるようになった。痛みはまだ残るが、今はそれよりも宿泊所が目前に迫っていることが嬉しかった。


ようやく建物の明かりがぼんやりと視界に映り、三人は全身がずぶ濡れのまま宿泊所の門をくぐる。

宿泊所の扉を開けた瞬間、温かな空気が三人を包み込んだ。外の冷たい雨と泥の感触がまだ体に染みついているせいで、その温もりがまだ現実味を帯びなかった。

最初に三人に気づいたのは、ロビーで待機していた生徒の一人だった。

「――戻ってきた!」

その一声が引き金となり、周囲が一気にざわめく。

「本当だ!鳳条さんたちだ!」

「すごい……あんな状況から……」

「大丈夫なのか?」

次々と駆け寄ってくる生徒たちを前に、霧は少し気恥ずかしさを覚えながらも、苦笑を浮かべた。

担任の教師が足早に駆け寄ってくる。その顔には、安堵と緊張が入り混じっていた。

「無事だったか!」

強く発せられたその言葉に、三人は思わず姿勢を正す。

教師は三人の泥だらけの姿をじっと見つめ、安堵と疲労の入り混じった表情で深く息をついた。

「土砂崩れに巻き込まれてはぐれたと聞いたときは、最悪の事態も考えた。救助の手配は進めていたし、こちらも捜索に向かう準備をしていたが……」

そう言いながら、教師の視線が三人の全身をゆっくりと確認する。びしょ濡れの服、泥にまみれた手足、疲労の滲む顔。目の前にいる三人が、どれほどの苦労を乗り越えてきたのかが一目でわかる姿だった。

「自力でここまで戻ってくるとはな。危険な状況だったのは間違いないが、その中で冷静に判断し、助け合って行動できたのは大したものだ」

瑠璃は乱れた息を整えながら、一歩前に出る。

「……状況的に、私たちが動くしかなかったんです。待っていても助けが来る保証はなかったし、通信も繋がらなかったので……」

教師は瑠璃の冷静な説明を聞き、短く頷いた。

「それは理解している。君たちの粘り強さと判断力がなければ、こうして無事に帰ることもできなかっただろう。本当によくやった」


教師の言葉を受けて、周囲の生徒たちにもざわめきが広がる。

「やっぱり鳳条が引っ張ってくれてたんだろうな」

「沙羅も意外としっかりしているし」

「二人がいたから何とかなったんじゃね?」

そんな言葉が次々と交わされる中、霧はぼそっとつぶやいた。

「……なんか、俺の存在感薄くない?」

「まぁ、お前は……うん……」

近くにいた男子が言葉を濁す。

「俺も色々頑張ったんだけどな……」

霧が不満げに呟くと、沙羅が霧をかばうように口を挟んだ。

「桐崎君がいてくれたから、私たちも頑張れたんだよ」

そのやり取りを横で見ていた瑠璃は、ため息混じりに腕を組んだ。

「……まあ、そうね。桐崎君がいたおかげで、多少は助かった場面もあったわね」

「ちょっと待て、もっとこう、絶対的な称賛があってもいいんじゃないか?」

瑠璃は腕を組みながら、じろりと霧を睨んだ。

「多少は、って言ったの聞こえなかった?」

「だからその“多少”が気に入らないんだよ!」

霧が不満げに言うと、周囲からくすくすと笑い声が漏れる。

教師はそのやり取りをしばらく黙って見ていたが、やがて深く息をつき、淡々と言った。

「もういいから、まずは風呂に入って体を温めてくれ。休むのはそれからだ」

三人は頷き、ようやく中へ足を踏み入れた。冷え切った体に、温かい空気がじんわりと染み込んでいく。それは、長い長い一日の終わりを告げるようだった。



湯気の立ちこめる風呂場で、霧は肩まで湯に浸かり、大きく息をついた。張り詰めていた神経がゆるみ、全身がじんわりと温まっていく。

豪雨に打たれ、泥にまみれ、極限の緊張の中を駆け抜けた体が、ようやく人間らしさを取り戻していくようだった。


風呂から上がり、タオルで髪を拭きながら廊下を歩いていると、不意に誰かが近づいてきた。

「桐崎君、なんかさっきより格好よくなった?」

振り向くと、沙羅が微笑んでこちらを見ていた。

「……え?」

不意打ちの言葉に、霧は思わず立ち止まる。

「いや、なんとなく。お風呂上がりの顔、ちょっと大人っぽいかも」

沙羅はくすっと笑いながら、少しだけ距離を詰めてくる。

湯上がりの体に、彼女の甘い香りがふわりと混じり、息が詰まった。

「お、おう……?」

霧は一瞬動揺したものの、すぐに口元をゆるめ、ニヤッと笑った。

「へぇ、白鷺にそんなこと言われるとはね。俺ってそんなにイケてる?」

「さあ?」

沙羅は悪戯っぽく微笑みながら肩をすくめる。

「そこは“めっちゃかっこよくなった”とか、“ドキドキしちゃった”とか、そういうのが欲しいんだけど?」

「そんなこと言うわけないじゃん」

沙羅は軽く笑いながらそう言うと、ふと視線を外した。

「……ちょっと座らない? 立ち話もなんだし」

「そうだな。俺も風呂上がりでちょっとクールダウンしたいところだ」


二人は宿泊所の休憩室へと向かった。すでにほとんどの生徒は部屋へ戻っているのか、広い空間には誰もいない。窓の外では、未だに雨がしとしとと降り続いていた。

「……やっと落ち着いた感じだな」

霧はソファに腰を下ろし、ぐっと伸びをする。

沙羅も霧の隣に腰を下ろし、軽く息をついた。

「本当に。なんか、ずっとバタバタしてた気がする」

霧は天井を見上げながら、くすっと笑う。

「まぁ、土砂崩れに巻き込まれて、泥だらけになって、岩に挟まれて……普通の郊外学習よりは刺激的だったよな」

「……うん、いろんな意味でね」

沙羅はそう言いながら、膝の上で指を組む。

「でも、こうやってちゃんと戻ってこられて、ちょっと安心したかも」

霧は彼女の横顔をちらりと見た。窓の外の雨が静かに降る中、沙羅の頬にはほんのりと赤みが差している。風呂上がりのせいか、それとも――。

「……なあ、白鷺」

「うん?」

「俺さ、前からちょっと気になってたことがあるんだけど」

「なに?」

沙羅は首をかしげる。

霧は少し考えるように天井を仰ぎ、それから意を決したように沙羅を真っ直ぐ見つめた。

「この前さ、偶然会ったとき…男の人と待ち合わせしていただろ? あれ……彼氏?」

その問いに、沙羅は目を瞬かせ、それからふっと笑った。

「え? あぁ……あれ、お兄ちゃんだよ」

「……兄?」

「うん、久しぶりに買い物に付き合ってもらっただけ」

「マジで?」

「マジで」

沙羅はくすくす笑いながら、少しだけ距離を詰めてくる。

「もしかして……気になってた?」

沙羅がいたずらっぽく笑いながら霧を覗き込む。その瞳の奥には、どこか楽しそうな色が浮かんでいる。

「いや、そりゃまあ……普通に気になってたけど」

霧は努めて平静を装いながらも、心の中ではほっと胸をなでおろしていた。彼氏じゃなくて兄――その事実だけで、体の奥からじわりと温かいものが広がってくる。


――って、あれ?


さっきまで心地よかったはずの体温が、妙に肌寒く感じる。気のせいか、指先が冷えてきた気がした。

腕を抱くようにして身震いすると、沙羅が首をかしげる。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと寒気がしてきたような……」

そう言いながら、立ち上がろうとした瞬間、くらっとめまいがした。

「うわ、やべ……」

思わず壁に手をついてバランスを取ると、沙羅が慌てて支えに入る。

「ちょっと、大丈夫?」

「いや……たぶん……」と霧が答えようとしたが、言葉を続けるのが妙に面倒くさかった。

すると、沙羅も「……あれ?」と額に手を当て、眉を寄せた。

「なに?」

「私もなんか、ちょっと……くらくらする……」

そう言いながら、沙羅もゆっくりとソファにもたれるように座り込む。


ソファにぐったりと座り込んでいた二人は、疲労と熱のせいで意識がぼんやりと霞み、もはや動く気力すら湧いてこない。

そんな様子にいち早く気づいたのは、偶然通りかかった同級生だった。

「……おい、なんか二人ともヤバくね?」

「うわ、顔色悪っ!まさか熱出てんの?」

騒ぎが広がり、あっという間に周囲の生徒たちが集まってくる。

「いや、大丈夫……」と霧が口を開くも、声にまったく力が入らない。

「大丈夫に聞こえないんだけど!」

「……私も、ちょっと頭がぼーっとして……」

沙羅も弱々しく呟く。

そのとき、騒ぎを聞きつけた瑠璃が現れ、二人の様子を見るなり大きくため息をついた。

「とにかく、医務室に――」

瑠璃がそう言いかけた瞬間、彼女自身の足元がふらつく。

「……え?」

違和感に気づき、手を額に当てる。じわりと広がる熱、鈍く締めつけられるような頭痛。

「ちょっと待って……なんか、私も……」

瑠璃の言葉が途切れると、周囲の生徒たちがざわめき出す。

「え、もしかして…」

「……頭痛い……」

瑠璃もおぼつかない足取りで壁に手をつき、ゆっくりと座り込んだ。

その場にいた全員が凍りつく。

「お前もかよ!!!」

誰かの鋭いツッコミが響いた瞬間、場の空気が一気にざわついた。

気づけば三人そろってぐったりと座り込み、もはや反論する気力もない。


こうして、霧、沙羅、瑠璃の三人は仲良く発熱し、予定を繰り上げて帰宅することとなった。

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